第96話 御霊会

 祭りの当日の朝早く、絵屋の人々は、どんどんと戸を叩く音で眠りを破られた。

 戸を開けると、血相けっそうを変えた小六が飛び込んできた。

「たっ、大変です!大変なことに……。」

 菊は裸足はだし土間どまに飛び降りた。

「ともかく早く、来てください、屏風も山も大変なことになってしまったんです!」

 気が付くと、小六も裸足のままだった。

 会所に駆けつけてみると、そこは想像以上の無残むざん有様ありさまだった。

 内部はめちゃくちゃに荒らされていた。

 屏風は踏み破られ、ぷたつに切りかれていて、もうどうしようもなかった。舁山かきやまに載せられた安倍晴明の人形は引き抜かれ、地面に落ちていた。かざまくは皆、引きちぎられて、山は骨組みだけの寒々さむざむしい姿と成り果てていた。

「誰がこんな……ひどい……。」

 菊は言葉も無かった。

 達丸がと泣き出した。

悪戯いたずらにしてはひどすぎる。誰か、悪意を持つ者の仕業しわざでしょう。」

「これでは祭りに参加出来ませんね。」

 人々はがっかりして口々に言った。

「いいえ、まだ間に合います。」

 声のほうに皆、振り向いた。

 新兵衛だった。

 揚羽と共に駆けつけてきた彼は一人、皆から離れて、人形と山を調べていたのだ。

「人形は今から直しても十分じゅうぶん、間に合いますし、舁山の骨組みもすぐ、修理出来ます。飾り幕の替りさえ見つかれば、どうにかなります。」

 屏風はあきらめるしかない。

 でも舁山さえ無事なら、祭りに参加することが出来る。

「幕の替りは、あります?」

「それは……。」

 皆、顔を見合わせた。

 出来たばかりの町会だ。歴史ある他の町とは違い、財力のある店など無い。日々の暮らしを切り詰めて貯めた金で、やっと整えた飾り幕なのだ。

「何か無いかしら。そう、今日一日だけでも、飾ることが出来ればいいのよ……。」

 菊は考えた。

 空を見上げた。曇りだが、今日一日はもつだろう。多分、夜からは雨が降る。

 いいことを思いついた。

 人形と山の修理は新兵衛に任せて、菊は達丸を連れて大急ぎで店に戻った。会所の片付けのために、二、三人を残して残りの店の者を、応援にやった。店に残った者たちには、墨や絵の具を用意させた。自分たちは大きな紙を集めた。

 そこへ慶次郎が駆けつけた。

「会所が荒らされたんだって。俺は犯人を捕まえる。」

「いい、時間無い。手伝って!」

 様々な植物の図柄の版木はんぎの型に、きんぎんでいを付けて、具引ぐびきされた下地したじの上にり出していく。

 急ぎ仕事で、果たして金銀泥が上手うまく落ち着いてくれるかどうか心配だったが、菊はあえて、その懸念けねんを心から振り払った。

 刷り上った紙を山の前懸まえがけ、左右の胴懸どうがけ後懸うしろがけの大きさに張り合わせていく。

 慶次郎が舌打ちした。

 着物のすそが、紙に触れる。

 突然、くるくるっと着物を脱いで、ふんどし一丁いっちょうになった。

「ぎゃあっ!」

 菊が悲鳴を上げるので、

「なっ、何だっ、どうしたっ!」

「やだっ!」

 になって、顔をおおっている。

「そっ、そっちこそっ、そんな格好じゃ駄目だろう!」

 慶次郎もられて、がらにも無く、赤くなった。

 菊もたすきけにして、思い切りよくすそをまくって、帯にはさみ込んだ。

 真っ白い二の腕や太ももがあらわになると、彼はもう、目が離せない。

「……はァあ。」

「なっ、何、ため息、ついてんのよっ!見ないでよっ!」

 達丸がとうとうキレた。

「何、二人ともデレデレしてんのっ!」

 そこへ平助が、墨の入ったおけを運んできた。

 床に置こうとして、足をすべらせた。

 桶は宙を飛んで、紙の上でひっくり返った。

 見る見るうちに墨が広がっていく。

「ご、ごめん!」

 あわてて前掛まえかけで墨を押さえようとする。

「待って、触らないで!」

 達丸は何処かに走っていった。

 しばらくして戻ってきた彼の手には、菊がふすまを描くために用意していた大きなワラ刷毛ばけがある。

 着物をてた。

 刷毛の先を墨にひたすと、思い切りよく線を描いていく。墨がねて、身体中真っ黒になったが、構わない。体全体を使って、広げていく。

 気が狂ったか。

 時間が無いと言い過ぎた、と菊は思った。

 あきらめて、めちゃくちゃにするつもりか。

 菊は達丸を止めようと一歩、踏み出した。

 その肩を、慶次郎がつかんで、止めた。

「待て、見ろ。」

 そこには、大きな大きな黒い牛が現れていた。

 墨のにじみは、黒い牛をかえって立体的に見せている。ぼけたところは、牛の身体に表情をつけている。

「これ、前、女将おかみさんが扇に描いた黒牛だね。」

 ぺたっと座り込んで、呆然ぼうぜんながめていた平助が言った。

(確かに。でもこの牛は)

 菊は思った。

 あたしの描いたものより、はるかに見栄みばえがする。

 当時の絵の修行は、先人の絵の模写もしゃから始まる、西洋日本いずれの画家をも問わない。

 しかし達丸は、素材そざいを自分なりに咀嚼そしゃくして、元絵より遥かに、見る人に訴えかけるものにするのが得意だった。

  達丸は井戸に行き、入念にゅうねんに身体を洗った。

 別のワラ刷毛を手にして戻ってくると、今度は、紙の上に、真っ白な胡粉ごふん大胆だいたんに広げ始めた。こちらにも、見る見るうちに、白い生き物が躍動やくどうする。

 それは、お辞儀じぎをする白い象だった。

 懸飾かけかざりはどうにか間に合った。

 まだ絵の具の十分じゅうぶん乾かぬそれらを、大急ぎで舁山かきやまに取り付けると、ながえかついだ男たちが大急ぎで出発した。

 他のほこや山が、赤を基調きちょうにした異国のゴブランおり絨毯じゅうたんを懸飾にしている中、一つだけ、白地に金銀の四季の花々が乱れ咲いている山は、あか珊瑚さんごたまの中に一つだけ混じった真珠しんじゅのように、あざやかに、いきに見えた。その横腹よこばらには、黒く猛々たけだけしい大きな牛と、先年せんねん、都を騒がせた白い象が踊っている。

 まちすずめ度肝どぎもを抜いた懸飾も、夜になって降ってきた雨で、翌朝には道端みちばた水溜みずたまりの中にくずけてしまったが、それからしばらく人々の眼に残り、こわされても伝説通りに蘇生そせいした安倍晴明の舁山とあいまって、うわさ話の種になったものだった。

 あの懸飾が五条の絵屋の手になるものだとわかって、屏風や料紙りょうしの注文が増えた。

 出血覚悟で請け負った仕事のおかげで、かえって版図はんとは広がった。

 だが、彼女の心には、おりのようにまった不安がある。

(会所を荒らした犯人は誰だろう)

 床についた泥足の跡も、手ひどい荒らしぶりも、複数の犯行を示唆しさしている。

(中でも屏風が、一番の被害を受けた)

 絵屋をねらった犯行ではないか。

 口には出さなかったけれど、菊は確信している。

 今回は上手うまく切り抜けた。

 けれど次回は、果たして上手くいくだろうか。

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