かりゆしブルー・ブルー 空と神様の八月
角川スニーカー文庫
第1話 盗っ人×ンブー・イナグ 1-1
旅は嫌いだ。旅に出ると人は、浮かれて愚かな行動に出るという。
「……ほーう」
食堂の入り口に貼り出されたメニュー表を見ながら、あごをさするこの青年もまた、初めての一人旅に浮かれていた。
白いシャツの袖をまくり、ジーンズをはいている。背はさほど高くもなく、特筆するほど低くもなく。最近の偏った食生活のせいか、体ばかりは細かった。
黒髪に色白の、いかにも陰惨な猫背の男だ。
キャリーバッグを引き、くわえてショルダーバッグをさげている。高校三年の夏休みを利用して、この小さな島に上陸したばかりである。
元来男は、その白い肌が物語るように、部屋で黙々と過ごす休日を好んでいた。家を出る機会があるとすれば、塾か図書館か夏期講習か、くらいだ。
祖父と父が政治家であるという家系に生まれ、優秀な親の血を引く多くの息子たちがそうであるように、この一粒種もまた跡目を継ぐ宿命を担っていた。
だからこそ彼の学園生活に、級友らとわいわい談笑する一幕はない。高校入学と同時に受験勉強を始め、部活を選ぶクラスメイトたちを尻目に塾を選んだ。
無味乾燥の青春と笑うでない。断捨離乙と見くびるでない。父を始め家族はみなそんな彼を誇りに思っていたし、彼もまた、そのような生活に身を投じる自分に満足していた。
すべてはよき大学に入り、よき就職をして、よき政治家になるために。
しかし。ああ、しかし一年前のことである。
高校二年の夏休みの始め、男はつまずいた。愚かにも、恋をしたのだ。
つまりこの男。旅に出なくても愚かであった。名を
ショルダーバッグの中には、家から持参したいなり寿司が入っている。
恋にやぶれた僕は、いろいろあって「いなり寿司しか食べられない呪い」にかかった。「いなり寿司以外のものを食べると吐いてしまう呪い」と言い換えてもよい。
この呪いが恐ろしいのは、体はいなり寿司しか受けつけないくせに、他の食材への食欲が消えないというところだ。むしろいなり寿司しか食べられないことで、より欲するよになったように思う。もともと食が太いわけではなかったはずなのに、うまそうな料理の写真が視界に入るだけでいちいち喉が鳴る。
旅先でしか食べられない珍しい料理となればなおさらだ。
僕は、高速船乗り場に隣接する食堂の前で、足を止めてしまっていた。
「軟骨ソーキそば……。軟骨、とはこれいかに」
ソーキそばの〝ソーキ〟ならば知っている。ブタのあばらを煮込んだお肉――言わばスペアリブだ。しかし〝軟骨ソーキ〟は初耳である。店前の写真を見ればただのスペアリブに見えなくもないが……望めば食べられる店の前で、好奇心を無理に抑えるのも体によくない。僕は「ま、あとで吐けばいっか」くらいの気軽さで入店した。
目の前に運ばれて来たのは、沖縄そばの上にどん、と乗せられた軟骨ソーキである。でかい。どうせ吐いてしまうのだから、半分以上は残すつもりであった。
しかしこんなにあると残しにくいな……と後悔を少々。
肉に箸を入れると、ほろほろと崩れる。驚くほど柔らかい。焼き肉店では〝骨付きカルビ〟と名称を変えるのがスペアリブである。はたして。軟骨ソーキにも骨はあった。
しかしその軟骨。見目にも軟らかすぎている。箸を振ればぷるぷると震える。骨がないにもほどがある。ちゃんと食い物なのだろうか。
〝軟骨ソーキ〟を骨ごと口に入れた途端、まず始めに、肉が口の中でほどけた。
「……ふむ」
かむたびににじみ出る肉汁が、口内に広がる。そして軟骨である。とろとろの軟骨が肉にからみ、濃い味付けをマイルドにしてくれている。
「ふうん――」めちゃくちゃ、おいしかった。
思わず「うまっ」と飛び出しかけた感嘆を、肉にからめてに嚥下する。
足りない。まだ足りないもっと欲しい。濃い味付けのソーキに、とろりとからむ不思議な食感。軟骨ソーキをかみ切って、そばをすする。
コシのある麺にこれまた濃厚な汁がからんで食が進む。
軟骨ソーキを箸先でつまみ、改めてぷるぷると揺らしてみる。かわいい。なぜこれほどまでに柔らかいのだ、コラーゲンの権化め。煮込みすぎだろう、ああもうかわいい!
骨にくっついているのがスペアリブである。骨からかみちぎるのが醍醐味である。なのにこんなにも柔らかいなんて、これでは、骨と肉とをかみ分けることができない。ひどい。ひどすぎておいしい。これほどうまくて四五〇円はおかしい。
「おかしいっ……!」
静かなる興奮に気づかれたか、カウンターの向こうから三角頭巾をかぶった丸顔のおばさんが、「おいしいねえ?」とニコニコした微笑みを向けた。
うまい料理は人の性格を変える。僕はらしくもなく食い気味で答えた。
「はいっ、めっちゃっうま――」
「――ぉろろろろロロロッ……!!」
食堂を出てすぐに、食べたものはすべて吐いてしまった。
橋の欄干に手を置いて、眼下の水面に吐瀉物をぶちまける。
まあ予想内ではあるが、気分は最悪だ。
いなり寿司以外の固形物を胃に入れたのは久しぶりだった。少し味見するつもりが、汁までぺろりと完食してしまった。胃がびっくりして、吐き気はいつもより早めに訪れるかもしれないと覚悟はしていた。しかしまさか、食堂を出て一分と経たないうちに吐き気に見舞われるとは。僕もびっくりである。
食堂の前には二車線の車道が横切っており、渡った向こうに川を発見したのは僥倖であった。橋の欄干に飛びついたと同時に、胃をせり上がってくるものがあった。
こんなにも早い嘔吐は、新記録更新である。満腹の多幸感が店を出て六〇秒も持たないなんて、バカか。僕は欄干にうなだれたまま動くことさえ適わなかった。
嘔吐したあとは、死にたくなるものだ。まあ最近はいつも死にたいけれど。
「ねえ大丈夫ぅ?」
ふと頭上から声が降った。橋の入り口に大きなシーサー像が鎮座していて、その頭のてっぺんに両足をそろえ、屈み込んで僕を見下ろす人影があった。おしろいの塗りたくられた顔に真っ赤な唇。派手な黄色の着物を羽織ったその姿に、僕はある妖怪を連想した。
「天狗……?」
「天狗!?」
ふむふむと唇に指を当てる人物が、少女であることに気づく。
小学校の高学年か、中学生くらいか。栗色の髪を頭のてっぺんでひとつにまとめ、着物の下は学校指定の体操着を着ている。麗しい着物との印象がちぐはぐである。
「天狗、かっこいいかもしれない」
「かっこいいか……?」
少女はシーサーの背中をすべり落ち、尻に座った。
「じゃああなたは! そうだねえ、うーん……〝ゲロんちゅ〟」
「……どういう意味ですか?」
「海に出る人は〝
「……初対面の人につけるあだ名じゃないですよね」
「どうしてゲロ吐いてたの? 飲みすぎ?」
少女はシーサーの尻に座ったまま、僕の顔を覗き込もうとする。やけに距離感の近い少女である。この天狗は、人間の恐ろしさを知らないのかもしれない。
呪いについて説明する義理もないので、僕は適当に嘘をついた。
「高速船に酔ったんです。今島に来たとこでして……」
「はぁや、うける」と何が楽しいのか、少女は笑った。
「あの船、でーじ揺れるもんね。ヤマトンチュにはきついよねえ」
「あの……〝ヤマトンチュ〟とは?」
「ヤマトの人のことさ。どこから来たの?」
「東京ですけど」
「うりっ、ヤマトンチュやっしぃ!」
ヤマト。大和の国のことか。沖縄から見れば、本州が一つの国のようなものなのだろうか。ならばここは海外か? ずいぶんと遠くまで来たものだという感慨が湧いてくる。
見上げれば、川の向こうに山々がそびえ立っている。新宿でリムジンバスに乗った時は真っ青だった空も、今や茜色の混じる群青に染まっていた。
橋を渡った先では夜祭りが行われているのか、川沿いに提灯を灯す屋台が並び、わいわいと人で賑わっている。山間にトン、トンとゆったりとした太鼓の音が響き渡っていた。
「……お祭りでもやってるのですか?」
「〝縁結び祭り〟だよ。このために来たわけじゃないの?」
「いや、別に……」
「じゃラッキーだったね、お客さん! 結び神社の〝縁結び祭り〟は、でーじご利益あるお祭りなんだよ? これ目的に来るカップルとかも多いんだって! それに今日は、特別なイベントがございましてねえ」
にやあ、と赤い唇のはしを持ち上げ、意味ありげに笑うおしろいの少女。
「言っちゃおうっかなあ。ああでも見てくんだよね? じゃ言わない方がいっかなあ」
シーサーの上で一人煩悶する少女に、橋の向こうから声がかけられた。
「
対岸で手を振る眼鏡の女の子は、まだもう少し大人びて見えた。少女は彼女に「今行くー!」と声を上げ、シーサーの尻の上に立ち上がる。
そして――「どぅーららあっ!!」
少女はシーサーの背中を駆け上がった。それからシーサーの後頭部を踏み台にジャンプしてバク宙。僕の頭上で黄色の着物をはためかせ、僕の背後に着地する。
「おわ」と驚いて身を屈めた僕に、少女はいたずらっぽく微笑んだ。
「どう? 今の天狗っぽかった?」
真っ赤な唇のせいで、どこか妖艶にさえ見えた。人をたぶらかして笑う妖怪――という意味では、天狗っぽいかもしれない。しかし非難を込めてそう言っても、この少女は喜んでしまいそうだ。それは癪であったので、ただ不愉快げに唇を結んだ。
少女は橋を渡っていく。途中でふと立ち止まり、振り返った。
「あ、そうだ、ゲロんちゅ!」
僕へ満面の笑顔を向けて、大きく手を振る。
「めんそーれっ! 神々の住む島、
声を上げて満足したのか、残りの橋を一気に渡っていく少女。大声で叫ばれるのは嫌いだが、地元の子どもに歓迎されるのは悪くない。ゲロんちゅ、は不本意だが。
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