第70話 三河万歳
それから慶次郎は
といっても何をするでもない、まるで我が家のように上がりこんでは、勝手に茶を
奥で半日、
「何読んでるの?」
たまたま来ていた松が、そっと後ろから忍び寄って手元を
「えーっ、何、『
松が大声を出すので、慶次郎は
「俺が『源氏』読んじゃおかしいか。」
何やら赤くなっているようだ。
「おかしくないけど……意外。読めるの?」
「失礼だな。俺だって本くらい読むぞ。」
どうやら本気で怒っているようだ。
松がまじまじ慶次郎を見つめると、今度こそ本当にかーっと赤くなった。
本を
松は尚も追いかけて、
「
「家が滅びようと、身が落ちぶれようとも、姫君は変わらないものを持っていた。彼女が絵なら、俺には何があるんだろう、と思って、本を読んでいるんだ。俺は、あのひとにふさわしい男になりたいんだ。」
言い捨てて、さっと出て行った。
後には、ぽかんとした松が残された。
「やだ……
源氏物語や伊勢物語を読んでいるのは別に、慶次郎だけではなかった。それは当時の流行だった。
旧勢力を憎み、激しく対立した信長が倒れると、彼らはそろそろと息を吹き返してきた。あとを継いだ秀吉が、武家でなく貴族の
古来貴族は、
貴族は同時に、世の中にその武器である『文化』を宣伝し始める。それは戦が止んで落ち着いてきた人々の心にしっくりとはまった。もともと、上流の武士階級は幼少の頃から寺に預けられ、
人はパンのみにて生くるにあらず、いわんや武器と金においておや。
その結果としての古典文学ブームなのだ。
この
国を失い、家を失い、それでも彼女には家柄があり、
菊は、あの死の
皆、無くなってしまった。焼けたり、
(ものは皆、滅びる、でも)
その姿は、彼女の心の中にくっきりと残っている。
(誰にも奪えない、あたしの心だけは)
いわば
彼女の扇は、たちまち都の評判となった。
移った当初は広々として嬉しかった店もすぐ
年の頃四十前後とみえる婦人たちは、目立たぬながら上等な絹の着物を身につけていて、
「本当に助かりました。慣れない道で迷うておるうち、何やら目の前がぐるぐる回りだしてしもうて。」
「このひとを
「最近太って太って、座ってばかりいては身体に毒じゃによって、少し歩いたほうがええと言うて、二人で出かけたらまあ、このようなことに。」
「これからは転がって歩くことにしようかのう。」
「我らは田舎者での。国は
「晩のおかずを分け合い、
「亭主殿はいつも戦でおらぬし、今では亭主殿より深い仲じゃ。」
「ほほほ、誰と結婚したかわからぬわい。」
又、ひとしきり笑った後で、色白で目がぱっちりとした
「我らを案内してくれたお子は、こちらの
「あ、又、遊びに行ってしまいました。」
大勢の子どもに混じっていても、色白でひ弱な感じの達丸はひときわ目立つ。
「どうかお
弱った
(でも武将のすることとして、ふさわしいとはいえない)
「あのお子は……あなたさまのお子か?いえ、ぶしつけなのは承知なのですが、たしか、叔母上と呼んでいたような気がして……。」
「
清須の殿さまに討たれたのです、と心の中で付け加えた。
口に出しても仕方ない。織田の
でも二人の婦人たちの表情は
まだお若いのに、さぞかしご苦労なさったであろう。子育ては言うに言われぬ苦労がある。子供は可愛いものじゃ、もっとも一番ほっとするのは寝顔を見ているときじゃが。
「そなたは、お子はおらぬのかえ?失礼ながら、ご亭主は?」
「訳あって、主人とは別れて暮らしております。子はおりません。生まれなかったのです。」
「まあ。」
太り肉の婦人は益々共感したように叫んだ。
「私も子はおらぬ。でも、子供が大好きじゃ。」
「この人はほんに子供好きでの。自分には子が生まれなかったからとて、あちらこちらから子供を集めてきて、一生懸命育てておる。子供だけで一部隊できるわ、のう。」
「子は宝じゃ。それにしても
そのとき近くの寺から、鐘を突く音が聞こえてきた。
「おや、もうこんなに遅くなって。帰らぬと。」
「帰るにも道が
「店の者に案内させます。」
「いや、それには及ばぬ。」
婦人たちは
菊は仕方なく、手元にある、まだ何も描いていない扇の
「これは良いわ。地図を書いてもらっても、折りたたんで持っているうちに、破けたり無くしたり。」
「何処にしまってあったかも忘れてしまったりして、困っておったのじゃ。そうか、地図の扇か。」
「これは良いものを。お
「いえ、これは差し上げます。」
「さんざんお世話になっておいて、それはあまりに申し訳無いこと。」
「いいえ。私こそ、有難うございました。」
菊は心を込めて言った。
「女が子育てしているなんて、当たり前のことだと思われているというのに、こんなにお
「私は
「私は
二人の婦人は名乗った。
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