第99話 四季草花図

れたよ。」

 達丸は得意そうに、菊の目の前で、細長い物を振って見せた。

 信虎の屋敷の縁側えんがわに、祖父と共に腰を下ろして、達丸と慶次郎が畑仕事にせいしているのを、見るともなく見ていたのだが、何をしていてもふすま絵のことを考えていて、つい、意識が飛んでしまう。

「何、それ。」

Il granturcoとうもろこし南蛮なんばんキビって呼ばれてるって。ねえ、見ててよ、見ててよ、eccoほら!」

 達丸がもったいぶって、細長い緑の皮をくと、黄色いあざやかな実が姿を現した。

「あら、きれい。」

「ジョアンにもらった種、いたの。」

「ほらっ、これも。」

 慶次郎も、菊に何か見せたくてたまらないようだ。

(お前は、コドモか)

 こぶしを菊の鼻先に突き出して、ぱっと開いた。

「うわっ、クサい!」

ポモドーロトマト、というそうだ。」

 小さな赤い粒々が、くしに刺したようにぎょう良く並んでいる。可愛らしい外見に似合わず、強烈な匂いだ。

「こんな物、食べられるの?」

「観賞用、だそうだが」

 ぱっと口に放り込んだ。シャキシャキといい音をたてて、んだ。

美味ウマくはないが、食えないこともない。」

「変な物、達丸に食べさせないでよ。」

「甲賀の者は、山や野に生えている草から薬を作るんだ。南蛮から次々に新しい植物が入ってきているから、育てがいがある。」

「早く焼こうよう。」

 達丸が、慶次郎の手を引っ張った。

醤油たまり付けて焼くと、美味いんだそうだ。」

 二人が台所のほうへ行ってしまうと、菊は言った。

「何で今更、寧々さまは、御自分の権威けんいを見せつけようとなさるんでしょう。だって奥方たちが上方かみがたに出てきて数年たつし、太閤の初めての子が生まれたときだって、皆さま、挨拶にみえたんでしょ?やっぱりまだ、『黒百合』なんですかねえ?」

「黒百合?何じゃ、それは。そなたの頭の中は何が詰まっておるか、わからんの。」

 信虎は、あのうわさ話を知らないらしい。

「そりゃあ、今のほうが、世継よつぎのある無しが大問題だからに決まっとるではないか。よいか、太閤は関白の地位を甥に譲った。後継者と定めたのじゃ、それなのに実子じっしが生まれてしもうた。しかもあの側女は、やたら気位きぐらいが高いとの評判じゃ。皆、関白のお立場はどうなるのだろうと、ひそひそ言っておるわ。」

「そうか、女の争いに、跡目争いが加わったというわけね。」

「そちの言う、女の争いというのが、何を指しているのかわからんが。」

 信虎は言った。

 そうよね、女子供の意見なんて、勘定かんじょうに入ってないもんね、この人は。

「北政所は、豊臣家の将来をうれいておるのじゃろう。」

 茶をすすった。

「あの家は、あの女と亭主が一代いちだいで築き上げた家じゃ。それを何を勘違いしておるのか、あの側女は、織田の血筋ちすじに政権が戻ってきたと思っとるらしい。だから北政所は、家の傾きを正そうとしておるのよ。武田が滅んだのは、そうやって大局たいきょくを見て、かじりしようという人間が、一人もおらなんだからじゃ。ところで、その襖絵は城に飾られるのか。」

「ええ、寧々さまのお部屋に。」

「わしも見てみたいのう。」 

 らしくないことを言う。

 槍でも降るんじゃないか。

「なに、城が見たいのよ。」

 菊の表情に気づいたのか、ひとごとのように言う。

宮中きゅうちゅうには上がっておるが、城というものには入ったことがないでの。」

 そういえば、公方くぼうの住まいも躑躅つつじさきも皆、城ではなく屋形やかただった。

 忘れていたけど、この人も戦国大名の一人だった。国を追い出されて久しいけれど、この枯れたような老人でも、『いくさびと』の血が騒ぐことがあるんだろうか。

「まあ、そのうち機会もあるじゃろう。」

 ちょっと気の毒になった。

 話題を変えた。

「それにしても、よくやりますよね。」

 手入れの行き届いた畑を見た。

「公家の間でも流行じゃぞ。」

「ええっ、こんなものが。」

「花を育てたり、野菜を育てたり。」

「ふうん、町の人には珍しいのかしらん。」

「そうじゃ。この風情ふぜいがわからんとはな。」

「悪かったですねえ、田舎者で。」

「育った実は食することも出来るしの。趣味と実益を兼ねておる。茶室でも、山里やまざとふうにあつらえるのが流行じゃ。皆、緑にえておるらしいのう。」

 何かがつかめた気がした。

 香ばしい匂いが鼻を刺激した。

 とうもろこしを入れた皿をささげて、得意そうな達丸を先頭に、慶次郎が戻ってきた。



 夫人たちは緊張しきって、大坂城に伺候しこうした。

 太閤は、以前会ったときより一段と年をとったように見えた。

 大友の家が取りつぶされた話は皆が知っていて、我が家にも災難がおそい掛からないか誰もが心配していたが、太閤は女性たちの前ではすっかり好々こうこうに成り果てているかに見えた。貞操ていそうの危機にさらされるというのは、単なるうわさ話のようだった。

 次に対面たいめんした側室は相変わらず丈高たけだかで、まるで彼女が天下の主のようだった。

 それにしても並み居る側室の誰も懐妊かいにんしないのに、何で彼女だけ次々と、と誰もが思い、でも口に出す者は誰一人として居なかった。

 冷え冷えした思いで太閤と側室に対面した夫人たちは、では次に正室の元に参上を、と気を取り直した。

 案内をうた夫人たちは部屋に通されて、皆、一様いちよう感歎かんたんの声を上げた。

 金色に輝く花畑があった、と見えたのは、金箔きんぱくふすまに描かれた様々な草花だった。

 玉蜀黍とうもろこし鶏頭けいとうすみれ立葵たちあおい山帰来さんきらい、竹、薔薇ばら秋海棠しゅうかいどうあざみ

 野の花々が、風に吹かれて、部屋の中央に向かってなびいていた。そこにはあふれんばかりの真っ赤な芥子けしの花、その花々が二つに割れると、この部屋の女主人がにこやかに姿を現した。

「ああ、素晴らしゅうございますね。何て美しいんでしょう。」

 夫人たちが挨拶も忘れて賞賛しょうさんの声を上げると、女主人も親しみ深い笑顔で楽しそうに語りかける。部屋をす頃には笑い声があふれ、再会を約す言葉を述べない夫人は居なかった。

 城を辞した夫人たちは、戦から帰ってきた夫たちに、秀吉がその手を握って離さなかったことは伏せておいた。心配そうな夫に、側室は相変わらずしていたけれど、正室は歓迎してくださって、私はどうもお気に入られたようじゃ、我が家がお頼み申すはきたのまんどころさま、と言わない者も又、居なかった。

 下々しもじもの生まれであるこの部屋の女主人に、気取きどった花は似合わない。可憐かれんな野の花こそふさわしい。でもおおやけの場における気品も必要。

 菊が教会で聖画を描くときに参考にした南蛮画の背景には、みずみずしい野の花が描かれていた。菊はそれらの花を模写もしゃするとき使った技法を、今回、応用したのだ。

「画面一杯に、まるで模様のように花を描くなんて、漢画や大和絵では見たことがありませんものね。」

 その日、寧々の元を訪れた一人の夫人は、襖を見て、はっとしたようだったが、きちんと挨拶を済ませた後は、寧々に手を取られるようにして襖に近づき、しげしげと見た。

「ほら、こちらから見てごらん。」

 角度を変えて見ると、花々が浮き上がって見える。まるでこちらに、手を差し伸べているようだ。

「こうして見ると、益々美しい。」

「だまし絵のようでございますね。」

「やはりそなたの言うとおり、五条の絵屋に頼んでよかった。」

「よかったのでしょうか。」

 夫人はつぶやいた。

「これだけ上手うまくいってしまうと何やら、新しい厄介やっかいごとに巻き込むことになるのではないかと、かえって心配になってしまうのです。」

「紅、そなた過保護なのではないか?」

 寧々がくすっと笑った。

「正室の世話をやく『側室』なぞ、聞いたことも無いぞ。」

 宇佐美紅も微笑を返した。

「まあ、あの方は、どんな試練しれんに会っても、知恵と勇気でね返してしまうんですけどね。」

「紅、何故、そんなにあの女のことを気にする?家を出て行ってしまった女ではないか。」

「あの方を越後に迎える計画を立てたのは、この私です。武田にも上杉にも良かれと思ってしたことですが、結果として、あの方を傷つけることになってしまいました。その責任を感じているのが一つ。後は」

 紅はちょっと遠くを見る目になった。

「昔の自分を見ているような気がするから。」

「昔、でもなさそうな気がするが。そなたこそ、今も腰が落ち着いていないのではないか?ここにこうして迎え入れても」

 寧々は肩をすくめた。

「上杉のしつと呼んでいいのか、それとも納屋なや女将おかみと呼んでいいのか、相変わらず迷ってしまう。やれやれ、絵描きを斡旋あっせんするとは。」

「私は」

 紅は肩を落として、小さな声で言った。

「幼いときに婚約したしゅだいの一族と結婚して、彼の子を生んで、雪深い越後で静かに生涯を送るつもりでした。どうしてこんなに遠くまで来てしまったのか、自分でもわからなくなる時があります。」

 寧々は紅の手を握った。

「それは私も同じこと。」

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