第98話 黒百合
「まあ、久しぶりに来てみると、大きくなったのう。」
寧々は、ころころと高く響く笑い声を上げて、
「菓子を持ってきたのだが、もう似つかわしくないの。記憶の中では、子供はいつまでも小さいままじゃからのう。」
「いえ、お菓子は大好きです。」
達丸が
「
菊は頭を下げた。
「わざわざおいでにならなくても、お呼びになりましたら、こちらから参上いたしますのに。」
「いや、歩くのも身体に良いのじゃ。
今日、寧々は、お付きの者を少しばかり連れて、お
今をときめく
「今日は、頼みたいことがあって参った。私の部屋で使う
「それは……。」
菊は絶句した。
寧々の
「そなたは町の山の
「はあ、しかし。」
寧々は菊の顔をじっと
「自信が無いとか、そういうことではないようじゃなあ。そうか、遠慮しておるのか。普通なら狩野や土佐に頼むところ、じゃろう。でも今回は頼まない。頼みたくないのじゃ。あの者たちは決まりきったものしか描こうとしない、いや、描けないのでな。私がそなたに頼みたいのは、ありきたりではない襖絵じゃ。」
「ありきたりではない、と申しますと。一体、何にお使いなのですか?」
「先だって、太閤殿下にお子が生まれたのを御存知であろう。」
寧々は表情を動かさずに言った。
菊は、はっとした。
(
それは先年、太閤に死を
「いや、変な
声を
家康に味方して、秀吉の
当時、
それを聞いた秀吉の
「茶室の花だから、寧々さまのは
何でも
自分の
「佐々さまが切腹に追い込まれたのは、恥をかかされた寧々さまの恨みをかったから、だとか。」
「いかにもな話だけど、ほんとのことなんて
あたしと殿と紅の関係だって、きっと他人から見たらわけわからないと思うもの、と揚羽を黙らせたが、
そういえば紅は、堺と上杉の京屋敷を行ったり来たりしている。時たま越後に下ることもある。
堺の亭主と景勝の間で、如何なる話がついたのか、菊の知るところではない。
淀殿は、浅井長政とお市の方の娘で、父母を秀吉に殺された後、彼の
「都には諸大名の奥方がおいでだ。」
つまりは
「このたび
寧々の口調は相変わらず穏やかだが、菊は、
秀吉に挨拶した夫人たちは次に、跡取りであるその息子に挨拶するだろう。その子を抱くという
(側室の誰が産んだ子も、本当は正室の子として、その
そんなことをすると、
四郎兄の母も、武田に滅ぼされた諏訪家の
(今、天下さまと呼ばれていても、太閤だって、その子の時代はどうなるかわかりやしない)
「どうじゃ、菊。まさか嫌とは言うまいな。」
寧々が鋭い目で菊を見た。
(この人は、あたしが上杉の正室だと知っているのだろうか。いや、もちろん、知ってのことだ。だから強く出ている)
本当は挨拶に行かなければならないあたしが、その相手の後ろに立てられる襖絵を描くとは。
何て
「お引き受けいたします。」
はっきりと言って、
(奥方たちはまず太閤の部屋に行き、次に跡継ぎの子どもの部屋へ行く。狩野や土佐の手による襖絵や屏風を目にするはずだ)
書院に描かれる襖絵には決まりがある。
秀吉の部屋に描かれているのは中国の古来の賢人だろう。一方、淀殿も、子どもが跡継ぎだから、
それらの絵から受け取るのはどういう印象だろう。
圧迫感。
威圧感。
(それは、絵がかもし出す雰囲気のみでない)
昨年の暮れ、年号が改元され、天正から文禄となったが、人々の気分はどんよりと落ち込んだままだった。
李朝の内政上の失策もあり、朝鮮軍の士気は低く、初戦こそ勝利を収めたものの、七月、李舜臣に水軍が敗れると、日本軍は補給路を絶たれてしまう。
そんな中での淀殿の出産である。
(これは、ただの挨拶ではない)
ここで失敗してはならない。自分がしくじれば、夫や子ばかりか、故郷で待つ大勢の家臣たちやその家族にも、多大な迷惑がかかる。
(奥方たちにとって、もう一つ、気がかりなことがあるはず)
嫌な噂がある。
国主たちは皆、海を渡るか、渡る順番を待って、九州に集結している。夫がいない間、留守を守る妻たちに、女好きの秀吉が手を出す、というのだ。
(奥方たちは皆、
かわいそうに、青ざめ、
(淀殿は、生まれついてのお姫さまだ。おそらく、上から夫人たちを見下ろすにちがいない)
彼女にとって、皆が自分に頭を下げるのは当然だったんだから。でも『織田信長の
まして彼女の生んだ子を
彼女に、その違いはわからない。
対する寧々さまは、と比較してみる。
(大将とはいえ、足軽の娘。天下さまの奥方なのに気軽に出歩く気さくさ、親しみ
部屋の主は女。
客も又、女。
(黒百合。山に咲く、野生の花)
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