チョコレートと鼓動

咲良 季音

雲間から指す光

 気になる人がいる。

自分のデスクから、通路を挟んで斜め左前に座っている。

こちらを向いて座っている。

笹井さんというお名前。


 年は45歳ぐらい?出張が多くて、いつもキッチリとスーツを着ているけれど、社に戻るとすぐにネクタイを外し、一瞬で表情が緩む。そこが気になる。


 既婚者。子供がもう運転免許を取ったと言っていた。左手の薬指に毎日必ず金色の結婚指輪をしている。月日が経ってもちゃんと、大切にしている。気になるポイント二つ目。


 基本的には優しい。

「忙しそうに見えても話しかけて。」

が常套句。

「話しかけられない程忙しそうにしていたら、それは自分の振舞いが悪い。」

と言う。

 そんなことを言ってくれる男性がいるだなんて、もっと早く知っていたかった。


 怒らせたことがある。大したことないミスだったが、彼は忙しく、急いでいた。私の背中に覆い被さるように、私が操作するパソコンの画面を見ながら「チッ」と小さく舌打ちをした。

「ごめんなさい!」

と謝ったら、我にかえったようにこちらを向き直ってから、

「今のは自分がいけなかった。余裕が無いのは最低だ。」と言う。

 相手の緊張感にすぐに気がついてくれる人。気になるポイント三つ目。


 最後、四つ目の気になるポイント。

私の事を気にしている。

と思う。



 梅雨明けの予報はまだだというのに、今日の太陽はやる気に満ちている。

白い光に照らされたアスファルトも、ビルの壁も、必死で熱を跳ね返してくる。

襲われないように早足で会社に向かう。小声で「やられちゃう~。」と叫びながら歩く。

そうすることでいくらか気が紛れるからだ。


 駆け込むようにビルに入ると、日差しが遮られいくらか心地良い。エレベーターに乗って2階へ、白く大きな扉を開けると、見慣れた風景がいつもと少し違う。うちわやクリアファイルをパタパタと仰ぐ音。もやが見えそうな湿度を含んだ空気。酷すぎる…。


「何これー!?」

「あっ、かやちゃんおかえり。外も暑かった?」

「暑かったです。早足で帰ってきたから余計暑いです!はー!暑かったーって、天国に戻ってくるつもりでいたのに、何ですかこれ!?」

「クーラーの調子が悪いのよ。メンテナンス電話したんだけど、今忙しいみたいで明日まで来れないんだって。」

「ええ~。酷いーそんなことならゆーっくり歩いて帰ってくれば良かった。」

「え?それって意味がある?結局外も暑いんだから同じでしょ?」

「外側は同じだけど、私の筋肉は涼しいまま帰って来られたかもしれないじゃない。」

「えっ?かやちゃんやっぱ天然系?」

「なんで!?こんなに空気読んで生きてるのに!?」

 隣のデスクのゆりさんとお話するのは楽しくて、つい周囲を気にせず話しに夢中になってしまう。

 でも今日は皆があからさまに『もう仕事なんてやってらんない』という顔をしている。こんな時は場が少しでも和んだ方が良いと思った。

15人程の人が働く部屋の中に、思惑通り笑い声が広がる。


「そうだよなー。こんな暑い中働けなんて、やっぱ酷いよな。よし、かやちゃん、今日は早めにあがって、一汗かいてからシャワー浴びよう!」

「ちょっと待って、それ笹井さんが言うとなんかやらしいです。」

「えっ?なんで?ゆりちゃん。すげー爽やかなお誘いだっただろ?」

「今の台詞と言うより、日頃の行いのせいでしょうか?」

「ゆりさん、本当の事は本人に言ったらダメだよ。」

「かやちゃんまでなんで!?俺ってそんな感じ?すげー真面目なんだけどな。」

「大丈夫です笹井さん、私はちゃんとわかりました!でもごめんなさい。せっかくのお誘いなのに、今日トレーニングウェア持ってきてないの。」

「あー!今のってジムに行こうって話しだったの?そうか、笹井さんとかやちゃん、偶然同じジム使ってたんだっけ?私すごい妄想が暴走してました。」

「えー?福田さんまで?酷いなみんな。俺は真面目なんだってば。」

 依然として蒸し暑さはなにも解決されていない居心地の悪い部屋の中で、大人15人が大声で笑っていた。

 すかさず給湯室へ向い、15個の紙コップをお盆に乗せ、氷を入れて、麦茶を注ぐ。

その場をさりげなく離れた私を追って笹井さんが給湯室を覗く。

「かやちゃんはさ、そういうところが本当にすごいよね。」

「皆にあれだけ言われても、社内で一番成績が良い笹井さんの飾らなさもすごいですよ。」

「言ってもらってるんだよ。そうゆうキャラの方が話しかけやすいもんね。皆に感謝だよ。」

「ふーん。」

 おもむろに、笹井さんは私の頭をそっと撫でて、すぐに手を引く。

振り返って見上げると、すごい笑顔の笹井さんが、

「誰かに見られたら変な噂されるかなー。」

と嬉しそうに言う。


 そういうところが、皆からあんな扱いを受ける理由だ。と言うことは、みんなにも同じようにしているのかもしれない。そうとわかっていても、埋もれがちな気遣いを、女の子としての自尊心を、見落とさず拾い上げて態度に出してくれることがたまらなく心地良いのだ。


「かやちゃんの大好きなチョコレートあるよ。後でデスクに置いとく。」


 あっさりと背中を向け行ってしまう笹井さんに、「ありがとうございます!」と大きな声で叫んだ。

引き際の良さもいい。


 15人に麦茶を配り、皆からありがとうの言葉と笑顔をもらい生き返る。

それからデスクに座ると、リンツの丸いチョコが三つ置かれていた。

ためらいも無く、包みを開けて口に放り込む。

「生きてて良かった~。」

と呟くと、ゆりさんが大笑いしながら、

「餌に釣られて変な男に着いていっちゃダメよ!」

と言う。

「ゆりちゃんそれは聞捨てならんな。」

とすかさず笹井さんがツッコミを入れる。


 パタパタとうちわを仰ぐ音と、みんなの笑い声と、チョコレートの甘い香りと、笹井さんのとびきりの笑顔と。


 そして私の鼓動は早くなる。

 ワクワクで心臓がスキップするのだ。


 そうしないと生きているって気が付けない。

 これさえあれば、どんなことも、およそ何とでもなる。




 金曜日、定時であがればジムだなってわかる。

 金曜日、いつもより大きな鞄で出勤していたら、ジムだなって気付いているはず。


 そうして、私と笹井さんは何の約束もせずに、必ず会えると確信をもって現地に集合する。

 これでいなかったりしたら、どんなにか寂しいだろうと思うけれど、実際行ってみたら居ない、なんて日も、大していつもと変わらなかった。

 それでも居れば嬉しい。

「笹井さん、今度はどこかで待ち合わせしますか?」

「一人でここまで来たら居る、とか、走ってたら来る、ていうシチュエーションが良いんだよ。やった!って気持ち、わかる?」

「わかる!」

「お、さすが。」

「笹井さんが乙女なの?私が男っぽい?」

「かやちゃんが男っぽいと思うよ。見た目じゃないよ。価値観が。意見とか、働き方もすごい共感できるよ。」

 笹井さんは嬉しそうにランニングマシーンの上を走り続ける。

「私も好きです。笹井さんのやり方。」

「そんなこと言われたらころっと落ちちゃうね。」

「どこに?」

「恋に?」

「ねえ、やっぱり笹井さんが乙女なんですよ。」

「違うわ、健全な男子なだけだよ。」

 と言いながらゲラゲラと笑っていた。


 一汗かいた心地よさで、飲みに行こっか、という流れになる。

3杯程のんで、大笑いしながら私の腕にほんの少し触れたりはするけれど、10時頃には駅で「また来週ね!」と別れる。

さりげなく触れても、いやらしくないのは、絶対にそれ以上を求めて来ないからだ。

女の子なら、誰にでもそうなんだと思う。

でも、それがまたいい。

今の私には、そんな感じでかまってもらえるのがすごく理想的。


 家に帰ると、細身な彼は、もう6月だと言うのにフリースのパジャマを来て携帯を触っていた。

「おかえり。ジム?」

「ごめん、今日早かったんだね。夕飯どうした?」

「そっちは食べてきたの?」

「うん。軽く。」

「あーあ、俺だけ飯抜きだ。」

 と大きな声で落胆して見せられ、そのまま携帯画面を眺めている。

 普段一緒にご飯を食べられる時間になど帰ってこない。

今日は帰るという連絡も何ももらっていない。

私の行動の何がいけなかったか?

落胆はこちらの持ちネタにさせていただきたい。

「何か用意する?」

「ジム、楽しかった?」

「うん。」

「来週も金曜は行くの?て言うかいつ行ってんの?毎日行ってたりするの?」

「週に2回ぐらいかな?何で?」

「たまに超ー頑張って早く帰ってきたってさ、この扱いな訳だし。もう俺なんか帰ってこなくたって一人で楽しいんでしょ?笑えてくるね。」

「連絡くれれば帰ってきたよ。この家に一人で居ることが多いのは私の方なのにこの扱いって何?」

「あーはいはい!出ましたあなたがこうしてくれれば良かったのに系。どうせ俺が悪いんでしょ?仕事すんごい頑張ってたってさ、いっさい労ってなんてもらえなくて、あんたのせいって言われんのね。はいはい。」


やめた。


 わかってもらえることを諦めてから、もう何年たったというのだ。相変わらず学習能力が無いな私。


 仕事してるのは同じだ。特別どちらかが偉いわけではない。対等でいたい。誉めて欲しい。可愛いと、思って欲しい。何歳になったって、女の子だもの。それなのに、何も伝わらなくなった。

 大事に大事に大事にされて結婚してから10年。

変わったのは私が先か?彼が先か?

月一回の大好きなチョコレートケーキのお土産は1年で無くなった。結婚記念日のサプライズディナーは2年目が最後。ホワイトデーの高級チョコは3箱分の空き箱。4年目には誕生日におめでとうの言葉すらもらえなかった。忘れていたのか、わざとなのか。

 夕食を一緒に食べる日が月に数回。外食をすればお金の無駄だ、旅行に行きたいと言えば、そのお金で何が買えるか考えろ。彼の誕生日にケーキを作れば、買うよりコスト安だね。

 みんな同じと言われればそうかも知れない。でも、あまりにも面白くない。

今、生きていることに気付かなくなる。

彼と話していても、自分の鼓動を感じなくなった。

 口喧嘩の時の心臓の怒りと血液の逆流は何度と無く押し寄せてくるけれど、弾むような鼓動がなければ、私は血液を送り出せず息苦しさに小さくうずくまるだけだ。


 キッチン戸棚の籐籠からチョコをひと粒。そろそろ冷蔵庫で保管しないとな、と思いながら口に入れる。


欲しいものは二つ。


 一瞬で甘い世界に引き込んでくれるチョコレートと、私の鼓動。


「都合が悪くなると無視すんのね。」

と勝利の微笑みで彼が携帯を眺めている。

都合の悪いことなど何もない。

ただ、不必要な労力はもう使わない。

彼との会話は、もうすでに、私が欲しいものを得ることは決してできない。ただそれだけだ。



 朝靄あさもやを見て、昨晩まで雨が降っていたんだな、と思った。

 雨の日は濡れて面倒だからあまり好きではない。でも、明け方まで雨が降っていて、早朝雲間から光がうっすら漏れるような朝は何となく好きだ。

 1日の始まりに雲間から指す光。

高揚感を諦めた現状を、変えられる光はあるのではないかと期待を持たせてくれる。


「かやちゃん、何かあった?」

「態度に出てます!?」

「つまらなそう。」

「ゆりさん聞いてくれます!?また昨晩喧嘩しました。」

「まだお互いに期待してるんだから可愛い喧嘩じゃない。」

「なるほど、ものは言い様ですね。究極のプラス思考。」

 ゆりさんにそう言いながら斜め左前の笹井さんをちらっと見ると、バッチリ目が合う。視線を感じていた。気のせいじゃなかった。

「かやちゃんと一緒にいて喧嘩になるってのが不思議だな。」

「笹井さんとかやちゃんは何気に気が合いそうですもんね。確かに『結婚して20年経つけどずーと仲良しですー』とか言われても信じられそう。」

「ええー笹井さんと夫婦ですか…?」

「不満か!?」

 何となく耳端で聞いていたらしい、ゆりさんのお隣の福田さんもクスクスと笑っていた。

「ゆりちゃんに同感。」と呟く。


 そんなことぐらいで、私の心臓は今を動き出す。生き生きと、明らかに。


 今朝までどうにもならない灰色の煙を胸の中に抱えていたのに、こうして目の前がクリアになれば、自分の人生なのに、誰かに揺さぶられるのなんて、1分でも1秒でももったいないと思える。


「かやちゃん、人を幸せにする力が君にはあるよ。自信を持って。」

「何それ!笹井さん!鳥肌たっちゃったよ~」

「ゆりちゃん失礼でしょ…。私はわかるよ!かやちゃんのパワー。」

「福田さんまで!?かやちゃんが誰からも愛されるタイプなのは百も承知ですが、今の笹井さんの台詞は合ってる!?」


 今度は笹井さんのお隣の前川さんが我慢できず、とばかりに吹き出す。

「今のは臭かったわ~。」

「カッコつけられないんだなー俺。残念。」

 5人の大人の笑い声の中で、何とか笹井さんに届くように。

「そんなこと言われたら落ちちゃいますよ。」

と囁く。

「落ちといで。絶対に受け止めてやるから。」

と同じ音量の声で帰ってくる。


 何も求めないし、何もないけど。

気になる人。

欲しいものがそこにある。


 まだ3人が違う話題で雑談をする中で、笹井さんはもうパソコンに目を写す。口元が満足気に笑っていた。


 どうこうしようとも、どうにかなりたいとも、お互い微塵も思ってない。

けれど、囁く音量の二人の会話は絶対に本音だ。

だから鼓動は私をまた生き返らせる。


「今の笹井さんの台詞はマジだね。」


 後からゆりさんに耳元で囁かれる。


 はねあがる鼓動と、ゆりさんの満面の笑顔、斜め左前の笹井さんから差し出されたゴディバの四角いチョコ。


「ひと息入れな。」


「みんな味方だから。」

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チョコレートと鼓動 咲良 季音 @saccot

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