第08話『変えなきゃならないこと』
虹ヶ丘町に引っ越してきて早くも一週間が経とうとしていた。
最初こそ色んな誤解や事件があった訳だが、まるでずっと前から居たかのように俺はすっかりクラスの風景に溶け込んでいた。
今となっては当初向けられていたゴミを見るような目線も無くなっていて過ごしやすく、巡たち以外のクラスメイトも話しかけてくれるようになっていた。
とは言え、基本的に行動を共にするのは巡、椛、葵雪の三人だけだった。ああ、学年が違うから含めなかったが小夏とひよりも昼休みと放課後は一緒にいる。
このメンバーで固定しているのは巡がそうしたいと言うからであって、他にこれといった理由はない。
理由はないが……疑問はあった。
確かにこのメンバーと過ごす日常は楽しい。巡もこのメンバーが一番だと思っているのだろう。でも何だろう。あまりにも固執しすぎているような気がした。
数学教師が黒板に今やっているところの応用問題を写す音とそれをノートに書き留めるシャーペンの音だけが延々に響く教室。
外は季節外れの雨が降っていた。滴る雨の雫で窓に映る自分の顔が泣いているように見える。
それが何となく気に入らなくて黒板へと視線を戻すと問題は書き終えてあり、俺は頭の中で問題を解くと、途中式をすっ飛ばして答えだけをノートに書き留める。
「――何を考えているの?」
巡が小声で話し掛けてくる。
俺は視線だけ巡の方へ向けて思考にふけり始めると、巡は何も言わず、表情一つ変えずに俺の言葉は待ち続けた。
固執すること。
別にそれが悪いとは思わない。俺だって楽しい日常を送ることに固執しているのだから当然だ。けど、俺の固執と巡の固執は根本的な部分が違っているような気がしてならない。
同じものを見ているはずなのに、巡は表面上だけじゃなくてもっと奥深く――人の見えない部分を探っている。だから信じられる人を選ぶことが出来るのだろう。
「……」
いやいや、神様じゃあるまいしそんな大層なものじゃないか。せいぜい勘が鋭いとか人より見る目がある程度のこと。深く考えること自体間違っている。
「修平くん。修平くんが何考えているか当ててあげようか?」
青白い蛍光灯に反射して巡の瞳が妖しく光る。
覗き込まれた瞳から何もかもを見透かされているような気がして俺は反射的に目を逸らした。
「……今日の巡、なんか怖ーよ」
「そうかな? いつも通りだと思うよ」
「そういう風に言うやつほどいつも通りじゃないんだよ」
「今日はお昼ご飯何処で食べようか?」
「露骨に話逸らすな」
「あの問題解けた?」
今後は黒板を指さしながらノートを覗き込んでくる。これ以上この話を続けるなって事か。
ため息を吐きつつノートを巡に見せる。
「答えだけ……? 途中式は書かないの?」
「途中式は頭の中に書いた」
「いやー……それは書いたって言わないんじゃないかな?」
「これくらいの問題ならわざわざ書く必要ないだろ?」
「これくらいって……私全然分からないんだけど」
「マ?」
「マジです。教えてくれると嬉しいな」
「分かった」
授業中だから堂々と立つわけにはいかず、俺たちは机をくっつけてノートを真ん中に置く。
巡の香りが近くなる。何処かで嗅いだことのある懐かしくて優しい香りが鼻腔をくすぐる。女の子の匂いを嗅ぐ趣味があるわけではないが、やっぱり何処かで嗅いだことがある香りに少し戸惑う。
「修平くん?」
「あ、悪い。えーっと、この問題はだな」
俺の勘違い……ということはないが、あまり詮索しないことにしよう。
「まずどの公式を使って解くか分かるか?」
「んと……これかな? さっき似たような問題で使ったし」
「違う。これは引っ掛け問題だからそれじゃなくてこっちの公式を使うんだよ。見ててくれ」
教えた公式を使ってノートに途中式を書いていくと、巡の顔が納得の色に染まる。
良かった。小夏と違って基礎的なことはちゃんと理解してて。あいつは基礎を理解してないから教えるの苦労するんだよな……。
「修平くんってもしかして頭良い?」
問題が解けて満足気の表情のまま巡は訊ねてくる。
「普通。けどこの辺りの問題は解けるから分からなかったら聞いてくれ」
「ほんと? なら中間テストの時頼りにしてもいいかな?」
「数学苦手なのか?」
「応用とか引っ掛けになると頭が混乱して真っ白になるタイプです」
「あるある。まぁ普段から家でも勉強しておけば案外何とかなる」
「学校以外で勉強なんてしたくないよ……。それに今の私にはやらなきゃいけない事があるから」
「やらなきゃいけない事? 普段の勉強よりも大切なことなのか?」
「うん。勉強なんてどうでもいいって思えるほど大切なこと。私にしかできない。だから私が変えなきゃいけないんだ」
巡の瞳は真剣そのものだった。
ああ、俺はこの瞳を知っている。これは覚悟を決めた人間の瞳だ。
普段の明るさとは違う巡の奥深い部分。それは嵐の前の海のように心をざわつかせ、同時に不安が押し寄せてくる。
「……変えるって、何をだよ?」
たまらず俺は訊ねた。
けれど巡は静かに笑って返答を誤魔化し、それ以上何か喋ることはなかった。
止まない雨はない。厚い雲の間からひっそりと日が射し込んできていた。けれど俺の心を覆う靄のようなものは晴れることはなかった。
※
「――とまぁ、こんな事があったんだよ」
放課後。教室に残らず直帰した俺は家に着くなり着替えもせずにソファーに寝転ぶ小夏に授業中の出来事を話した。
こぽこぽとコーヒーメーカーの音が響くリビング。小夏は考え込むような素振りを見せた後、体を起こして正面に座る俺を見据え口を開く。
「誰にでも隠し事の一つや二つあるんだから深く追求するのはやめた方がいいと思うよ。それにさ、もしプライベートな問題だとしたらお兄ちゃんに何ができるの? 何もできないよね?」
「俺だって馬鹿じゃない。それくらいは分かってる」
小夏の意見はもっともだ。酷い言い方かもしれないが、友達とは言えど所詮は他人。大抵の人間は自分を第一に考える。
自分よりも他人なんて言ってる奴を世間一般的にお人好しと呼ぶが、そんな人間そうそういない。
「お兄ちゃんってさ、そういうところあるよね」
「抽象的だな……。言いたいことは分かるけど」
「でも私は好きだよ? お兄ちゃんのそういうところ。お兄ちゃんは優しいもんね」
好きだよと言われ、思わずドキッとする。
まったく……俺は妹相手に何を考えているんだか。
「誰にだって優しいわけじゃない。優しくする人くらいはきちんと選んでるつもりだ」
「私にはすっごく優しいよね。だからいつまでも私に優しいお兄ちゃんのままでいてね? お兄ちゃん大好き! 愛してる!」
「……お前何を考えてる?」
「え? 別にお兄ちゃんを褒めて調子に乗らせて夕飯作らせようとかそんなことは全然考えてないよ?」
「めっちゃ考えてるじゃねーか!! そんな悪知恵の働く子に育てた覚えはありません!!」
何処ぞの悪ガキを叱るような母親口調で喋ると、小夏は面倒くさそうに息を吐いて立ち上がる。
そのままキッチンに入って食器棚からマグカップを二つ取り出す。
「お兄ちゃんもコーヒー飲むよね?」
「飲む」
気づけばコーヒーの香ばしい香りがリビングに充満していた。話し込んでいるうちに出来上がっていたようだ。
小夏はてきぱきと出来立てのコーヒーをマグカップに入れ、冷蔵庫から取り出したミルクをサッとかき混ぜる。
完成したコーヒーをテーブルに並べ、ポテチの袋を開けながら小夏は俺に視線を投げかけてきた。
「結局、今日の夕飯はどうする?」
「あー……またあそこで良くね?」
「異議なーし」
三日ほど前に小夏と気ままに散歩をしてて気づいたのだが、商店街の路地を抜けた奥まったところに大衆食堂がある。
値段も財布に優しく、主に和食で形成されていることもあり栄養も偏ることがない。どのメニューを頼んでも白米と味噌汁が付いてくるから日本人なら満足間違いなしの場所だ。
「コーヒー飲んで一息ついたら行こっか」
「おけ。腹減ってるから今日はガッツリいくわ」
「あそこのご飯美味しいからたくさん食べられるよね。そしてご飯の大盛り無料ってのが大きい」
「大盛り無料も魅力的だけどさ、もしおかわり自由だったらどうよ?」
「讃える。この町にいる間は絶対に自炊しない」
「毎日食っても金に余裕あるからな」
「と言いつつもたまにお兄ちゃんのご飯が食べたいと思う妹がここにいる」
「何食いたいんだ?」
「シチュードリア!!」
「明日な」
「やった! お兄ちゃん愛してる!」
コーヒーを飲み終えマグカップを流しに入れると小夏は「準備してくる」と言って部屋に戻っていった。
俺も明日の夕飯のことを考えつつ準備を始めた。
※
田舎の夜は暗くて静かだ。
繁華街のネオンの明かりも、人々の喧騒もこの場所には無い。まだ19時にもなっておらず夜が始まったばかりとも言える時間帯なのに人の姿は一切無く、暗闇で目を光らせる野良猫が並んで歩く俺と小夏を睨んでいた。
誰ともすれ違わないまま商店街に着く。
この時間はもう店仕舞いらしく、見える範囲で明かりの付いてる店舗は一つもなかった。
昼間の賑やかさが嘘のように思える夜の時間。印象があまりにも違うせいで昼と夜では世界が違うのではないかと錯覚してしまう。
この時間帯に風巡丘に行ったことはなかった。行こう行こうと思っている癖して足が向かない。丘を護るように生えている木々が侵入を拒むように立ちはだかっているからだ。
月明かりは生い茂る葉によって遮られ一切届かず、雨が降らなくとも常時ぬかるんでいる地面は歩きづらく危険を伴う。だから散歩感覚で行くのは躊躇われる。
「なーに考えてるの?」
商店街に着いた途端口を開かなくなった俺を心配してか明るい口調で小夏が話し掛けてくる。
「夜の風巡丘がどうなってるのか気になっただけだ」
「ああね。だから丘がある方ずっと見てたんだ」
「そんなところだ」
「帰りに行ってみる?」
「危ないからやめとく」
小夏の提案をやんわりと断る。
昼ならまだしも夜はやっぱり危険だろう。行くなら俺一人で行こうと心に決めた。
「あ、見えてきた」
路地裏を抜けると美味しそうな匂いが俺たちを出迎えてくれた。空腹を刺激する匂いを辿っていくと木造の昭和風な建物が現れる。
虹ヶ丘町でこの時間帯まで営業しているのはこことコンビニくらいなものだろう。
「あら、あんた達また来たの」
店に入るとすっかり俺たちの顔を覚えてくれた自称女将さんが出迎えてくれた。
「まだ時間は平気ですよね?」
「大丈夫よ。今水持ってくるから適当に座ってて」
昨日一昨日と同じ席に座る。
店内には俺たち以外の客の姿はなく、実質貸切状態のようなものだった。
「……この店、経営大丈夫なのかな? 昨日も一昨日もノーゲスだったよね」
「昼間は繁盛してるんじゃないか……?」
「あんたらに心配されなくてもやってけてるよ」
自称女将さんは水の入ったコップをテーブルに置く。
「あ、俺は生姜焼き定食」
「私はサバの味噌煮定食」
「はいはい。少し待つんだよ」
何か言いたそうな顔のまま女将さんは奥に引っ込んでいった。
それからすぐに料理を作る音と匂いが漂ってくる。空腹はピークを迎えていて小夏と二人、今か今かと待ち構える。
「お待たせましたー。生姜焼き定食とサバの味噌煮定食です」
そしてその時はやってくる。
テーブルに並べられた料理は今すぐにでもがっつきたくなるほど美味しそうでゴクリと唾は飲み込む。
俺の生姜焼き定食、小夏のサバの味噌煮定食、そしてトンカツ定食。どれも食欲を唆る匂いが……って、何故トンカツ?
「――相席させてもらうわよ」
トンカツ定食の置かれた正面の席に座る女の子。驚いたことにその正体は葵雪だった。
流石に小夏も驚いているらしくお茶碗を持ったまま固まっていた。
「おま、こんなところで何してるんだよ」
「こんなところとは失礼ね……。ここ、あたしの家よ」
「家?」
「そう。ここの二階があたしの家。お母さんはこの食堂の自称女将さん」
実の娘にも自称を付けられてるのか……。
「たまにこうして手伝いをしているのよ。まぁお客さんなんてあまり来ないから楽なものよ?」
テーブルに添え付けられているソースをトンカツに掛けながら葵雪はため息を吐く。
客足が少ないことは多少なりとも気にしているらしい。
「俺たちほぼ毎日夕飯ここで食おうかと思ってるんだが」
「ほんと? ほぼじゃなくて毎日来てくれて構わないわよ?」
「小夏が明日ビーフシチュー食いたいって言うから明日は家で食う予定。そっからしばらくは通うから許してくれ」
「許す」
「ありがたき幸せ」
歴史劇であるような主と従者のような会話を繰り広げ、俺たちは箸を進める。
「このお味噌汁すごく美味しいです。味噌は何使ってるんですか?」
「赤味噌だよ。それにプラスで特製ダシを使ってる。内容は企業秘密」
「葵雪も料理できるのか?」
「店のメニューなら一通り作れるわよ。二人の料理作ったのあたしだし」
「マジか。葵雪って料理上手いんだな」
素直な感想を口にすると葵雪は照れくさそうに頬をかく。
「二人は? 料理できるの?」
「お互い料理できるくせして面倒くさがってやらないタイプです」
「けど明日は作るんだ?」
「小夏のお願いだからな。兄として断るなんて選択肢は無い」
「……あんたシスコンね」
はっきりと告げると葵雪は呆れたようにテーブルに肘をつくと、サラッと髪の毛切りが垂れる。
「水ノ瀬さん! 私は生粋のブラコンですよ!」
「胸張って言うことじゃないから。自覚してるだけマシなのかもしれないけど」
「自分のことをブラコンじゃないって自覚してる妹なんてこの世には存在しないよ」
「その理屈だと妹はみんなブラコンになるけど……?」
「妹はみんなブラコンです」
「言い切るね……。その自信はどこから?」
「無論、私からです」
「ちなみに全世界の兄もシスコンだ」
「あんたらの仲が良いことは分かったからそろそろ黙って。頭が痛くなってきた」
黙れと言われたら黙るしかない。
黙々と箸を動かして目の前の食事に集中する。あー、生姜焼き美味ぇ……。
「はい。食後にお茶はいかが?」
食事が済む寸前に葵雪のお母さんが熱いお茶を席まで持ってきてくれる。
お礼を言って湯のみを受け取り、三人同時にずずーと茶を啜る。
「はぁ〜。ホッとするね、お兄ちゃん」
「ああ。やっぱり締めのお茶を飲まないと夕食取った気分にならないよな」
「日本人で良かったわ……」
お茶に和みつつ食後の団欒が始まる。
そんな俺たちを葵雪のお母さんは遠くから微笑ましそうに眺めていた。
※
「随分長居しちまったけど大丈夫だったか?」
会計を済ませ外に出ると、見送りのためにやってきた葵雪は嬉しそうに手を合わせる。
「全然大丈夫よ。お母さんも楽しそうにしていたしね。また来てくれるんでしょ?」
「ええ。明後日また食べに来ます」
「二人がよければ巡と椛、それからひよりも誘ってあげてよ。きっと喜ぶからさ」
「売上にも貢献してくれるしな?」
「そんなことは微塵も考えてないわよ」
「なら目を合わせてくれよ」
スッと目線を逸らした葵雪。邪な考えがある証拠だった。
「まぁそれはともかく、いつでも来てよ。あたしもお母さんも待ってるからさ」
「おう。そうさせてもらうわ」
「それでは葵雪さん、おやすみなさい」
挨拶を済ませて帰路に着く。
葵雪は俺たちの姿が見えなくなるまで手を振っていてくれた。
to be continued
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