繚華の龍戦師

タオ・タシ

繚華の龍戦師 Ⅰ

序章 始まりの眼

0.


 サフィーナ王朝暦元年――

 ここは、新王朝が樹立された王都から、南方に6ペネタ(約13キロメートル)離れた小高い丘。その麓に、大きく口を開けた洞穴があった。

 入り口から緩やかに下ること20分ほどで、洞穴は広く、大きな終着点と相成る。そこには、地面から見て垂直に削り、ならされた壁があった。壁には一面に文字が刻まれ、文字群が集まって一つの模様を作り出している。それは、魔神を封じるための造作であり、現に魔神は壁に張り付けられていた。

 それに対峙する1人の男と、その2倍近い身長を持つ1体の真龍しんりゅう。その赤き巨体と変わらぬ体躯を大の字に壁に張り付けられ、魔神は呻いていた。それ自体が、本来は異常なのだ。封印された状態の魔神は、そもそも呻き声すら上げられないはずなのに。

 そう、魔神の封印が解けかけていた。4ヶ月ほど前、男と真龍は仲間たち――もはや失われた『仲間たち』とともに、魔神の封印を行なったのだ。だが、成功したかに思われた封印は、不完全なものであったらしい。

 このままではさほどの時を待たずして、魔神が復活してしまう。男と真龍は、再び魔神の封印を行なうべく戦っていた。

 魔神の胴に生えた触手から、小さな光弾が発射された。真龍はそれを、背に生えている翼でその身を覆うことで防ぐ。すべての光弾を防いだことに安堵した真龍が防御の構えを解いたとき、彼女は驚愕に眼を見開いた。魔神の胸の前に、大きく禍々しい光が集まっている。

「くっ! いかん!」

 真龍は自らもあぎとの前に光を作り出す。ぶつけて消滅させようというのか。だが、魔神のほうが早い。

その時、男が動いた。

「はぁぁぁぁっ!!」

 魔神から放たれた光弾に向かい駆け出す男。彼が今一度気合を発すると、その総身がまばゆく輝いて光の文様を宿し、その光は男が肩に担ぎ持つ長剣へも伝わる。

 男は光弾を、その愛剣で一刀両断にせんと試みた。光弾と剣がぶつかり、真龍が思わず手で眼を覆うほどの凄まじい光が洞窟内を駆け巡る。

 しばらく後、真龍が手を下ろすと、男は荒い息のまま、魔神と再び相対していた。

「ヒルダ――」

 男が、赤き真龍の名を呼ぶ。息を飲む彼女の返答を待たず、男は告げた。

「後を頼む」

 男は、まっすぐに、ただまっすぐに魔神へと突っ込み、触手の迎撃を剣で弾きながら指呼の間まで接近すると跳躍し、魔神にぶつかっていった。魔神が苦痛に絶叫を上げる。剣は、魔神の腹に突き立てられていた。当然に男の身を剥がそうと、触手が彼の身に絡みつき、痛めつける。

 そして、これこそが、男の待ち望んだ瞬間だった。

「ヒルダ! ……封印を……!!」

 一瞬反応の遅れた真龍は、すぐにその身を先ほどの男と同じ光で輝かせると、封印の呪文を詠唱し始めた。魔神の呻き声と真龍の詠唱とが混ざり合い、洞窟内に反響する。

 どれほどの時間がたったであろうか。まず、魔神の呻き声が止んだ。それからしばらく遅れて、真龍による呪文の詠唱も止まった。魔神は、背後の岩と完全に同化し、封印は成されていた。道連れの犠牲者をその腹に抱いたまま。

 呆然と立ちすくむ真龍の背後で、何かが落ちた。彼女が振り向くと、男と同じく革の鎧を身にまとった女が、持っていたたいまつを取り落としていた。

「あ……あああ……!」

 女は、想いを寄せていた男の亡骸によろめきながら歩み寄ると、すがりついた。嗚咽がこぼれ、洞窟の壁や天井に染み入る。ヒルダもまた、声すら出せず、哭いた。



1.


 そして、時は流れてサフィーナ王朝暦203年――

 王国の西方に位置するベリオ山は、緑豊かな絶好の狩場として、かつては王や王族が御幸の際には狩りが行なわれた場所である。

 その山道を、9人の青年男女が談笑しながら登っている。いずれも山に入るにはいたって軽装で、身に着けているものといえば服以外には男は剣と水筒、女にいたっては水筒のみである。

「おい、ギュス! クロイツ! なにぼやぼやしてるんだ! そんなへっぴり腰では、野営地に付くまでに日が暮れちまうぞ!」

「まあまあ、ティボル。そう焦るな。まだ昼なんだ。せっかくの山の美味い空気を楽しんでいこうではないか」

 ティボルと呼ばれた男が畏まるのを、女の子3人は面白がって見ている。

「さすがロアーク様、余裕があらせられるわね」

「ほんと、デメティア様は幸せ者よね」

「うらやましいわ」

 なに言ってるのよと頬を染めたのは、デメティア様、と友人から呼ばれた女の子だ。長い髪を登山に備えてひっつめていることで、血色のいい整った顔が際立っている。身に着けている物も、友人3人より明らかに金のかかったもの。

 そのすぐ後ろを、こちらは地味な服装に身を包んだ女が、黙々と歩いていた。彼女はデメティアの侍女で、主人の身の回りを世話するための品を背負っている。

 では、残りの荷物は誰が運んでいるのか。

 男女9人から遅れること20歩ほど下に、先ほど叱責を受けた2人が、これまた黙々と荷物を運んでいた。1人は痩せ型ながら筋肉質な身体に、白髪交じりの頭を乗せた50代の男。もう1人は、先を行く9人と同年代の、黒髪の青年だ。

 彼を見て誰もがまず驚くのが、その体格の良さだ。太っているというより、固太りと表現すべきその身体には、筋肉と脂肪が程よく配され、頑丈さと俊敏さが両立している事を問わず語りに語っている。眼の光は、身体の印象とは反対に優しげで、『そこで損をしている』などと武術学校の仲間たちに評されている。

 だが、本人はいたって気にしていない。眼はよく見えればいい、ぶった斬る敵を見るためにあるのだから。半ばは強がりでこううそぶく18歳の彼は、今現在はその眼の光を抑え、多すぎる他人の荷物を背負って四苦八苦していた。

「クロイツ殿、大丈夫ですか?」

 前を行くギュスが、同じく苦しげな息の中から青年を気遣う言葉をかけてきた。丁寧語になるのは、この初老の男がロアーク付の奴隷だからである。

「……大丈夫、です。もう少し先……ですよね、野営地って」

 クロイツの問いにギュスは苦笑して、

「そう、あと30分位ですね」

「分かりました」と短く答えて、クロイツは黙した。

 はるか上からは、男女の楽しげな会話が漏れ聞こえてくる。それを雑音として聞き流していたクロイツの鼓動が跳ね上がる。デメティアの声が聞こえたのだ。

「ロアーク様、明日はぜひ、我が家に猪をお届けくださいね」

「無論さ、デメティア。できれば鳥も何羽か進呈したいな。君も、我が家に葡萄を頼むよ」

 こう語り合う2人は、同じ街の住人というに留まらず、両家公認の仲である。

 街の市長にして商人頭であるロアークの父親と、ここ10年ほどで台頭してきたデメティアの父親は、もともとは反目する間柄であった。その次男と長女の恋愛沙汰に、商人頭は相手を副商人頭に迎えるという、誰もが予想だにしない人事で応えたのだ。

 会話を聞くクロイツの顔は、複雑な表情に彩られていた。

 デメティアとは同い年で、幼い頃は初等学校で机を並べて共に学んだ仲だった。その後少年は家業の小間物屋を手伝いつつ武術学校入学を志し、少女は商売の手伝いをするため家に入った。それでも往来で再々行き違うこともあり、会話も弾んでいた、と思う。

 変わったのは、3年前。デメティアが、明らかにクロイツを避けるようになった。道で会ってもにこりとするだけで、足早に立ち去ってしまう。

 ある日、少年は少女に問うた。

『どうして、避けるの?』

『ごめんね』

 ただそれだけで反問すら許さず、少女は歩み去っていった。当時噂が立ち始めていた、意中の人のところへ。



 1時間半後、野営地と目された開けた場所に、クロイツとギュスは設営を終えた。先行の9人の内、侍女のコーリンだけが残り、ぐったりしている。

「大丈夫か? コーリン」

 クロイツの気遣いに、コーリンは弱々しく応えた。

「大丈夫だよ。それより、そろそろお嬢様が川から上がられるころだから――」

 男女8人は、ここまでの汗と土ぼこりを厭い、連れ立って川へ水浴びとしゃれこんでいた。

 もう秋の陽も傾いて冷えてきているのに、お熱い奴らは気にならないのだな、とクロイツは呆れ半分で笑う。その笑いに、ほかの2人も苦笑で応じた。

 彼らのささやかな談笑は、川のほうで上がった悲鳴に遮られた。クロイツとギュスはぱっと立ち上がり、作業のため外していた剣を引っつかむと悲鳴のほうへと急行する。川への道を駆け下り、2人がそこで目にしたのは――

「きゃあ! ちょっと! こいつ、追っ払ってよ!」

 デメティアが、太ももにまとわり付く水蛇に悲鳴を上げていた。彼女も含めて女たちが皆、薄手の肌着のみでの水浴びのため、肌がことのほか露出していて、目のやり場に困る。困っていると、ロアークがすっと恋人に近寄り、水蛇を掴んで対岸のほうへ放り投げた。

 やれやれ一件落着か、と安堵していると、思わぬ言葉が横合いから飛んできた。

「クロイツ! ギュス! 貴様ら、悲鳴に釣られてのぞきに来るとは何事だ!」

 若様の取り巻きの1人、メルクが、駆けつけた2人を糾弾する。その理不尽な物言いに、クロイツは怒りを爆発させた。

「お前らこそ、いい加減にしろ! 剣も持たずに水浴びなんてやってるから駆けつけたのに!」

「なんだ? クロイツ、お前、ロアーク様に難癖をつける気か?」

 そう絡んできたのは、メルクと同じく取り巻きのゲータだ。背丈だけは立派な優男が、わずかに高いクロイツに負けじとにらみつける。

 ギュスが穏やかに、かつ速やかにゲータとクロイツのあいだに割り込んだ。

「ゲータ殿もお聞き及びでしょう? 最近、ここら一帯にも魍魎もうりょうが出るようになったという噂を。用心するように、と大旦那様からも言われておりますゆえ」

 ギュスがロアークの父親の名を出すと、さすがに取り巻きどもは黙った。

「ギュス、クロイツ。ご苦労だった。もう戻っていいぞ」

 鷹揚な物言いの若様に一瞥をくれると、クロイツは憮然とした表情のまま野営地に戻った。ギュスが丁寧な一礼で去ったのとは対照的な態度に、取り巻きどもはなにやら罵詈雑言を並べているようだ。

 そんなものよりなにより、クロイツの胸に突き刺さったのは、女たちのヒソヒソ声だった。

「なにあれ、偉そうにあんなこと言って、ちゃっかりあたしらの水浴び姿拝んでったくせに」

「顔赤かったね。いやらしい目してたし」

 当たり前だ、こちとら女の子と付き合ったことすらないのに。クロイツはそう口の中で毒づきながら、徒労感を引きずって野営地に戻った。

 それからしばらく。夕食を終えて、メルクお得意の楽器――そんなものまでクロイツに背負わせていた――演奏まで飛び出し、8人は愉快な野営の夜を満喫していた。それぞれ恋人な男4女4だが、さすがに野営で同衾する気はないようで、明日の狩りが早朝を期していることもあり、男女別々の宿営に潜り込んですぐに静かになった。

 後に残されたクロイツとギュス、コーリンは、夕食の後片付けを終え、焚き火を囲んだ。

「コーリン、お前、どこで寝るんだ?」

「ここで寝るわ」

 そういうと少女は、着の身着のままごろんと横になった。その彼女に、クロイツは自分の荷物から肌掛けを取り出し、放ってやる。

「使えよ。冷えてきたから」

「……クロイツは?」

「俺は大丈夫だから」

 笑いかけるクロイツに礼を言うと、肌掛けを引っかぶったコーリンは腕を枕に横になり、すぐに寝息となった。

 しばらく無言で焚き火を見つめていたクロイツとギュスだったが、やがてギュスが口を開いた。

「すまん」

「何がですか? 師匠」

 クロイツがギュスに対して剣の弟子として話すときは、先だっての丁寧語が逆になる。それは、ギュスがどんなに言っても彼の弟子が譲らなかったものだった。

「すべて、だ。おまえを誘うべきじゃなかった」

「何を言ってるんですか。手間賃だってもらえるんだし」

「それが日中のあの仕打ちだ。あいつらはお前を私と同じ身分だと思っている」

 クロイツは、ロアークたち男子陣と同じ武術学校に通う同期である。まして全員が平民なのだから、本来ならロアークたちに大きな顔をされるいわれはない。市長兼商人頭というロアークの父親の威光で、それが歪んでいるだけのことなのだが。

 クロイツが黙ったのを肯定と受け止めて、そのままギュスも黙った。次に開いた口からは、クロイツの予想だにしない言葉が飛び出してきた。

「デメティア様のことが、好きなのか?」

「! ……いや、その」

 ギュスはにやりと笑って、

「顔に出てるぞお前。普段から」

「~~~!」

 身悶えするクロイツを見て、ギュスは、だから連れて来るべきじゃなかった、と溜め息をついた。

「いいんですよ。もともと無茶な話だったんですから。どうせ俺なんて」

「……なるほど。重病だな」

 話が飛んで、クロイツが呆けた顔をするのを、ギュスは呆れ顔で嗜めた。

「周りをちゃんと見ろ。お前を見てくれている子が、必ずいるはずだ」

 先に寝る。そういい残して、師匠は事前の打ち合わせどおり、横になった。

 1人になって、クロイツはギュスの言葉を反芻する。

 俺なんかを、見てくれる子。

 そんなの、本当にいるんだろうか。

 その時、クロイツの背中を悪寒が走り抜けた。見られている。それも女の子なんかではなく、何か別の存在に。

 慎重に後ろを振り向く。森の夜闇のその中に、光る眼がいた。

 驚愕で固まったまま見つめあう2人。いや、相手はそもそも人じゃない。その光る眼はヒトの持つそれとは形が異なっているし、なによりヒトの目は自然に発光などしないではないか……!

 みんなを起こさなきゃ。そう判断したクロイツが声を上げようとするより早く、眼は消えた。にやり、としか形容しようのない細め方をして。

(なんだったんだ。あれ――)

 クロイツの眠気は吹き飛び、ギュスと交代してもなかなか寝付かれなかった。


2.


 翌朝。男たちは狩り、女たちは果物摘みに別れた。昨晩の"眼"のこともあって少女たちに護衛をつけないことについては一議論あったが、取り巻きは若様にいいところを見せたい――護衛なぞする気が初めからない――こと、クロイツとギュスは勢子をせねばならなず人手が足りないこと。以上の理由により、野営地の周辺で摘むこと、なにかあったら躊躇なく助けを呼ぶことを約束して、狩りは始まった。

 獲物を追い出すため、棒で茂みを叩き、大声を上げ続けること1時間。ようやくロアークの一声で狩りは休憩となった。

「さすがロアーク様、見事大猪を仕留められましたな」

「ロアーク様、ご覧ください。この鹿を。わたしが弓で一撃でした」

 取り巻きが早速お追従と自慢を始めるのを他所に、クロイツとギュスは獲物のはらわたを抜く作業をしていた。明日にはこれを2人で担いで帰らねばならないのかと思うと、げんなりする。その顔をみたギュスが、こっそりクロイツに耳打ちしてきた。

(心配するな。ふもとまで来たら、獲物担ぎは皆様の馬の仕事さ。自分たちが仕留めたと自慢したいからな)

 聞いて安堵のクロイツを置いて、ギュスはあるじに進言した。

「若。一度野営地までお戻りになられてはいかがでしょうか。お嬢様方に安心していただけますし」

「ん、そうだな」

 まだ狩りをし足りないといった風情のロアークだったが、『お嬢様方』を持ち出されては弱いらしく、一同は野営地へと向かった。

 野営地でひととおりの獲物自慢と歓声を受けた後、では再び参ろうかとロアークが見得を切ったとき、クロイツはつと顔を上げた。

(なんだ? 何が来る?)

「どうされました? クロイツ殿?」

 ギュスが怪訝そうに同じ方向を見定めようとする。

「なんだクロイツ、昨夜のお前の妄想――「ちょっと黙ってろ」

 ティボルの揶揄を振り払い、そのことで一悶着起きそうな気配が野営地に広がったその時、異変は起きた。

 川のほうから、バキバキと枝を折る音がする。それはどんどん近づいてきていた。

「なんだ? 熊か?」

「まさか。熊はわざわざ音を立てて歩くようなまねは――」

 ゲータがしたり顔で述べた時、それは来た。

 森の中から姿を現したそれは、10キュビト(約2.2メートル)ほど。熊に見えるが、明らかに見慣れたそれとは様子が違う。

 逆立つ体毛に鎧われた極太の胴体と腕脚、殺気走った眼、鋭利な歯を多数煌かせる口、振り上げた両手には一目で凶器と分かる太く長い爪。そして、濃い体毛を通してほの見える、ひび割れた体表――風の噂にしか聞いたことの無い、魍魎だった。

 少女たちの悲鳴が場の空気を切り裂く中、男たちは抜剣し、魍魎と対峙する。なかでもギュスは素早かった。いち早く少女たちの前に位置を占め、魍魎から身をもってかばおうとする。そのギュスから、あるじに進言が飛んだ。

「若! お嬢様方を連れて、ここはお引きください!」

「分かった」

 あっけないほどの承諾を残して、ロアークとその取り巻き、少女たちは遁走した。

 後に残ったのは、ギュスとクロイツ。その時クロイツは、ギュスの肩ががくりと落ちるのを見た。それを、魍魎が見逃すはずもない。唸りを上げて、魍魎はギュスに襲い掛かってきた!

 両手の爪が縦横無尽に振り回され、哀れな人間を切り刻まんとする。かろうじて避けていたギュスだったが、爪ではなく平手を食らい、野営地の端まで吹き飛び、そのまま動かなくなった。

「師匠!!」

 クロイツは怒りに我を忘れかけた。が、その時不意に、ギュスの言葉が頭に浮かぶ。

『怒りは力を増し、動きを増し、頭を鈍らせる。それでは、難敵には勝てない』

 落ち着け。クロイツは、今度は自分に向かってきた魍魎に、まず空振りをさせた。相手がそれで疲れるという保証はない。クロイツの狙いは――

「はっ!」

 振り下ろされた魍魎の手の甲。目一杯の力で振り下ろされた長剣は、狙い過たず魍魎の右手半分を残して斬り落とした!

 傷つけられた魍魎が咆哮し、残った左手を滅茶苦茶に振り回す。幾度か爪をかすらせながら、クロイツは懐に飛び込むと、左腕の付け根を斬り飛ばさんと剣を振り上げる。剣は見事に狙った箇所に食い込んだ! のだが――

「なにっ!」

 極太の腕は関節まで骨太なのは当然で、食い込んだきりそこで止まってしまった。好機と見た魍魎の目が底光りし、大きな口をあけ、クロイツの頭を齧って殺そうと狙ってくる。クロイツは魍魎の腹を蹴って勢いをつけて後ろに転がり、難を逃れた。

(くそ! 剣が!)

 と思う間もなく、魍魎は更なる咆哮を上げて、しゃらくさい人間を今度こそ刻まんと襲ってくる。逃げ惑うクロイツは、師匠が吹き飛ばされた時に取り落とした剣を拾い上げた。その時にも爪がかすり、血が止まらない。

(あの分厚い胸板では心臓には届きそうにない。ならば!)

 クロイツはもう一度、左手を斬り落とす作戦に変更する。痛みと怒りで狂乱の態の魍魎に負けないように絶叫しながら、突進してはギリギリで引く。それを数度繰り返し、ついにクロイツは、魍魎の左腕を斬り飛ばすことに成功した!

 だが、安心したのが災いの元。魍魎に瞬く間に詰め寄られ、残された右腕一本で抱きしめられてしまった。めりめりと胴の骨が音を立てる。

「うわぁぁぁぁぁ!」

 クロイツは無我夢中で、魍魎の喉に剣を付きたてた。次第に目がくらみ、すべての音が遠くなっていく……


3.


 クロイツが意識を取り戻した時、傍には、森の暗さでも一目で分かるくらい青ざめたギュスが寝転がっていた。

「む……無事か?」

「はい……」

 起き上がると、体中が痛い。脇の痛みは、締め上げられた時に骨にひびが入ったか。それでも起き上がったクロイツは、残された荷物のところへ行き、血止めの薬と包帯を取り出した。よろけながらも師匠の下へたどり着き、治療を始める。

「ばかもん! 自分の血止めを先にせんか!」

「俺は大丈夫ですから」

 そういって師匠の治療を済ませ、今度はクロイツ自身に血止めを塗った。

「師匠、ほかに怪我はないですか?」

「右足が折れてる……飛ばされた時にそこの木で打ったからな……」

 クロイツは痛みに顔をしかめながら、木の枝を剣で払い、添え木としてギュスに当てて包帯で巻いた。そこまでしてから自分も血止めを塗った後、そのまま師匠を立ち上がらせようとする。

 ちらりと地に転がる魍魎の遺骸を見やった。戦果の証を持って帰りたい衝動に一瞬駆られたが、自分と師匠の身の安全が最優先だ。

「よせ。俺を置いていけ」

「なに言ってるんですか。雨になります。一緒に帰りましょう」

 木々の合間からちら見える空は、雲行きが怪しい。

 結局、2人は雨の中、やっとの思いで下山した。ふもと近くまでたどり着くと、急きょ編成された魍魎討伐隊が来ていたため、2人の苦行はここで終わった。

 荷車に載せられ街へと帰ることになって、クロイツがふと山のほうに目をやると、森の陰からあの眼が見つめていたような気がした。

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