第102話 鬼哭
明との和平が成った。
ところが実際は、交渉決裂を恐れた小西行長ら現場担当者の
和議の
毎日のように街道を往来するそれらの侍たちはしかし、その手の行列を見慣れているはずの京雀たちが驚くほど、
松が、舞台の
「よう
菊の言葉に、惣蔵は黙って頭を下げた。
「もう松にはお会いか?」
「いえ。」
短く答えた。そのことにはあまり触れて欲しくないようだった。
聞き耳を立てていた揚羽は、つと立って台所に行くと、
惣蔵は
「上杉は
紅から聞いた話をした。
「日本中の兵が朝鮮に渡ることになりそうだな。」
惣蔵は、ふっと笑った。
「
「朝鮮は」
「どうなっている。」
「
惣蔵は
「
朝鮮は日本以上に身分制度が
朝鮮水軍に打ち破られた日本水軍は
「死者を
「でもまだ、我々の状態はましだったのです。朝鮮の人民は
とりわけ京幾道、忠清・全羅・慶尚道の下三道{朝鮮半島南部}は厳しい状態にあった。
「我々の部隊が、連中が食っている物を取り上げてみると、それは」
惣蔵は何の感情も
「人間の肉でございました。」
廊下に控えていた揚羽がぐっと言って、ばたばた走って行った。
菊も逃げ出したい思いをこらえて、いたたまれなく座っていた。
「姫君、私は間違っておりました。」
惣蔵は静かに言った。
「この戦は間違っております。これは戦ではございません。先代のお屋形さまが定められた『
「それはそう思う、けど……。」
この男は一体、何処へ話を持っていこうというのだろう。
菊が不安になったその時、惣蔵は切りつけるように言った。
「達丸さまはお屋形さまのお子、でございますね。」
「惣蔵……。」
「つまりは武田の跡取りでございますね。」
「な、何が言いたいの、そなた。」
「それならば、それにふさわしい
惣蔵はぐいと
「
「そなたが、達丸の為と思うて、はるばる朝鮮まで渡って
「絵師にするおつもりか。」
惣蔵の口調に、冷笑するような響きが混じっているような気がした。
菊はむっとした。
「絵師の何が悪いと言うのだ。そなた、私の生き方にケチをつけるつもりか?」
この男は、あたしがどんな苦労をしてこの店を構えるに至ったか、まるっきりわかっていないのだ。
「もちろん
今度は気のせいではなかった。
惣蔵の口元には、はっきりと
気が付いたときには、菊は立ち上がって
「
「失礼つかまつる。」
惣蔵はきちんと
揚羽が必死になって止めるのを振り払って、惣蔵は、さっと
そこで、立っていた松と
松は派手な舞台衣装のままだった。どうやら舞台を放り出して、飛び出してきたらしい。息も絶え絶えに、肩を上下させている。
目が女の姿から
「ねえ惣蔵、もういいでしょ、帰ろう、帰ろうよ。」
女が身を
男は無言のまま、女に背を向けて歩き出した。
女は走っていって、その背にすがった。
「お願い、お願いだから……。」
惣蔵は、ゆっくり松のほうへ向き直った。
その指を肩から
「すまぬ。私には他の生き方は出来ないのだ。わかってくれ。」
去っていく男の背中がやがて、人混みに
いつの間にか、
「どうして……あたしは、好きなひとの側に居られないの?何で止めてくれなかったの?」
松は泣きじゃくりながら言った。
「あの男を止めることは、誰にだって出来やしない。そんなこと、あなたにだって、わかっているでしょ。」
菊は静かに答えた。
長谷川の工房に出かけた達丸が、日が暮れても帰ってこないので、絵屋は大騒ぎになった。店の者や一座の者はもちろん、近所の人々も応援に駆けつけてくれて、あちこち探した。が、
菊は
松は、誰が達丸を連れていったか、わかるような気がした。そしてきっと又、男が自分の前に姿を現す日が来ることを確信した。
その予感が思いがけない形となって実現するのに、そう時間はかからなかった。
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