第二章――解凍篇――

09.兄(なんでおにいちゃんはニートになったの)

【第二章 ――解凍篇―― In the case of Yukiha Hino(日野雪葉の場合)】


 ◇ ◆


 中島敦の山月記では李徴りちょうという、かつて随一の秀才だったのに小役人に落ちぶれてしまった男が虎に変身する話が描かれている。変身と言えばカフカの作中に登場するグレーゴル・ザムザも真面目だが出世できないセールスマンだったか、彼も毒虫に変わってしまった。


『人間が異形に変質する』それは変身譚においては始まりであると同時に、悲劇にしか到達し得ない点で人生の終焉を意味する。


 私、日野ひの雪葉ゆきはがこの場で伝えたいことはつまり、兄がニートになった。四月から、兄はニートになったのだ。李徴が虎となったように、グレーゴルが毒虫となったように、兄はニートになってしまった。


 それが私にとっての絶望の始まりである。

 未来が、視えなくなったのだ。


 だから私は南高校の入学式から帰ると、真っ先に兄の部屋へと向かった。


「ユキ、入る前にノックをしろと……」

 兄はパソコンをスリープモードにしてから、回転椅子で向き直った。ノックをせずに入ったのは、兄が就活もせずに公序良俗に反した趣味に現実逃避するのを牽制するためだ。


「おっ、それが高校の制服かー。セーラーもいいけどやっぱブレザーが似合うよな。とりあえず……」入学おめでとう、と兄は言った。

 おめでとう、の部分だけは本心を感じさせる音色で、私は少しだけ心に温もりを取り戻した。


「ばか! そんなことどうだっていい。なんで……どうして……」

 感情的になってはいなかったが、おおよそヒステリックな妹らしく曰ってみる。シェイクスピアも言っていたではないか『すべてこの世は舞台、男も女もみな役者にすぎない』と。妹が本当に《妹キャラ》であり《妹の心》を持っているなどと信じ込んでいるのは、一部のシスコン達だけである。


「ねぇ、教えて。どうしておにいちゃんはニートになったの!!!」

 畳み掛ける。残酷な問いだがしかし、私の心の奥底の深い悲しみだけは本物だった。


 嘘ではない涙を流し、真っ直ぐに兄を視る。


 目の前にいる兄だったモノの荒んだ姿――、感情が消えた虚ろな瞳、血の気を失った顏を無精髭が影のように覆い、艷のない髮は茫々と肩まで伸びて、皺苦茶のシャツは襟元が淡黄色に薄汚れてる。


 違う! こんなの、私の知っている、私の慕っていた兄ではない。就職活動は、彼を化け物に変えてしまったのだ。


 兄の目が見開かれた。

「べ、べつになりたくてなったわけではないぞ……」


「嘘つき! 私は一生懸命勉強して、ちゃんと志望校に受かったのに……」

 自然と涙が零れ出てくる。兄がこんなやつれた姿になってしまったことが、悲しくて悔しかった。


「わ、悪かったよ。だが心配するな。こ、これは戦略的モラトリアムなんだ。そ、想定の範囲内さ。ははは、心配するな。大丈夫さなんとかなる」

 顔が笑っていなかった。瞳孔にハイライトがない。死んだ魚の目のようだった。死んだ魚の方が、幾分かマシだと思える程だった。


 私は急に恐ろしくなって、何も言わずに部屋から飛び出た。

「お、おい、ユキ!!」

 背中にかかる兄の呼びかけは、今の私には虎と化した李徴の咆哮のように聞こえた。


「おねえちゃん、大丈夫?」

 リビングのソファで泣いていると、ミユが心配して声をかけてきた。妹のミユは今春で中学二年生になる。兄と同じかそれ以上に賢い妹だが、知能を隠し通せない点で幼い愚かさがあった。


「おにいちゃんが変になっちゃった……」

 私は曖昧に誤魔化しつつも兄の変質について報告しておこうと思った。


「えっ、元から変だよ」ミユは即答する。


「そうじゃなくって、生きてるのに生きてないみたいな……」

「なるほど、生物的には生きてるのに、社会的には生きてないってことだね」

 ミユは自分のジョークが気に入ったようで、手で口を隠してクククと笑った。どうも自分の方が誤魔化されてしまった感がある。


「おとなになるのって怖いなぁ」

 独り言みたいに呟いてみる。

「どうして?」

 ミユが訊く。


「だってさ、大人になったらみんな、死んだ魚の目になっちゃう」

「……、それは怖い」


「たまにさ、何のために生きてるんだろうって考えるの。中学の頃は、志望校のために頑張る毎日だったけど、いざ合格したら目標も消えちゃったし。この先、大学受験も就職活動もやってくる。でもそうやって未来のために生きてても、結局最後には死んじゃうのになあって」

 さて、女子高生が世間一般的に抱き得る平凡な問いに妹はどう答えるか。


「なるほど、そゆこと」ミユは納得したふうに言った。

「つまり、おねえちゃんは兄がニートに変質したことを受けて、未来に絶望したんだね。より正確に述べるならば、資本主義社会で我々が《未来》を《生の指針》として、駆り立てられて生きていること。未来にある理想や発展が、まるで今在る《生》を肯定してるかのように偽り振る舞うこと。我々が一般に思い浮かべる《生きる目的》が突き詰めれば――最終的な死を前提とするならば――すべて虚無となってしまうこと。

 そういった現代の隠れニヒリズムの思想におねえちゃんは気付いてしまい、ショックを受けたわけだ」


「よくわかんない……」と、答えておく。野暮なツッコミは無意味だろう。


 ミユは、おねえちゃんには難しい話だったから気にしなくていいよ、と言ったあとで、

「死んだ魚の目と言えば、アンデルセンの人魚姫はどうして幸せだったと思う?」と質問した。


「いや、私にはそもそも人魚姫が幸せには思えないけど。恋は叶わなかったし、死んじゃうし……」

 人魚姫はまず、魔女の手によって人間へと変質させられ、最後は海の泡になった。人魚姫もまた変身譚のひとつであり、変質は悲劇しか生まない。


「人魚姫は自分の死については覚悟してたと思うよ? 八百比丘尼やおびくに伝説で知られるように、不老不死の象徴人魚の寿命は一千年。つまり、人魚姫が寿命八十年ぽっちの人間に《変身》した時点で、それはとっくに自殺に等しい行為だったんだよ。

 あと、人魚姫は本当に、王子様と結婚するという《未来》のために生きていたのかな?」


 私は首を振った。

「わたしが、いま、愛しているから」

 人魚姫の愚かだったところは、恋が脳内麻薬の分泌による一過性の幻覚だと気づかなかったことだ。恋は盲目。


「そう、恋は今この瞬間の生への絶対的肯定となり得る。ゆえに、人魚姫は幸せだった」

 ミユはそう結論づけた。見事に食い違った。



 だからね、おねえちゃん。ミユが私をソファに、優しく押し倒す。

 未来が視えなくなったら、恋をしましょう、お姉さま。

 柔らかい唇が頬に触った。


「おねえちゃん、今夜イチャラブしよっか?」


「……えっ?」


 妹との奇妙な夜の関係が始まったのは、そう、忘れることもない四月の入学式、兄がニートへと変身した、あの日だったのだ。

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