第71話 後妻打ち

「これがその扇じゃ。なかなか良いものであろう?」

 お松は扇を広げてみせた。

「素晴らしいです。」

 慶次郎はニコリと笑った。

「小さい店だったけれど、女主人はりんとして腕も確かだった。名のある家の出のようじゃった。おおかた、戦で身を落とした家の者なのであろう。殿どのは自分と境遇が似ていると、たいそう同情なさってのう、又、訪ねてみようと、帰り道しきりとおっしゃっておいでだった。」

「又、道に迷わなければよろしいのですが。」 

 慶次郎は意見した。

「豊臣と前田の奥方が供も連れずに道行みちゆきとは、穏やかではございませぬ。」

「そなたに言われたくはないわ。」

 お松は厳しい声で言った。

何処どこぞの家にびたりとか。家中かちゅうではそのうわさで持ちきりじゃ。いずれ利家殿の耳に届くは必定ひつじょう。あまり心配をかけるでない。あのお人はああ見えて……。」

「気が小さい。」

 慶次郎がニヤッと笑うと、お松はたまらず吹き出した。

 大人しそうに見えてこの叔母の方が本当は、武張ぶばった叔父よりよっぽど肝が太い。ぐる年の戦の折、叔父があんまりケチなので、皆の前で銭を投げつけて、タンカをきってケンカしたという逸話いつわの持ち主であるこのひとに、ひそかにあこがれていたこともあったっけ。母が呪いをかけたとうの相手だが、親身しんみになって心配してくれるこのひとに、嫌な思いをさせられたことは一度も無かった。ひょっとして、こじれてしまった母への思いの代わりに、このひとを母と慕っていたのかもしれない。

は、如何いかがしておる。もう加賀かがへ戻ったのか。」

「いえ。戻る支度したくをしているところです。」

「ここにとどまる気は無いのか。」

「無いと申しております。」

虎丸とらまるは連れてゆくのか。」

 慶次郎はうつむいて答えた。

「あちらで引き取ると。」

「そなたが、おこうを引きとめないのは」

 お松はたたけるように尋ねる。

「そのかよづまのせいか。」

 慶次郎は顔を上げて、きっぱりと答えた。

「あの方とは何の関係もございません。あの方は私とは、そのような仲ではありません。これは我ら夫婦の間で取り決めたこと。あの方の評判を傷つけるようなことは、何もございません。」

「それは真実まことか。」

「誓って。」

 お松は表情をゆるめた。

「そなたはつくづく家庭に恵まれぬ男よの。でも、そんなそなたが、そこまで言うとは。よほど気に入っておるのじゃな。そなたがそれほど女子おなごに夢中になるなど、初めてであろう。良いひとなのじゃな。」

「素晴らしいです。」

 慶次郎は微笑ほほえんだ。



 慶次郎の頻繁ひんぱんな来訪は人目を引かずにはおられず、その結果として菊は、思いもかけぬひとの訪問を受けることになった。

 慶次郎が、加賀の義父殿の具合が悪いという、行って見舞みまってくる、と、都を旅立った、翌日のことだった。

「それが……御存知ごぞんじの者、としか、おっしゃいませぬ。」

 揚羽が眉をひそめて告げた。

人品じんぴんいやしからぬ、どこぞの大身たいしんの武将の奥方と、お見受みうけいたします。お忍びのようで、お供を二、三人連れたきりです。」

 心あたりは無かったが、お通し申せ、と言って、菊は絵筆を置き、たすきを取って、ちょっと身づくろいして立ち上がった。

 部屋に通されている女を見て、菊ははっとした。

 それは慶次郎の妻だった。

「こう、と申します。」

 妻は深々と頭を下げた。

「先日は無礼ぶれいを働き、申し訳ございませんでした。」

 しおらしく言うと、生来せいらい美貌びぼうとあいまって、

(ほんとに非の打ち所も無い)

 急に、自分の身なりが気になった。袖の何処かに、墨がねて飛んでいるに違いない。

 しかし、妻のしおらしさはそこまでだった。

「私のことは亭主から聞いておいででしょう。」

 妻は菊の顔を、きっと見据みすえた。

「さぞかし色々と、悪く言っていたでしょうね。でもあの人と暮らすのがどんなに大変か、あなたさまにはおわかりになりますまい。」

「ちょっとお待ちください、誰もあなたの悪口など言っておりません。」

「私はずっと一人で苦労してきたのです。一人で家をりし、一人で子供を育ててきたのです。」

 妻は、菊の言うことなど全く聞いていないようだった。

「私、加賀へ帰ります、子供と一緒に。もう都へ出てくることはありません。二度とお会いすることも無いでしょう。私は子供を支えに生きて参ります。」

 妻は自分の言いたいことだけ言うと、菊の混乱した表情を一瞥いちべつして、店を出た。

「あの、待って……。」

 菊は走って、妻を追いかけた。往来おうらいで呼び止めると言った。

「前田殿に奥方がいらっしゃることを、私もあのとき、初めて知ったのです。私とは比べ物にならないほどの強いきずなをお持ちであることも、よくわかりました。私なんて、あのひととは、何も無いと言ってもいいくらいです。ですから、どうぞよく御亭主とお話し合いになって、あっ!」

 菊のほおを、妻はいきなり思いっ切りひっぱたいた。

 菊は見る見るうちに赤くなった頬を押さえて、呆然ぼうぜんと立ちつくくした。

 妻は手を下ろすと、押さえた声で言った。指先がぶるぶる震えている。

後妻打うわなりうちじゃ。本当は大勢で押しかけるのが作法さほうなれど、これくらいで勘弁かんべんしてつかわす。」

 妻の後姿を見送る菊の顔を、通りすがりの人々がじろじろ見ながら行き過ぎた。

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