第23話 冬の朝

 南蛮人なんばんじんが去って日常にちじょうが戻ってくると、さて、いよいよ人手ひとでが足りない。下働きの者が三人やめたけれどその後、補充が無い。

 とうとう洗濯せんたくまでさせられるはめになった。

 昨夜は少し雪が降った。外に出しっぱなしだったので、表面がうっすら凍りついてしまっている大盥おおだらい井戸端いどばたに持ち出し、手にしたつちおもてに張った氷を叩き割ると、洗濯を始めた。

 洗濯機などという便利な物は無い時代である。手でこすっていては力が入らない。たらいに水を汲んで、洗剤代わりのかまどの灰を混ぜ、洗濯物を入れ、足で踏むのだ。小袖こそですそからげると、氷で傷つけないよう、そろそろと足を水に入れた。

 冷たいなんてものじゃない、寒気さむけが背中を走って脳天のうてんまでき抜けて、全身の毛が逆立さかだった。でもそれは最初だけで、たちどころにになったつま先から感覚が無くなっていった。それでも一生いっしょう懸命けんめい、足を交互こうごに上げていると、

せいの出ることやな。」

 後ろから足音が近づいて、気安きやすく声をかけてきた。

(又、来た)

 鞠も困るけど。

「何や、知らんりか?冷たいことよの。」

 この人も困る。

 気軽にしゃがみこんで、紅の真正面ましょうめん陣取じんどった。

関白かんぱく殿下でんか。そんな所にお座りになっては困ります。」

くるしゅうない。」

 時の関白、近衛このえ前久さきひさ鷹揚おうように言った。

 彼の父・稙家たねいえは、将軍・義輝の母、慶寿院の兄にあたる。更に義輝の正室せいしつ、おいちゃのつぼねは彼の姉という二重の縁で結ばれている。

 従兄弟いとこにして義理の兄弟。

 年も同じで、共に鷹狩たかがりや馬に目が無いときている。

 気が合う。

 夜毎よまい酒宴しゅえんの仲間、と思っていたら。

「そちは、ほんにかいらしい可愛いのう。越後でも言われへんかったか?」

「いいえ、全然。」

「それは心外しんがい。」

「私なんかより叔母さまは、もっとずっと、お美しかったですから。ゆき上臈じょうろうのよう、などといわれていました。」

「何と!そちに叔母上がおいでか!今、何をしとられるのや?」

「亡くなりました。」

「えっ、それは無念むねん!……せやない、残念なことや。ところで、何、洗っとる?」

「見ないでください。」

「ほーっ、それは、そちのか?」

「ちっ、違います、私のはこんなに大きくありません。これは千鳥さまのです!」

「なんと!千鳥のか!それ、もそっとちこう……。」

「いい加減かげんになさってください!」

「そちのっさい手では難儀なんぎであろ。洗った物をしぼるのを手伝ってもよいぞ。」

「結構です。」

「そう言うな。貸しゃれ。」

 言うと、洗い終わった洗濯物を勝手に取り出して、おお冷た、こんな氷のような物を洗っとんのか、そちも随分ずいぶんつらいであろ、と言いながら、案外あんがい慣れた手つきで絞った。

「そちはほんに冷たいのう。でもそうやって口をがらせていても、やっぱり、かいらしいわ。」

「……。」

「紅、そちは四辻よつつじであろ?四辻は近衛の家礼けれい{臣下}や。せやさかい、麿まろの言うことは聞かんとあかんで。」

殿下でんかは」

 紅は言った。

「何で、いつも武衛陣に出入りなさっておいでなのですか、公家なのに。」

「そちの目から見ても」

 前久は、しぼった洗濯物をさおけながら言った。

「公家と武家は違うか。」

「違います。でも殿下は、他の公家の方とは又、違います。」

「どこがや?」

「全てです。」

 前久は、公方の夜の訓練に参加している。

 自分も訓練に出て、彼の武術の腕を実際にこの目で見るまでは、失礼ながら、公家のくせに武衛陣に入りびたっている女好きのお気楽なお坊ちゃま(ずいぶんとうは立っているけれど)と思っていた。が、剣の腕も、弓の腕も、公方に引けをとらない。正直、ここまで出来るとは思わなかった。

「公家に、あそこまでの戦闘能力は必要無いでしょう。武家になりたいのですか?」

「ええとこをついとるが」

 前久は腕を広げて、大きくバツを作った。

はずれ、やな。べつに武家になりたいわけやない。公家は公家、武家は武家や。麿にいっつも付いてくる連中もそう思うとるはずや。」

「夜は正親町さま、烏丸さま。あと、昼間は久我さま、高辻さま。」

「武家になっても仕様しょうが無い。」

 前久は真面目まじめな顔になった。

栄枯えいこ盛衰せいすいが激し過ぎるさかいな。」

 足利将軍家の正室は代々、日野家から出ていた。慶寿院は、近衛家から出た初めての正室である。だがこの時代、足利将軍家とつながりが深いのは危険なことであった。実際、前久の父・稙家は、先代将軍と共に三好に追われて、近江に逃げざるを得なかった。

「麿も昔は、先代将軍の名を一文字たもうて、晴嗣はるつぐと名乗っていたのや。せやけど、色々と不都合ふつごうがあってなあ。とうとう命さえ取られかねんことになってしもうて、名を変えて前久としたのや。関白といえば、公家の中でも第一の位や。天皇に次ぐ地位や。その麿が、武家の顔色かおいろうかごうて、自分の名前さえ、ままならぬとはなあ。情けないことや。」

 首を振った。

「あいつのことは認めとる。」

 公方のことだ。

徒手としゅ空拳くうけんで、ようやっとると思うわ、感心するわ。普通の人間なら、とっくにくじけて投げ出すところを、よう踏みとどまって戦っとると思う。幼馴染おさななじみやし、従兄弟やし、義理の兄弟や。助けてやりたいと思う。そんでも残念なことに、あいつには意志はあっても力が無い。そこへ現れたのが山内や。そちの主よ。」

 前久は思い出をたどっているらしく、ほうっとため息をついた。

格好カッコ良かったわ。これぞ武士、これぞ男と思うた。」

「ええ。」

 その感想には、心から同意した。

 前久は上杉謙信に魅せられた。

 あるいは、義輝が謙信に傾倒けいとうした以上に、だったかもしれない。

 あんまり気に入って、謙信に助力じょりょくすると誓って血判状けっぱんじょうわした挙句あげく、とうとう越後までついて来てしまった。

 前久は、謙信の関東かんとう平定へいていの戦に同行どうこうした。

 彼は、関白という地位の自分が関東管領の謙信に同行すれば、関東の諸侯は雪崩なだれを打ってなびくだろう、と簡単に考えていた。ところがそうは問屋とんやがおろさなかった。

 越後と関東は遠く、その間に雪をいだく山々がそびえている。

 謙信が戦いをいどんでも、北条は城に引きこもってしまって戦おうとはしない。そのうち北条と結んだ武田が信濃しなのにちょっかいを出して、謙信をいらだたせる。

 彼が越後に帰ってしまうと、それまで彼に忠誠を誓っていた小さな城の主たちは又、北条の旗のもとつどってしまう。

 いつまでたっても果てしない堂々どうどうめぐりに、安易あんいな考えで戦争の実態も知らずにいきなり飛び込んできた前久は、ほとほと疲れてしまった。

 結局、前久の『冒険』は、二年に満たずに終わりを告げた。

「いや、血の盟約めいやくまでして、逃げるように帰ってきてしもうたやろ。」

 前久は困りきった顔で、わらわに訴えた。

「実際血を流した山内からすれば、血の盟約めいやく反故ほごは許せないことやろ。たいそう腹をたてているとのことでな。全くもっともなことや。山内にはほんに済まないことをした。せやさかい、そちがここに来たときには、山内も機嫌きげんを直した、と思うて本当に喜んだのや。」

 それってあたしが、お屋形さまからの仲直りの貢物みつぎものか何かだと思われたってことかなあ?

 ううん、小侍従さまに言われたとおり、あんまり難しいことは考えないことにしよう。

「でも、お屋形さまもどの程度、期待なさっておいでだったんでしょう?」

 紅は首をかしげた。

「鎌倉に幕府があったときだって、京からお公家の将軍が下ってきても、実際の職務は執権しっけん代行だいこうしていたんですよ?あ……。」

 言ってしまってから、前久に失礼だったな、と気づいた。

 前久はあんまり気づいていないようで、

「うん、それでも、北条は少しは気にしていたみたいやったがの。」

 わけがましく言った。

「のう、紅。」

 前久は紅に、にじり寄った。

「な、何です?」

 彼女が警戒けいかいして後ずさりすると、前久は真剣な顔で言った。

いくさは、こおないか?」

「……。」

「麿は、こわかった。」

 前久は、ぽつりと言った。

「山内が越後に帰国した際も、危険を覚悟で古河城に残った。豪胆ごうたんだと皆、めそやしてくれたが……本当は恐ろしかった。都に居れば、たとえおどかされても、本気で命をとろうとするやからはおらぬ。麿が関白であるということを皆、知っていて、尊重そんちょうしてくれるわ。せやけど関東では、関白が何者なにもんであるかも知らん者ばかりや。いつ命を失うか本気で恐れたのは、あん時が初めてや。あんな恐ろしい思いを、武家の者たちはいっつも味わっておるのやな。」

 紅は洗濯物を手に取った。

 誰の物か、食べこぼしのみが付いている。

「我ら武家に生まれた者の手には血の染みが付いて」

 ごしごし、こすってみた。

「洗っても落ちません。でも殿下は、手にこのような染みをお付けになる必要が無い。こんな何でも力で解決する時代に、何を言っているんだろう、とお思いかもしれませんが」

 日にかしてみた。

 ちょっとは薄くなったかな。

 おそらく、これ以上は落ちまい。

「ある意味、お幸せなことと存じます。私たち武家の者は、恐ろしいなどと思うことは許されないのです。命を惜しんではならぬのです。特に私のように、いえ、かつての、と言わねばなりませぬが、姫君と呼ばれたり、城のあるじで、普段は下の者にかしずかれ、戦時には家臣に死ねよと命ずることの出来る者は特に。他人の後ろに隠れて、家臣を自分のために死なせた後、命を惜しんではいい恥さらしでございますから。でも、私の祖父は申しました。命を惜しめ、と。」

 洗濯物をぎゅっとしぼると、立って、差し渡したさおに掛けた。ぴんと伸ばして、たたいた。

「命を惜しまぬというのは綺麗事きれいごとじゃ、と申しました。誰でも命は惜しいのだ、だからこそ上に立つ者はまず、自分の命を惜しめ、と。さすれば、他人が命を惜しむ気持ちがわかるであろう、と。」

 振り向いて、前久を見た。

「そのような恐ろしい思いをなさって戻ってこられたのに、何故なぜまだ公方さまと共に夜の稽古けいこに出ておいでなのです?」

「実際のいくさの真ん中に我が身を置いてみて、な。」

 前久はため息をついた。

「皆がめてくれる自分の腕前うでまえに、自信がうなった。こんなもん、実戦では何の役にもたたん。それでも毎晩剣を振るったり、弓を射たりしているわけは、関白とは何かを、自分で考えたいからや。ろうと思って誰でも成れるわけやない、天皇を除けば人臣最高の地位を、ただ関白の息子に生まれたというだけで、麿は手に入れた。天下てんかあさごとく乱れるこの世の中に、人には無い物を持って生きておるのや。人生は一度きりや。持って生まれた物を生かそうと思わんで、どうする。」

「殿下は」

 紅は言った。

「正直で、勇敢ゆうかんで、誠実な良いお方です。少なくとも私は、そう思います。」

「そなたも」

 前久も言った。

「武家に生まれて苦労が絶えないの。自分以外の者のことも心配せなあかんしな。」

「!」

「あと四、五年もしたら、初陣ういじんやろ。普通、初陣は、ゆるいとこに形だけ出して、手柄てがら立てさすもんやが、上杉の戦場はもキッツイさかいなあ。」

 言葉には出さなかったが、顔に、

「ゲッ!」

と描いてあったようだった。

「喜平二のことや。何、驚いてんのや。もう皆、知っとるで、そちのおもびとのことは。そうそう、喜平二のびとに、与六とかいう、かいらしい男の子がいるっちゅうのも聞いたわ。その子も一緒に、戦場に駆り出されることになるやろな。」

「み、皆って、誰ですっ?」

「公方に、小侍従に、叔母上、摂津糸千代丸に……。」

「って、ほとんど全員、ってことじゃないですかっ!」

 いったいどうして。

 紅の考えを見透みすかしたように、前久は、

「鞠、や。そこら中、れ回っとるわ。源氏げんじ雲井雁くもいかり、いや、伊勢いせ筒井筒つついつつや、言うて。」

 鞠さまっ!

 喜平二の為にいのっているところを見つかってしまい、お姉さまには想い人がいらっしゃるのでしょう、と、あんまりしつっこいから、つい根負こんまけしてしゃべってしまったのだが。

 まさかそのまんま、武衛陣中に広まっているとは。

 紅が呆然ぼうぜんとしていると、前久は言った。

「疲れたか。こっこは人使ひとづかいが荒いさかいなあ。どや、麿んとこに来いひんか?楽やで。」

「行きません。」

 きっぱりと言った。

「私が居ないと、ここの人たち、困っちゃうと思うから。」

「ほう、自信満々やな。」

「それが証拠に」

 にこっと笑った。

「おお、かいらしいのう。」

「もう今参いままいりって呼ぶ人、いません。」

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