第44話 ややこ
武田家は
「あやつめが甲斐の山奥で猿どもを相手に
憎々しげに言う信虎の話など、
塀ひとつ隔てた二条御所の周辺はすっかり焼け野原だった。本能寺の変からしばらくはここ御所にも避難民が入りこんで、
白い玉砂利はそんなことがあったのが嘘のように、朝露に濡れて清らかに光っている。
建物の前面には
「ヒョッヒョッヒョッ。
憎々しげに言い捨てて信虎は去ろうとした。
その背中に松は、
「まあ、見てらっしゃい。後で恐れ入りましたって言わせてやるから。」
声をかけた。
信虎は鼻で笑うと、建物の中に姿を消した。
一同は舞台に上がった。松と菊の後ろに家臣たちがずらりと並んで、皆、
御簾の後ろから衣のすれる音や
「皆さまおそろいじゃ。始めよ。」
お付きの女房らしい人の声がした。
松と菊はかしこまると、囃子方に合図した。楽の音が流れ始めた。
松と菊は着物の
「顔が見えると年がばれちゃうしね。」
まるで少女のように幼く見えるこの衣装は、松と揚羽が苦労して考え出したものだった。
「誰が言い出したか知らないけれど」
松は言う。
「『踊り』なんて
身は浮き草よ
根を定めなの 君を待つ
苦心の衣装は大変可愛らしく、やや調子の速い楽の音に乗って、身振り手振りをそろえて踊る二人の姿に、御簾の内からは、
「ああ、
「ほんまに、
「ややこ踊りじゃ、ややこ踊りじゃ。」
と感嘆のため息が漏れた。
松が危ぶんでいた菊の踊りも、猿若の指導のおかげか本人の努力の
ややこ踊りが終わると、松は頭に被った布を取り、木立の影で素早く衣装を換えて、今度は一人で踊り始めた。
集団で演じるもの、という踊りの
衣装は商売ものの古着の切れ端を上手に縫い合わせた、大人びた落ち着いた色合いのもので、踊りは先ほどとは打って変わって艶やかで巧みなもので、大人の色気を感じさせた。
これ以上無いほど晴れがましい舞台は、彼女の
昨日から今日まで 吹くは何風
恋風ならば しなやかに
落とさじ
しなやかに吹く 恋風が身にしむ
見物人は、
「ほう、今度は先ほどのややこの
「かか踊りじゃ、かか踊りじゃ。」
皆、一層満足したようだった。
踊りが終わって、松が平伏すると、正面の御簾の中から女の声がした。まだ若い女のゆったりとした調子の声である。
「見事な踊りじゃ。
菊も松の横に並んで平伏した。
「名乗るがよい。」
松が答えようとしたとき、菊が言った。
「菊、と申しまする。」
「菊……そなたらを紹介した
松は、馬鹿正直に本名を名乗った菊にも、何か適当な
「いいえ。」
青ざめて
「私共は武田の家とは何の関係もございませぬ。これなる一座は
するすると御簾が上がった。
そこに座っているひとの姿を見て松は、あっと声を上げた。
それは本能寺の変の折、二条御所から助け出した女性だった。
(そうか、誠仁親王の
火が迫る中、松は誠仁親王とその妃を守って御所に駆け込んだのだった。
「あの折は気も
女御はじっと松を見ながら言った。
「あの炎の中、よく助けてくださった。礼を言います。来月は
さらさらっと御簾が下がった。
人々が
松は舞台につっぷしたままだ。
菊は松が泣いていることに気がついた。
「あ、あの、ごめんね、松。」
菊はおろおろと声をかけた。
「私、ドジばっか踏んじゃって、気にくわなかったのはよくわかるけど、わざとやったわけじゃなくて、これでも一生懸命……。」
「ううん。」
顔を上げた松は、涙のたまった目のまま、にっこり笑うと、
「私今まで、舞うのは、ひとに
これは夢だろうか。松がひとに頭を下げている姿を見るなんて。
皆、感動した。
でもその後、彼女の口をついて出た言葉は、やっぱり松のものだった。
「でも何よりやっぱり、私が
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