初めての夜
「こいつを男にしてやってくれないか。」
たまさか通ってくる公達が、いきなり連れてきた少年を見て、夏子は驚いた。
源氏の君だ。
後ろ盾無きが故に臣籍に下された帝の愛児。
もっと幼い頃に一度見かけたことがある。帝が姉の女御を訪う時に、連れて来ていたからだ。あの時はあまりの愛らしさに、目を離すことができなかった。
もっとも、見かけたことなどなくても間違えはしない。
惹きつけられる輝かしさ。
天孫の力を体現するようなその光は、何よりも雄弁に彼が何者何かを語っている。
そして光を連れてきた公達には、確認しておきたい事がある。
「あの、よろしいのですか? 確か。」
「妹なら大丈夫だ。むしろこのままではらちがあきそうもないんでな、俺がひと肌脱ごうというのさ。」
公達の父は左大臣清成卿。
確か清成卿の姫君が、源氏の君を婿にしているはずだった。
だが公達、清隆卿の言っていることを聞く限り、源氏の君と妹君は上手くいってはいないらしい。まあ、わりとよく聞く話ではある。
尊い身分の皇子や公達が、元服と同時に添臥の姫君を決めるのは珍しくない。立后の絡む帝や東宮でなければ、この役をつとめた方がとりあえず正室として扱われる。ただ、このやり方には欠点がないでもなかった。
そういう立場に立つ姫君は、もちろん名家の未婚の姫君だ。元服を迎える若君も未婚。どちらも異性と肌を重ねた経験など持っていないのが普通だ。もちろん周囲がさり気なく心得は伝授するのだが、緊張している初めて同士では上手く行かないことも珍しくない。
そんな時、事態の打開を図るために、色好みの評判を取るような女房に婿君の指南を頼む事がある。未経験者二人より、片方が経験者であるほうが上手くいくものだからだ。
つまり清隆は夏子に、源氏に対しての指南役を頼んできているのだった。
源氏は明らかに戸惑っていた。
まあ、無理もないと夏子も思う。
いきなり女をあてがわれても、どうしたものかわからないに違いない。そもそも源氏本人に、「その気」があるのかどうか。
清隆は夏子に源氏を引き合わせるだけ引き合わせて、どこかへ行ってしまった。たぶん別の女のところなのだろうけれど、これをおかしいとは夏子も思わない。
義兄のすぐそばで女と同衾できるぐらいなら、源氏を夏子のもとに連れてくる必要はなかったはずだ。
「あの。」
本当に、困ったというような情けない顔をしていたので、夏子はつい、笑ってしまった。
「いきなりあんな事を言われても、困ってしまいますよねえ。とりあえずはこちらにいらしてお話をしませんか。例えば楽器なら何がお好き?」
源氏が褥の上に座った。
「楽器なら琴が。でも絵のほうがいい。」
「絵は私も好きですわ。物語の絵は特に。美しい着物など上手く描いてあるとどきどきします。」
話しているうちに、しらじらと空が明るみ出した。
周囲の局で人の起き出す気配がする。男を引き入れているのは夏子の局だけではないが、見つからないうちに帰した方が面倒がない。
「さあ、明るくなってから女の局を出るものではないですわ。夜の明けぬ内にお帰りになって。」
そう促すと、源氏は真っ直ぐに夏子を見た。
「また、お話をしにきても?あなたと話すと楽しいので。」
なかなかの口説き文句だ。
「もちろん。なんでしたら今夜にでも。」
「では今夜。」
打てば響くように帰ってくる。
ちょっと、いたずら心が湧いた。
「どうせなら、今宵また、とおっしゃって下さい。」
いかにも秘密めかして、ささやく。
「耳元で、ささやくように。」
源氏がそっと顔を寄せる
「今宵、また。」
夏子はぞわりと総毛立った。
庵にたどり着いた頃にはもう日が暮れかけていた。
六条院を見慣れた目には、簡素としかいいようのない庵だが、しっかりと建てられている。
庵を囲む檜垣も破れはなく、御簾も新しいものに掛け替えてあるようだ。
もっともそんなことを夏子が見て取ったのは、しばらくたってからのことだ。なんとか庵にたどり着いた時は、簀子によじ登ってへたり込んでしまった。
「よう、歩き通されました。」
荷物を運んでくれた男が感服したように言って、とっくに空になっていた夏子の竹筒に、井戸の水を汲んできてくれた。
冷たい水が心地良く、夏子の喉を通ってゆく。
「おや、おつきでしたか。すぐに盥をおもちしましょう。」
中年の女が一人、庵の裏側から現れた。すぐに盥に水を張って運び、夏子の足から草鞋をとって洗い始めた。
「おやまあ、ずいぶんまめをこさえなさって。痛かったでしょうに。まったく気の利かない。尼御前さまのお一人ぐらい、背負って登れば良かったものを。」
そう言って荷物運びの男を睨むのを、夏子が慌ててとりなす。
「背負ってくれようとはしたのだけど、私が歩きたいといったのよ。おかげでずいぶん時間をとらせてしまったわ。」
室内に入って見ると、磨きこまれた床に青々とした新しい畳が一枚敷かれていた。その側には御仏を安置するための立派な壇が作られている。
源氏院が入道した折に作らせた持仏は、源氏院と同じ身長に作られているという、大日如来の立像で、神々しくも立派なものだった。
夏子の持仏はささやかな観音菩薩像で、壇にまったく釣り合わないが、気にすることなく安置する。
これで、この庵は夏子のものだ。
ほっと息をついた夏子の前に、小さな鍋ごと粥が運ばれてきた。焼き栗と塩が添えられている。
「一息つかれましたら、お召し上がり下さい。栗はこの山で取れたんですよ。」
他にも細々としたことを言い置いて、荷物運びの男と一緒に女は帰っていった。朝にはまた、様子を見に来ると言う。
いつの間にか夜が庵をおし包んでいた。
室内には灯台がニつ灯されていたけれど、その明かりは揺らめいてひどく頼りない。
そういえば、一人になるのは初めてだ。
外をみれば山の緑が、闇を一層深く染めている。
「とりあえず、粥をいただきましょう。」
声に出すと、その声はやけに響いて、そのくせすぐに吸い込まれていった。
伏せられていた椀に粥をつぐ。
塩をぱらりと入れ、焼き栗もいれて匙ですくいながら食べた。
栗の香りと甘味、塩のしょっぱさが粥の味を引き立てている。一口食べるとお腹がすいているのに気づかされた。続けてもう一椀食べ、それから残った焼き栗を一つ、そのままでいただいた。
粥を食べてしまうと、もうすることはなかった。
膳を部屋の隅に下げ、着ていた麻の衣を脱ぐ。灯台を吹き消し、畳の上に横たわると、脱いだ衣を上に被った。
こんなに暗くて寂しくて、眠れないのではないかと思ったけれど、目を開いているのか閉じているのかも定かでなくなる暗闇と、慣れない山歩きの疲れに助けられて、夏子は眠りに落ちた。
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