11.死(死に至る病、未来への絶望から逃れる術)

 ゆらゆらと。

 イカになって、暗い海を泳いでいる。

 見上げると、頭上で大きなクジラが悲しい曲調の歌を奏でていた。


 私は人間の世界へ行こうと触手を高く高く伸ばす。

 でも届かない。


 誰かが近くでヒソヒソと笑い声をあげる。

 これは夢なのだと気がつくと、世界が輪部を揺らめかせ色褪せていく。


 遠く彼方でホラー映画に出てくるような禍々しく荘厳とした旋律が流れている。段々と音は近づいてきて、耳元で誰かが叫んだ。低くドスの利いた男の声で、何だか怒っている。英語ではない外国語で、言っている言葉は分からない。


 ぼんやりとした意識のまま目を開くと、窓から朝日が差し込んでいて、私は段々と覚醒していった。


 ドイツ語のオペラらしき音楽が、枕元の携帯電話から流れる。

 ミユの携帯だ。

 二つ折りの画面を開いてアラームを止めようとするが、どのボタンを押しても画面は反応しない。壮大なメロディの中で、男の人や女の人が何かを声高に話していた。目覚まし代わりの音楽にしては趣味が悪い。


「ワーグナーのパルジファル第二幕だよ」

 ベッドの下から腕が伸びて、携帯電話を奪った。奪った手が携帯のアンテナを引っ張ると、音楽は余韻を残さずぷつりと消えた。


「ミ、ミユちゃん、どうしてっ」

 ミユは何故か一糸まとわぬ姿で私のベッドから這い出てきた。


「えへへ、昨日はお楽しみでしたね」

 ミユは掛け布団を押しのけるとうーんと伸びをする。

 はっと自分を見ると、私も随分と乱れた格好だった。パジャマのロングシャツを裏表反対に羽織っているだけで下着を身に付けていなかった。


「と、とりあえず着替えよ」


 ふらふらと立ち上がる。

 身体はすっきりしているが、精神的な意味で頭が痛い。

 聞き質したいことが多くある。まずは落ち着かなくては。

 ミユも裸のままベッドを出た。


 その時、部屋のドアがノックされた。

「おーい、朝だぞ起きろー。すごいぞ、今日は新種のフレンチトーストを発明したんだ!」

 やけにテンションが高い。兄の声だった。

 おにいちゃん元気そうじゃん、とミユが嬉しそうに言った。


「お、おにいちゃん! い、今入ってきたら頭を蹴っ飛ばすからね!!」

 ドアに向かって怒鳴りつける。


「ははは、それはそれで……」

 兄は上機嫌に「早く降りてこいよー」と言い残し、足音はドアの前から遠ざかっていった。


 ふぅ……、危機一髪。

 ミユは何を期待していたのか残念そうだった。

「これだからおにいちゃんはライトノベルの主人公になれないんだよ」とぶつぶつ呟いている。



「ミユちゃん、昨晩のこと、ちゃんと説明してもらうからね!」

 制服に着替え終わったあと、私は妹の姿勢を正してはっきりと言った。

 ミユは気まずそうな照れ笑いをして「さすがに記憶を消すのは無理だったか……」と物騒なことを言った。

 しかし時間が七時を過ぎていたので、ミユに昨夜の一件を問い質すのは学校から帰って夕食を食べた後、つまり今夜に先送りすることにした。



 一階へ降りると、エプロン姿の兄は待ってましたとばかりにテーブルに朝食を用意した。父と母はもう食べ終わったらしく、食器洗い機にお皿を片付けている。


 ミユと並んで、食卓に座る。

 フレンチトーストの上にベーコンが乗っかっている。トーストの周りにはトマトとレタスが風景画のように添えられていた。


「いいか、砂糖と塩を間違えたんじゃないぞ。甘くないフレンチトーストを完成させたんだ。発端は俺がかつて出し巻き卵の修行をし……」

「解説はいいよ。ぼくもフレンチトーストと就職活動が甘くないってことは良く分かったし」

「……、ま、とにかく味わってくれ……」


 兄と妹が他愛のない話をしている隣で、私はフレンチトーストの一ピースをフォークで刺し、口のなかへ入れる。

 味は、たしかに甘くない。喩えるならばベーコンチーズバーガーのようだが、ゆるふわなパンの食感に塩コショウのテイストが加わると何とも不思議な感覚に抓まれるのだった。


 素直に「おいしい」と評価すると、兄は女神のように爽やかな笑顔を見せた。しかしまずはその無精髭を剃って欲しいものだと思う。


「ね、おにいちゃんは何も変わっていないよ。だから心配いらない」

 ミユが、私にだけ聞こえる声で囁いた。

 たしかに、ニートになっても兄は兄だった。今は窶れたひどい姿でも、心は変わっていない。少なくとも兄の作る料理はいつだって美味しいのだ。


 朝食を終え、私とミユはそれぞれ学校に行く。

 ミユは中学校へ、私は南高校へ。

 入学式の翌日だから、実質今日が高校生ライフの初日だった。友だちはできるだろうか。女子はすぐにグループを作ってしまう。



***** *****



「で、話を聞かせてもらうからね!」


 夜、ミユの部屋に押しかけて、私は説明を求めた。

 つまりは昨夜の催眠術とやらの趣旨である。

 記憶が次第にはっきりと蘇ってきて、私は恥ずかしさに顔を真っ赤にした。


「いやあ、おねえちゃんとイチャラブしてくてついー、そ、それだけだよ?」

「……嘘」


 私は机の上にあったミユの携帯電話を、さっと取り上げ文字盤に指を掛ける


「あ、それは……」

 動揺したようだ。読みが当たった。


「ほんとのこと言わないと爆発させちゃうよ?」


 ミユの携帯電話の待ち受け画面にはパスワード入力画面が表示され『三回Passを間違えると爆発』という赤文字が点滅している。

 自作携帯らしい。十個の数字が円盤に並んでいて、ボタンを押し込んで回せるようになっている。私は試しに、デタラメな文字列をパス欄に入力する。

 中央のエンターキーを押すと、『あと二回』という赤文字が点滅した。


「あと二回で爆発しちゃうよ」

 もちろん本当に爆発するとは思っていない。きっと、三回パスを間違えると携帯に入っているデータがすべて消去されるのだろう。妹ならいかにもそんな盗難防止プログラムを作りそうだ。


「まま、待って! あ、そうだ、じつはぼく、催眠術師を目指していて」


 問答無用で再び数字を入力してエンターキーを押す。分かりやすい嘘に付き合う必要はない。『あと一回で爆発!!』と大きな文字がチカチカと瞬く。


 すかさずダイヤルボタンを押し込んで回し、適当な数字を入力する。あとはエンターキーを押すだけで、携帯電話のデータ消去プログラムが実行されるはずだ。


 ミユは青ざめた顔で、両の手のひらを合わせた。

「お、お願い。全部話すから。本当に話すから。だからお願い携帯電話を置いて」

 目が真剣だった。涙目でさえあった。


「わかった」

 言われたとおりにすると、ミユは「はわわ」と安堵の声を漏らした。


 ミユに椅子を勧められ、私たちは机に向かい合う形で座る。

 厳かな雰囲気が、部屋のなかの空間を支配する。

 ミユは机の上に、英語で書かれた書類をいくつか広げた。


「おねえちゃんは希死きし念慮ねんりょって聞いたことある?」

「自殺願望のこと?」


「うん。厳密には異なるけれど、認識としてはそれでいいよ。人間に希死念慮を誘発する伝染性精神疾患が、パンデミックを起こそうとしている」

 ミユは淡々と言った。パンデミックとは感染爆発のことで、感染症が世界的に急速に広がる危機状況を指す。

 つまり《死にたいウイルス》みたいなのが、地球に誕生したということか。私はすでに、妹がこれから語ろうとすることの大体を察した。


「そんな自殺ウイルスの蔓延が、報道されないのはなんで?」


「病原体、感染経路、治療法、対処法、何一つ分かっていないからだよ。それに、感染症の存在そのものが公には認められていないし、学会でもトンデモ扱いされちゃった」

 それはそうだろう。

 妹の話によると、自殺ウイルスに感染すると人間は自殺衝動を抑えられなくなり、必ず自ら死ぬらしい。

《死に至る病》あまりにデタラメ過ぎて絶望的過ぎるがゆえに、誰も信じない。

 仮に信じてもらえたとしても、パニックに陥るだけだ。


「なら、その病気はどうやって発見されたの」


「現象そのものは統計から導き出された」

 そう言ってミユは机に広げられた資料をいくつか指差した。


「各国の出生率、こっちが自殺者数。どっちも去年の統計数値が合理的には説明の付かない異常値を示していて、誤差範囲外にある。つまり人間が去年から異常なほど自殺していて、赤ちゃんが産まれない。人口減少要因が世界で一斉に同時多発している」


 厳密に言えば、その感染症が誘発するものは自殺だけではないらしい。日本では自殺が多いが、国によっては性欲減退の症状が出たり、殺人衝動が沸き起こったりする。いずれにせよ、そのウイルスは人口抑制の方向に働く症状を齎すようだ。


「でもその統計、わたしの知ってるのと少し違うけど」


「ああ、異常過ぎるからだよ。異常過ぎるから、何かのミスだろうということになって誤差範囲内に収まる数値に改竄されたものが公には発表されている。で、こっちは環境収容力から逆算した修正ロジスティクス曲線で、人類の人口減少を予測してるんだ。このままだと、ニ〇五〇年までに人類は文明を保てなくなるほどに減少する」


「これって原因、ガイアだよね。地球は全体として大きなひとつの生き物だって考えるの。すると、爆発的に人口を増やして環境破壊をする人間こそが、地球にとってのウイルス。だから地球に免疫作用が働いて、人類が抵抗物質のようなもので駆逐される」


「へぇ……」ミユは感心した声をあげた。


「まぁ、おねえちゃんみたいな仮説を立てる人も多いけどね。とりあえず話を進めようか。統計から明らかになった自殺増加や出生率低下を引き起こす精神異常を分かりやすく《希死症候群》と言うよ。これは他の精神疾患と違って、薬やカウンセリングで症状を緩和できない。原因物質は不明だけれど、網膜にある錐体細胞の一部が変質することが分かっている。外部から判断できる症状としては、片方の目だけが一重あるいは二重になったり、まぶたが腫れぼったくなったり、片目だけ瞳孔が開きっぱなしになったりする。自覚症状は、自殺を欲すること。『未来が視えない』と表現される絶望感」


「そこまで分かってるなら、患者を自殺できないように隔離拘束するべきじゃない?」


 ミユはゆっくりと首を振った。

「そもそも感染症自体が眉唾物扱いされてるし。存在そのものを証明する手立てもないし。ほんとは人体実験もしたいんだけどね」


 なるほど、妹が家族に隠れてコソコソとやっていた研究は、これだったのか。

 もっとも、ミユの希死症候群仮説の理論の綻びや矛盾点、突っ込みどころはいくつか見つかったが、今ここで指摘するのは野暮かもしれない。


「で、それが昨日の催眠術とどう繋がるの?」


「ワクチンだよ。後催眠暗示をかけて、希死症候群の発症を予防する。おねえちゃんの言う《ガイアの意思》じゃないけれど、この病気は人間をやっつけることを目的としている感じがする。ゆえに、発症要件は人間であること。つまり、認識の上で人間をやめればいいんだよ。人類から最も遠く、そして人類に匹敵する知性を持つ生物である《イカ》の意識を目覚めさせる。僅かな可能性だけど、助かるかもしれない」


 だからねとミユは続けて言った。

「おねえちゃん、今夜もイチャラブしよっか?」


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