ワレハ 凡人 山田半平 コンゴトモ ヨロシク
小松菜
第1話 山田半平、夕日に死す
「はんぺんせんせえー!ばいばーい!」
園児が千切れんばかりに手を振る。
僕も笑顔で手を振り返した。
母親に手を引かれて保育園を後にする園児。
僕は親子が門を出るまで手を振った。
「ふう」
これでやっと全ての園児が帰宅した事になる。
保父としての仕事はまだ終わらないが、一先ず肩の力を抜く。
保育所は何処も人手不足である。
猫の手も借りたいのは決して比喩では無い。今や保父は引く手数多である。
と、思ったのは早計だったかも知れない。
最近の物騒と言うか、訳の解らんと言うか、いわゆる『幼女に対して淫らな行為』を行うと言う変質者的な事件が多発しているせいで、保父に対する風当たりも若干強い。
と言ってもそこは人手不足の業界。
募集が無くなるなんて事は無く、お陰で僕の様に特に何の取り柄も無い者でも真面目にやる限りに於いては重宝される。
自分で言うのも何だが、僕は本当に取り柄が無い。
専門用語で言うところの『凡人』と言う奴である。
身長体重握力から果てはナニの大きさまで、この世の平均を計ったかの様に何から何まで本当に何の特徴も無い、無味無臭無個性な人間。それが僕なのである。
趣味は何?と効かれて「音楽鑑賞」と答えると、必ず鼻で笑う奴が居る。
仕方が無いじゃないか。僕は本当に音楽鑑賞が趣味なのだ。
……但し、全く詳しくは無いが。
そんな訳でこの際、別の趣味として切手集めも始めようかと思っている。
「お疲れ様。山田先生」
突然背後から声がした。
振り返ると、さくら組の担任である遥先生が立って居る。
「あ、お疲れ様です」
僕は挨拶を返す。
「あの、実はですね……」
遥先生は何か言いにくそうに言葉を探している様だった。
上目使いで僕をチラチラ見ている。
何だか恥ずかしそうにも見える。
まさか……。
いくら僕でも期待する事くらいは許される筈だ。
僕も良い歳だし、こんなイベントの一つや二つ有ったって良い。
僕は思わず唾を呑み込んだ。
緊張で乾いた喉が張り付いて、呑み込んだ唾がゴクリと音を発てる。
「あの……言いにくいんですけど……女児のお母さん方から、着替えは女性である保母に一任してくれと言う声が多く有りまして……」
……ですよねー。
「ごめんなさい。山田先生がそんな人では無い事は解っていますけど、一応園の方でも保護者の声を無視する事は出来ないからと……」
「……あ、いや。大丈夫です。解ってますから。別に気にしてませんよ」
告白かと思った事以外は。
「じゃあ、明日からは遥先生が?」
「はい。代わりに男児の着替えを山田先生にお願いします」
「解りました。では明日からはそう言う事で」
何だか居たたまれなくなって、僕は適当に話を切り上げるとその場を離れた。
僕はひまわり組の担任である。
教室に戻ると自分の机に突っ伏した。
「……はあ、今日は帰ろ」
謎の疲労感に包まれて仕事を持ち帰る事を決定した僕は、そそくさと帰り支度を済ませた。
季節は初夏。
夕方もすっかり日が長くなってきた。
家が遠くない事もここで働く動機の一つである。
歩きで通えるのは恵まれている。
家と保育園の丁度真ん中辺りに鶯(うぐいす)神社がある。読んで字の如く、文字通りの神社だ。
ここは天願(てんがん)大社の分社であり、祭神は天願太鶯命(あまのねがいたいおうのみこと)と言う。
一般には五穀豊穣を司る神様と言われ、いわゆる慈母神であるが、実は恋愛成就の神様とか縁結びの神様としてのご利益も有ると言われている。慈愛に満ちた優しい神様だ。
帰り道をほんの少し寄り道して鶯神社の階段を上る。
ここは知る人ぞ知ると言う感じの神社だ。
僕は何故かここが気に入っていて、行きと帰りに必ず立ち寄っている。
「おや、今帰りかい?」
少ししゃがれた声がした。
「はい。たまには早く帰ろうと思って」
宮司さんの声だ。
毎日来るのでいつの間にか親しくなった。
「ははははは。それが良い、神様も君が毎日来てくれるのを嬉しく思っていらっしゃる筈だよ。たまにはゆっくり休むのも良いもんだ」
宮司さんはそう言って笑った。
それから、「そうだ」と言って何処からともなく蜜柑を取り出すと、何故だか解らないけど蜜柑をくれた。
それを受け取ると僕はいよいよ神様に向かった。
カランカランカラン!
鈴を鳴らして手を打つと神様に祈りを捧げる。
毎日朝夕来ては手を合わせる。
正直、願いや言いたい事も特に無い。
と言うよりも、最初の一ヶ月くらいで粗方言い尽くしたと言うのが真相である。
それでもここへ来るのは日課になってしまったからであり、もっと言えば何だか居心地が良いからだ。
僕はここが気に入っている。
さあっと風が吹き抜けて、木々が静かに音を奏でる。
何と言うか、歓迎されている様な気さえする。
こんな何の取り柄も無い僕でさえ。
僕は祈りを済ませると、宮司さんにお礼を言って神社の階段を駆け下りた。
元の帰り道に戻ると再び帰路に着く。
貰った蜜柑を眺めつつ、交差点に差し掛かる。
「そうだ、飲み物でも買って帰るか」
交差点の信号を渡ると、すぐ目の前にコンビニがある。
僕はここで何か飲み物を買って帰る事にした。
歩行者信号が青になるのを待つ。
片側一車線の小さな交差点だ。
車の来ない時間の方が明らかに長いくらいである。
それでも馬鹿正直に信号を待つ自分が凡人の鏡の様でもあり、気の小ささに我ながら嫌気が差す様でもあった。
その時、向かいにある例のコンビニから小さな女の子が現れた。
母親らしき女性がレジで会計をしているのが見える。
次の瞬間、女の子が不用意に横断歩道へと踏み込んだ。
まあ、車のほぼ来ない道路である。
僕は危ないなあと思いつつ、黙ってその子を見守った。
ブロロロロロロロロッ!
なにいっ!?
思わずモブキャラの様な台詞を声に出して叫んだ。
トラックが突然右側から現れる。
この先は下り坂である。
トラックは積み荷の重さに負けない様に、この坂を力いっぱい上ってくる。
当然、小さな子供は地平に隠れて見えてもいない筈だ。
全力で上ってくるトラックと、横断歩道の白い部分だけを踏みながら、無邪気に笑う女の子を僕は交互に見比べた。
時間にして多分2~3秒くらいか。
僕には十秒以上に感じた。
頭の中で様々な事を考える。
どうする!?どうする!?
自他共に認めるキングオブ凡人の頭には、身を呈して女の子を助けるなんて大それた発想は思い浮かばなかった。
いや、嘘だ。
本当は頭をよぎった。
でも怖くて早々に選択肢から削除したのだ。
トラックはもうそこまで来ている。音が近い。
コンビニの自動ドアが開いて、母親が姿を現した。
同時に遂にトラックの全貌が現れる。
母親は一瞬で状況を把握した。
その表情が一瞬で凍り付く。
「キャアアアアアアアアアッ!」
母親の叫び声が咄嗟に僕を突き動かした。
意識した訳じゃない。
やらなければならないと言う気持ちに掛かっていたブレーキが、母親の叫び声に驚いて外れただけなのだろう。
タガが外れたって奴である。
ダッ!
僕は無意識に横断歩道へ飛び込むと、女の子を突き飛ばした。
視界の端にトラックのバンパーが見えた。
ドカッ!
キキキキキイイイイイイイイッ!
激しい衝撃が体を突き抜ける。
不思議だ、痛みは無い。
視界が高速で回転している。
空とアスファルトが上になったり、下になったりしながら僕は何故か冷静だった。
冷静にこの光景を眺めている自分が居るのだ。
なんだこりゃ。はは、洗濯機の中みたいだ。
そんな事を考える自分が確かに居た。
それ自体が十分異常な事だ。
そこに思い至った時、意識が真っ白になってそのまま全てが消えた。
いや、終わった。
夕日が目に映りこむ。
だが、もうそれを感じる事は無かった。
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