第7話 輿入れ

 菊があわただしく婚礼の準備を進めている間にも、越後の情勢は動いている。

 和平は半月も持たなかった。

 武田と手を組んだことによって、衆望しゅうぼう一気いっきに景勝に傾いた。

 北条はあわてて兵を出し、景勝の故郷・坂戸城を囲んだが、季節が遅すぎた。北国の秋は駆け足で過ぎていき、越後の深い雪に足止めされるのを嫌った北条軍は、あっさり囲みを解いて小田原に引き上げていった。

 戦が小康しょうこう状態になった間隙かんげきを縫って、菊の輿入こしいれの行列は甲府を立った。木立が葉を落とし、寒風が甲府盆地を囲む山から吹き降ろしてくる十月の初旬のことである。厳重に武装した四十名ばかりの供に守られた淋しい旅立ちだった。

 行列を見送る老人たちの中には、

「昔、北条家に嫁がれた黄梅院さま{信玄の長女}の行列は、騎馬で三千騎、供の人数は一万名でしたよ。それに比べて……。」

と嘆く者も居たという。

 当時の結婚式の主要行事は実に、この花嫁行列だった。いかに豪華な行列を出せるかが、その家の力をはかもととなったのだ。菊の結婚は、武田の家の凋落ちょうらくを決定的に世に知らしめる象徴となってしまった。

 だが、輿に乗った菊は、そのような事に頓着こだわりはしなかった。なにしろ甲斐の国を出るのは生まれて初めてのことなのだ。そしてこれが、生国こきょうとの永遠の別れとなるはずである。

 物見まどを開けてもの珍しく外を眺めては、側で馬に乗る揚羽に、御身分柄ごみぶんがらをわきまえて下さいまし、こちらが見ている以上に向こうは見ているんですからね、と物見遊山気分ものみゆさんきぶんとがめられてばかりいる。

 渋々戸を引いた。わずかに開けておいた物見の隙間すきまから山がちらちら見えている。

 外の景色が見えないと輿こしの旅は退屈たいくつだ。

 あまり考えたくないことばかり、繰言くりごとのように何度も何度も思い浮かんでしまう。揚羽とわした昨日の会話のことなんかを。

「ところで喜平二{景勝}殿のことだけど、二十四歳にもおなりだったら、いくら今まで正室がおいででなかったとしても、側室くらいお持ちでしょう?」

 菊が尋ねると、揚羽は棒を飲んだような顔をした。

(やっぱり知っているんだ、私に隠していたのね)

 考えてみれば当然のことだ。

 家を保つことが何より大事なこの時代、生まれてすぐに婚約者が決められることなど珍しくないこのご時世に、いくら義父が戦に勝つために不犯を誓ったからとて付き合う義理もないだろう。

 現に景虎の方は、景勝の姉と結婚して、嫡子ちゃくし以下何人かの子供を持っているという。

「何でも去年の暮れ、上方かみがたからくだってきた堂上どうじょう上臈きふじんを側室にしたそうです。」

 これもまた、よくある話だ。

 織田信長が上京して金をばらまいているおかげで少しはましになったというが、戦乱が続いて久しい京の堂上方くげたちの暮らし向きが苦しいのは周知の事実であり、この時代の美人の典型である公家の姫君たちがお金次第で金持ちに嫁ぐのも又、時代の常識なのだった。現に父信玄の継室けいしつ三条さんじょう夫人も堂上の出である。

(たぶん、真っ直ぐな黒髪の、なよなよして風にも耐えないような女なんだろうなあ)

 女にとって容貌の悩みは自信を無くすもとになる。

 菊は自分のことを醜女しこめだと思っていて、今ではすっかりあきらめの境地きょうちにある。

 揚羽は声を励まして言った。

「なんの、こちらは四百年も続いた清和源氏せいわげんじの末でございます。京下りだろうが、唐渡からわたりだろうが、姫君が引け目に感ずることなど、これっぽっちもございませんからね!」

 どうやら侍女は、会う前から、その側室とやらに闘志を燃やしているらしかった。

 もう一つ、菊は揚羽に、喜平二殿ってどういう方なのかしら、と聞いてみたかったのだが、又難問がわかって揚羽が高揚こうようするのを見るのは疲れるので、やめた。

 景勝については皆あまりよく知らないらしい。誰に尋ねても、はっきりした返事は返ってこない。

(宿敵の三郎殿のほうは、嫌という程、情報が入ってくるというのにねえ)

 それも彼の『人物』についてではない。彼の『外見』について、だ。

「私共だって、縁談の相手が三郎殿だったら、越後だって何処だって飛んで参りますわよ。」

坂東ばんどうに隠れ無き国色無双こくしょくむそうって、ねえ。」

「ほんとにすごい美貌びぼうの持ち主なんです。普通『美貌』なんていう言葉は殿方とのがたに対して使いませんよ、でも三郎殿に関しては使いたくなっちゃうんです。」

 実は婚礼の準備に忙しい侍女たちのうわさで持ちきりなのは、当の相手の景勝のことではなく、宿敵の景虎のことだったのだ。ただ単に、妹の小夜姫に遠慮して、というものではなく、いや、かえって無遠慮な程だった。ともかく一度でも景虎を見た女は皆、彼のとりこになると言っても過言かごんではないらしかった。

 三郎景虎の運命は転変の歴史でもあった。正室から生まれた嫡男以外は家の為の持ち駒であった時代、彼の人生も又、生まれながらに定められていた。

 すなわち、北条氏康、武田信玄、今川氏真が甲駿相同盟を結んだ時、人質として甲斐におもむき、永禄十年、信玄が駿河・相模に侵入して同盟が破れると戻されて、一族の北条幻庵の養子となった。元亀元年、北条氏が上杉謙信と結ぶと、今度はその養子として越後へやられたのだ。だから武田の侍女も、北条から小夜姫の輿入れのときについてきた者の中にも、景虎のことを見知っている者は多かった。

「三郎殿が城下をお歩きになると、家という家の窓に女子が鈴なりになって、お姿を目で追ったものでしたよ。でも気さくで、もの慣れたお方でね。下々しもじもの者どもと気軽にお話になるので、それはもう人気があって……。」

「ただ、お酒が過ぎるのがちょっとねえ。」

「だからこそ不識院{上杉謙信}に気に入られたんでしょう。あの方も、お酒の飲み過ぎで命を縮めたというじゃありませんか。」

 松はこういう話になると率先そっせんして加わるのだが、菊は根がなのでついていけない。それでも自分に関係することなので、じっと耳を傾けていた。

 菊の輿は、北信濃、長野善光寺を通って、越後との境を越えた。北に進むにつれて、目に見えて景色は荒涼こうりょうとしていく。越後は既に冬だった。空気は冷たく凍り、灰色の空から吹いてくる風には小さく硬い雪の粒が混じっている。細い山道を囲む木々は、すっかり葉を落としている。枯葉を舞い上げて蕭々しょうしょうと北風が鳴った。

 木立が途切れて空き地になっている所で、一行いっこうは少し休憩きゅうけいした。輿が下ろされ、戸が開けられた。

「今年は冬が早いそうでございますよ。」

 馬から降りた揚羽が話しかけてくる。

「申し上げます。」

 武士の一人が色代しきたいして言う。

「越後からの迎えが到着したとのことです。」

「遅かったですね。でも姫さま、ここから上杉の護衛がつきます。もう一安心ですわ。」

 小康状態とはいえ、戦の真っ最中の国を女輿を護衛してきた武田の一行に、ほっとした空気が漂った。

 と、報告を終えて立ち上がった侍が、くぐもるような妙な声をあげたかと思うと、ぐらりと傾いて揚羽に倒れ掛かった。彼女は押されて下敷したじきになってしまった。側にいた侍女が、倒れた侍の背中を見て、悲鳴をあげた。生えたように矢が刺さっている。

 それが合図あいずだった。

 矢の雨が一行におそかった。人々はたちまち射抜かれて、ばたばたと倒れた。

 菊の輿にも、木を穿うがつ乾いた音と共に何本もの矢が突き刺さった。外に出なきゃ、隠れなきゃ、と気ばかりあせるが、絵の道具を抱きしめ身を伏せて、矢をやり過ごすだけで精一杯だ。武将の娘といえども、いくさ遭遇そうぐうするのは生まれて初めてだ。

 わあっとときの声が挙がって、やりや刀を握った武者たちが山道やまみち一杯いっぱいに駆け下って来た。不意をつかれて、さしもの武田の勇者たちも総崩そうくずれとなった。

 菊の輿に敵方の足軽たちがありのように取り付いて、かつぎ上げると走り出した。輿がひどくれて、菊は頭を思い切りぶつけてしまった。目の前が真っ暗になって、そのまま気を失ってしまった。

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