第87話 八重桜
その日、菊は達丸を連れて、一条堀川にある
そこに住む絵師がこの
「あっ、そこ、知ってる。おうちの人と仲良しなの!」
よくお邪魔している、と言うので、一度、挨拶をしておこうと思ったのだ。
達丸は勝手知ったる道とばかりにどんどん行くので、菊はついていくのが大変だった。
この子は、寺社に模写に行くついでに、そこに出入りする絵師たちとも知り合いになり、子供のこととて随分可愛がってもらっているらしく、菊なんかより、よっぽど顔が広い。その絵師とは特に仲がいいらしく、家にお邪魔しては、お茶に呼ばれているという。
達丸は
部屋の中で絵を描いていた若い男が、
「おっ、達、来たか。生まれたぞ。」
「えっ、ほんと?」
「うん、見てこい。」
「わあ、行っていい?」
菊の返事も待たず、駆け出していった。
「すみません、いつもお邪魔しているそうで。」
菊が恐縮すると、
「子犬が産まれたんです。御覧になりますか?」
男は腰を上げた。
菊は供に、扇を庫裏に運び入れるよう言いつけてから、男の後に続いた。
年配の男と一緒だ。体の大きなごつい男で、若い男とよく似ている。若い男が
「お産が大変じゃったが、ほれ、こんなに元気な子がたくさん生まれて……。」
達丸に説明する声も
犬は、
「レヴリエロ、という種類だそうですよ。」
若い男が説明した。ちなみに、今で言うイタリアン・グレイハウンドである。
厩は色々な動物で一杯だ。
「タ……タノモウ!」
などとしゃべっている。
「
若い男はよく笑う。
「あっ!」
思い出した。
菊が大声を出したので、年配の男が顔を上げた。
「いつぞやは、有難うございました。」
菊は頭を下げた。
南蛮寺で
「そうか!」
若い男が声を上げた。
「あなた、上杉の奥方でしょう、有名な。」
「えっ、有名なって……。」
そんなこと、噂になってるわけ?
菊は赤面した。
途端に年配の男の機嫌が悪くなった。立ち上がって言った。
「帰れ!」
達丸がびっくりして、抱いていた子犬を落としそうになった。
「帰れ、帰れ!上杉の者がここに足を踏み入れるんじゃないっ!」
「まあまあ親父、びっくりなさっているじゃないか。」
息子は、親父の
菊は
「何でですか?」
「ほら親父、説明してさしあげなきゃ。」
快活に言うと、さあどうぞこちらへ、と部屋へ案内した。
お茶やお菓子が出たが、なるほどこんな状況でも、達丸が喜ぶのはもっともだと思うほどおいしい。なんでもこの家は千利休のお気に入りで、このたびの仕事も利休の
親父は、お茶をがぶがぶ飲んでいる。息子のおかげで、ちょっと気が治まったらしい。
「わしは
「はあ。」
武田は能登なんぞ関係無かったが?あ、上杉か。
「おわかりにならない。」
親父はむっとした。
「あなたはよく御存知のはずだ。
「はあ。私は親戚付き合いに
菊がへどもどすると、
「さっぱりって、あなた。」
あきれて言う。
あなたの場合、義理の弟は一人しかいません、と菊はその後、
菊の義理の弟というのは、
「あ、殿の妹御が
ようやく
「その方が御養子にお迎えになったのが、能登畠山氏の
「はあ。」
「上条上杉家は
親父はきっぱり決め付けた。
「その上条の弥五郎{政繁}さまを、山内{景勝}殿の
ああきっと、と菊は思った。
それは、一族の力を
一族の治める
でもその
「わしは、五郎さまのお父上、能登畠山右衛門佐{義続}さまの
押さえようとしても、得意な気持ちが
この像は、後に高野山成慶院の所蔵となり、教科書に取り上げられるほど有名になる。又、菊の父・信玄の像かどうか後世の議論の的となるが、今の二人が知る
「そうだったんですか。でも、私も出ちゃったんです、上杉。」
菊が言うと、親父は
「わしは元畠山の家臣じゃった。元武家の絵師はいくらでもおる。
「あの、私、あんまり噂話に詳しくなくて。」
「噂じゃあない、常識じゃ。呆れたの。大丈夫か、そなた。」
「大丈夫かって言われると、あんまり大丈夫じゃないような気がします。」
菊は小さくなった。
帰り際、息子は見送りに出て、言った。
「大丈夫ですよ、親父、ご機嫌です。」
「えっ?すっかりお気を悪くしちゃったんだとばかり。」
「いいえ、ああやって
明るく笑った。
「又おいでになって、話を聞いてやってください。自分からは言えないんですけど、話相手が欲しいんですよ。あなたのことも話していました。」
「えっ?」
「南蛮寺で、一生懸命説明してくださっているのに、絡まれて気の毒だったって。
「まあ……。」
菊は赤くなった。
「あなたこそ。桜、綺麗でした。」
「えっ?」
息子は照れて頭を
「ほんとです、あの、白くってぽってりした
彼が描いていた絵。
のびのびと枝を広げる桜に、白く
「有難う。これに
「あの、お名前を。」
「あっ、申し遅れました。」
白い歯を見せた。
「私は
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