第87話 八重桜 

 その日、菊は達丸を連れて、一条堀川にある本法寺ほんぽうじ塔頭たっちゅう教行院きょうぎょういんに行った。

 そこに住む絵師がこのたび紫野むらさきのにある大徳寺の山門さんもん壁画へきがを製作した。その完成祝いに関係各所からもらった品の返礼として、扇を配ることになったが、あまりにも数が多いので、向こうが絵を描いた扇の、仕上げのみを依頼された。出来上がったので、供に荷を持たせ、届けに行った。普段、その手のことは店の者に任せるのだが、注文された扇の数が多かったのと、達丸が、

「あっ、そこ、知ってる。おうちの人と仲良しなの!」

 よくお邪魔している、と言うので、一度、挨拶をしておこうと思ったのだ。

 達丸は勝手知ったる道とばかりにどんどん行くので、菊はついていくのが大変だった。

 この子は、寺社に模写に行くついでに、そこに出入りする絵師たちとも知り合いになり、子供のこととて随分可愛がってもらっているらしく、菊なんかより、よっぽど顔が広い。その絵師とは特に仲がいいらしく、家にお邪魔しては、お茶に呼ばれているという。

 達丸は庫裏くりに回って、声をかけた。

 部屋の中で絵を描いていた若い男が、

「おっ、達、来たか。生まれたぞ。」

「えっ、ほんと?」

「うん、見てこい。」

「わあ、行っていい?」

 菊の返事も待たず、駆け出していった。

「すみません、いつもお邪魔しているそうで。」

 菊が恐縮すると、

「子犬が産まれたんです。御覧になりますか?」

 男は腰を上げた。

 菊は供に、扇を庫裏に運び入れるよう言いつけてから、男の後に続いた。

 うまやの隅に、達丸がかがんでいた。

 年配の男と一緒だ。体の大きなごつい男で、若い男とよく似ている。若い男がほがらかで明るい感じなのに対し、この男は古い松の枝振えだぶりのような落ち着いた感じがした。でも今は相好そうごうを崩し、とろとろ、とろけるような笑顔だ。

「お産が大変じゃったが、ほれ、こんなに元気な子がたくさん生まれて……。」

 達丸に説明する声もはずんで、本当に嬉しそうだ。

 犬は、くちばしのような鼻面はなづらをしている。身体も尻尾も細長い洋犬だ。

「レヴリエロ、という種類だそうですよ。」

 若い男が説明した。ちなみに、今で言うイタリアン・グレイハウンドである。

 厩は色々な動物で一杯だ。

 白鼠しろねずみ、白と黒のまだらうさぎ尻尾しっぽの短い猫、ふわふわした黒い毛並みで顔だけ白い猿、南蛮渡りの色鮮いろあざやかな鸚鵡おうむまで止まり木に止まって、

「タ……タノモウ!」

などとしゃべっている。

親父おやじが動物好きなんです。絵を描くためだとか言ってますけど。達も動物好きでしょう、気が合っちゃって、もう……。」

 若い男はよく笑う。

「あっ!」

 思い出した。

 菊が大声を出したので、年配の男が顔を上げた。

「いつぞやは、有難うございました。」

 菊は頭を下げた。

 南蛮寺でからまれたとき、助けてくれた男だ。

「そうか!」

 若い男が声を上げた。

「あなた、上杉の奥方でしょう、有名な。」

「えっ、有名なって……。」

 そんなこと、噂になってるわけ?

 菊は赤面した。

 途端に年配の男の機嫌が悪くなった。立ち上がって言った。

「帰れ!」

 達丸がびっくりして、抱いていた子犬を落としそうになった。

「帰れ、帰れ!上杉の者がここに足を踏み入れるんじゃないっ!」

「まあまあ親父、びっくりなさっているじゃないか。」

 息子は、親父の癇癪かんしゃくには慣れているから、といった風情で、なだめにかかる。

 菊は仰天ぎょうてんして立ちくしている。

「何でですか?」

「ほら親父、説明してさしあげなきゃ。」

 快活に言うと、さあどうぞこちらへ、と部屋へ案内した。

 お茶やお菓子が出たが、なるほどこんな状況でも、達丸が喜ぶのはもっともだと思うほどおいしい。なんでもこの家は千利休のお気に入りで、このたびの仕事も利休の斡旋あっせんによるものだという。

 親父は、お茶をがぶがぶ飲んでいる。息子のおかげで、ちょっと気が治まったらしい。

「わしは能登のとの出なのです。そう言えばもう、おわかりでしょう。」

「はあ。」

 武田は能登なんぞ関係無かったが?あ、上杉か。

「おわかりにならない。」

 親父はむっとした。

「あなたはよく御存知のはずだ。御一ごいち門衆もんしゅうのことなのに。」

「はあ。私は親戚付き合いにうとくて、上杉のことはさっぱり……。」

 菊がすると、

「さっぱりって、あなた。」

 あきれて言う。

 あなたの場合、義理の弟は一人しかいません、と菊はその後、講釈こうしゃく延々えんえんと聞かされるはめになった。

 菊の義理の弟というのは、上条じょうじょう政繁まさしげのことだと、菊より上杉家にくわしい、この親父は言う。

「あ、殿の妹御がとついだ、上条上杉家の。」

 ようやく合点がてんがいった菊をさえぎって、親父は、

「その方が御養子にお迎えになったのが、能登畠山氏の畠山はたけやま五郎ごろうさまです。当時、上条の殿にお子が無かったので、跡取りとして入られたのです。」

「はあ。」

「上条上杉家は関東かんとう管領かんれい上杉家の一族です。上杉家は東国とうごく{日本の東半分}を治める鎌倉かまくら公方くぼう家宰かさいで、清和せいわ源氏げんじすえである初代の公方{足利あしかが尊氏たかうじ}の母方の親戚しんせきです。御前ごぜんさまも清和源氏の末でいらっしゃいますな。しかし、先代の山内やまのうち{上杉謙信}殿の御実家、府中ふちゅう長尾家ながおけは上杉家の宰相さいしょうにしかすぎません。失礼ながら御前あなたさまの御夫君ごふくんの御実家、上田うえだ長尾家も山内上杉家の代官だいかんにすぎません。」

 親父はきっぱり決め付けた。

「その上条の弥五郎{政繁}さまを、山内{景勝}殿の宰相さいしょうである直江なおえ山城守やましろのかみ兼続かねつぐ}が、邪険じゃけんに扱って、上条の殿と畠山五郎さまを、上杉から追い出したのです。あの男は上杉の御一門衆を引き奸物かんぶつですな。」

 ああきっと、と菊は思った。

 それは、一族の力をごうという景勝の考えがあったのだろう。

 一族の治める分国ぶんこくの力が強すぎて、武田が空中分解してしまった今、菊にはその辺の事情がよくわかる。

 でもその折衝せっしょうに当たる兼続は、矢面やおもてに立って恨まれる。

「わしは、五郎さまのお父上、能登畠山右衛門佐{義続}さまの寿像じゅぞう肖像画しょうぞうが}を描いたこともあるんじゃ。」

 押さえようとしても、得意な気持ちが声音こわねに出るのはとめようが無かった。

 この像は、後に高野山成慶院の所蔵となり、教科書に取り上げられるほど有名になる。又、菊の父・信玄の像かどうか後世の議論の的となるが、今の二人が知るよしも無い。

「そうだったんですか。でも、私も出ちゃったんです、上杉。」

 菊が言うと、親父は益々ますますあきれている。

「わしは元畠山の家臣じゃった。元武家の絵師はいくらでもおる。海北かいほう友松ゆうしょう雲谷うんこく等顔とうがんもそうじゃ。」

「あの、私、あんまり噂話に詳しくなくて。」

「噂じゃあない、常識じゃ。呆れたの。大丈夫か、そなた。」

「大丈夫かって言われると、あんまり大丈夫じゃないような気がします。」

 菊は小さくなった。

 帰り際、息子は見送りに出て、言った。

「大丈夫ですよ、親父、ご機嫌です。」

「えっ?すっかりお気を悪くしちゃったんだとばかり。」

「いいえ、ああやって薀蓄うんちくれるのは、相手を気に入っている証拠です。」

 明るく笑った。

「又おいでになって、話を聞いてやってください。自分からは言えないんですけど、話相手が欲しいんですよ。あなたのことも話していました。」

「えっ?」

「南蛮寺で、一生懸命説明してくださっているのに、絡まれて気の毒だったって。綺麗きれい上品じょうひんなお姫さまだったのにって。」

「まあ……。」

 菊は赤くなった。

「あなたこそ。桜、綺麗でした。」

「えっ?」

 息子は照れて頭をいた。

「ほんとです、あの、白くってした八重桜やえざくら……。」

 彼が描いていた絵。

 のびのびと枝を広げる桜に、白くともる花、花、花。

「有難う。これにりずに又、いらしてください。」

「あの、お名前を。」

「あっ、申し遅れました。」

 白い歯を見せた。

「私は長谷川はせがわ久蔵きゅうぞう、親父は信春のぶはると申します。」


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