花の散る里

真夜中 緒

山に行く人

 老尼が山を登っている。

 一歩、一歩、踏みしめるように。

 尼といっても髪は男の僧と同じく、青々と剃りあげられていて、遠目から見れば女とはわかりにくい。

 けれどそばまで寄ってみれば、丸みを残す肩の線や、目尻の少し下がった柔らかな目元などで、女であることが見て取れる。

 老尼は足を止め、ふうっと大きく息をついた。

 身にまとう着物は麻ではあるが、丁寧

に紡がれた糸を使い、丹念に織られた上物で、大して着萎えている風でもないのにしなやかだ。

 「尼御前さま、大丈夫でごぜいやすか。何ならわしがちょっと行って荷物おいて来ますで。そのへんで待って下されば、背負って行かせていただきますで。」

 老尼を先導していた男が振り返って話しかける。男の背には荷物がくくりつけられていた。

 「大丈夫。歩きたいのよ。あなたも時間がかかってかえってご苦労な事だけど、付き合ってやってちょうだいな。」

 にこにこと見るからに人のいい老尼の笑顔に、男は頷くようにちょっと頭を下げた。

 「わかりやした。いくらでもおつきあいしますけ。辛くなったらいってくだせえ。」

 老尼はまたゆっくり、ゆっくり、山を登り始める。一歩、一歩、踏みしめながら。


 源氏院が様を変えたとき、夏と冬の二人の夫人も倣って髪を下ろそうとした。

 源氏院の本拠である六条院は四季になぞらえた四つの庭からなり、それぞれに女主人が据えられている。

 秋の庭は前帝の中宮の里邸だ。主はもちろん中宮で、この人は源氏院の養女である。

 春の庭の主は先年身罷った。

 冬の庭は今上の中宮の里邸であり、主はその生母で源氏院の夫人の一人だ。

 この人の出家は叶わなかった。

 中宮につきそうことの多い冬の御方が、出家しては差し障りが多い。

 夏の御方と呼ばれるもう一人の夫人には、なんの煩う事もなく、さっぱりと髪を下ろした。

 ただ、髪を下ろしても生活がそれほど変わるわけではない。

 源氏院は北山の奥に庵を結び、ひたすらに仏道に励む生活に入ったが、尼といえども夫人がついて行けるはずもない。

 夏の御方は抱えられる程度の小さな持仏を奉り、源氏院の行が成し遂げられる事を祈った。

 源氏院の訃報がもたらされたのは、そんな生活が一年と少し、続いたあとだ。

 ある朝、紫の雲が出ていた。

 朝焼けの空に淡くたなびく雲はとても美しく、幻想的な光景だった。

 その雲が北山の方角に出ていたことに胸騒ぎを覚え、源氏院の庵に人を遣わすと、院が、お隠れになったことがわかった。

 夏の御方は再び髪を下ろした。

 尼そぎにしていた髪を、青々と剃り落とした。

 思い切った行動に周囲は驚いたが、夏の御方は構わなかった。

 夏の御方の名を夏子という。

 元々は夏に生まれた故に小夏と呼ばれており、そのまま夏子が諱になった。

 夏子は、絹の着物を脱ぎ、麻の浄衣を着た。ささやかな持仏を櫃に納めて背負えるようにする。その櫃を背負い、草鞋を履いて、源氏院の庵に引き移ろうとして、さすがに息子に止められた。

 「義母上、辿り着く前にお命が尽きても知りませんぞ。」

 息子のみつるは冷静だった。

 冷静に、夏子が長時間歩いたことなどないこと、そもそも庭以外ろくに歩いたことがないこと、いい加減年をとっていること、荷物を背負ったこともないこと、道が分からないであろうことなどを指摘した。

 夏子は納得した。

 確かに夏子が一人で歩いて北山の庵に辿り着くのには無理がある。

 だが、それでも庵に移るという夏子の決意が固いことを知ると、満は現実的な方策を提案した。

 庵に車を乗りつけることはどうせできないのだから、行けるところまでは車で行く。そこからは荷物を運ぶ従者を連れて歩けばいい。

 輿という提案もあったが、それは夏子が断った。少しぐらいは自分の足で歩きたい。

 身の回りの事は、源氏院の暮らしていた折にも通って片づけてくれた者がいるそうで、そのまま頼めばいいという。夏子は自分でやるつもりだったが、粥一つ炊けないと言われればその通りで、自分でやってみたいなら、世話してくれる者に習えば良いと言われた。

 満の言うことはいちいちもっともだ。

 それで夏子も満のお膳立てに任せる気になった。

 焦れさせて、また勝手に宿移りを目論まれては大変だと思ったのだろう。満の手配は早かった。

 満は良い息子だ。

 なさぬ仲どころか、元服してから引き合わされた「母代」の夏子を今も母と呼んでくれる。

 満の手配した車に乗って、夜の明け切らないうちに京を出た。

 それにしても自分は思っていたよりずっと「お姫様育ち」だったらしい。

 夏子は不思議な気持ちで首をかしげる。

 一度だって自分のことを、姫君だなんて思ったことはなかったのに。

 父の邸でも宮中でも、いつだって片隅で生きていた。

 目立たないように、誰かの気に障ったりしないように。

 女房たちの誰にも姫君扱いされる事もなく、ただ小夏君とだけ呼ばれて。

 でも、だからこそ。

 夏子は源氏に出会ったのだ。

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