第19話-05 闇への招待状



 立ち上る炎。轟く爆音。巨獣の如く伸び上がる黒煙。爆発で生じた窪みの底へカジュが降り立つ。吹き飛ばされた砂粒が鋭く頬を打つのを感じながら、深呼吸を繰り返す。疲労は既に限界に達している。今の《5倍爆ぜる空》はなけなしの魔力を振り絞った一発だ。ここから先は命を削りながら撃つことになる……が。

 煙の中から聞こえてきたのは、悪夢の声。四天王ボスボラスの、心底愉快そうな高笑いだった。

「うはははは……うっはははははは!! すげえぞ嬢ちゃん! すげえ火力だ! ミュートが持てあますわけだぜ! うはははは……」

 ――これでも仕留めきれないか……。

 カジュは一文字に唇を結び、すぐさま気を取り直して呪文を唱え始めた。枯渇しかかった魔力の代わりに肉体の生命力を注ぎ込んでの術式構築。確実に寿命は縮まるが、そんなことを気にしていられる状況ではない。

 竜人ボスボラスが煙を割いて姿を現す。一歩踏み出すそのたびに大地が割れて陥没する。振動がカジュの爪先から脳天までを痺れさせる。カジュの《5倍爆ぜる空》には城を消し飛ばし、ぶ厚い鋼板を融解させ、竜の群れすら一撃で屠るだけの威力がある。だがその直撃を受けてなお、ボスボラスは――焦げた鱗から白煙を立ち上らせつつも、平然と笑っているのだ。

「いんやァ? さすがのオレ様も直撃だったらヤバかったかもな。

 だがよ! ここでオレ様ァひらめいた! とっさに足元を剣でブッ叩き、ドカーン!! と爆発! その反動で蟻地獄を脱出、直撃を避けたっつうわけよ。どうよ、最強だろ? めてくれよ~お嬢ちゃんよ~。無口だなあ。ファインプレイはめ合おうぜ~?」

「《光の矢》。」

 軽口叩くボスボラスの鼻先に問答無用の一撃。これをボスボラスは、あろうことか握り拳の一振りで払いのけてしまう。だがはなから通用するとは思っていない。初撃は単なる目くらまし。着弾点で弾けた光が視界を塞ぐのを見計らい、カジュは《風の翼》で全速突撃。ボスボラスの脇を飛び抜けながら《死神の鎌》で胴を薙ぎ払う。

 しかし《鎌》が命を刈り取る直前、ボスボラスの姿が忽然と消えた。

「そいつァ下策だ」

 再び出現したボスボラスの位置は、カジュの背後。

 剛腕が唸る。豪風纏って剣が来る。カジュは悪寒を覚えつつ全術式を緊急破棄、《光の盾》5枚重ねを今度は斜めに展開し、剣を止めるのではなく受け流してらす策に出た。しかしボスボラスの人智を越えた膂力りょりょくの前では小細工は無意味。カジュの小さな身体は剣圧によって横に吹き飛ばされ、その勢いを殺す余裕すらないままに背中から崖に叩き付けられる。

「か……はっ……。」

 苦悶の呻き。口から飛び散る唾液の滴。

 だが苦しんでいる暇はない。ボスボラスは黄ばんだ眼球を爛々らんらんとギラつかせ、一歩ずつこちらへのし歩いてくる。カジュは痙攣する腕を掲げ、残る気力と体力を振り絞って術を撃つ。《光の矢》。《鉄槌》。《電撃の槍》。次々炸裂する術の全てをいわおのような胸板で弾きながら、ボスボラスは悠然と迫ってくる。

「おいおい嬢ちゃん。そうじゃねーだろ? お前さんの持ち味は敵を妨害し、足を殺し、射程外から一方的に火力を叩き込むことだ。さっきの蟻地獄は満点だったぜ? だが《鎌》で接近戦ってのァ良くねえ。ザコを蹴散らすにはいいが、近間の専門家相手じゃ後れを取って当然だ。小技の連打もダメ。牽制にもなりゃしねえよ。

 ま、ンなこたァ百も承知か。てことはいよいよ……」

 《火焔球》。

 正真正銘、最後の余力で放った術を、ボスボラスは頭突きで打ち砕く。鱗の上で揺らぐ残り火をうっとうしそうに払いのける。

「限界、か?」

 ボスボラスが再び消えた。筋肉の塊のような脚をバネにして、一瞬にしてカジュの目前まで接近。そのままの勢いで、鉄拳をカジュの腹へ叩き込む。

 反吐へどを吐きながら身をくの字に折るカジュ。握り拳の上からカジュの身体がずり落ち、横倒しに地面へ転がる。死んではいないが……完全に失神している。

 ドラゴン旅団の竜人たちが一斉に歓声を上げた。砂煙を上げながら崖を滑り降り、あるいは地響きと共に飛び降りて、声をからしてボスボラスの名と強さを讃える。舞い上がった竜人コブンがカジュの腕を掴んで吊し上げ、

「やったァーッ!! ボスゥ、こいつブチ犯していいっスかァー!?」

 しかしボスボラスは苦い顔。

「アホゥ。ブチ殺されるぞ」

 吐き捨てながら、鉤爪で肩の腫瘍を掻きむしる。魔王に植え付けられた《悪意》の血肉……支配の証。敗北の証明。

 ――見てろよ……最後に勝つ奴が“最強”だ。

 ち、と不機嫌に舌打ちし、ボスは八つ当たり気味に怒鳴り散らした。

「魔王様のだ。丁重にお連れしろとよ!!」



   *



 血が止まらない。カジュは級友のそばに駆け寄り、ひざまずき、物言わぬ彼を抱き起こした。リッキー・パルメット。彼の腹の半ばまでを裂く血赤色の傷口。肌へまとわりつく粘質の夜の中、カジュは懸命に呪文を唱える。識閾上領域に陣を描く。慣れた仕事だ。百万回もしてきたことだ。なのになぜか今日に限って、いつまでたっても術式が完成しない。何度やっても計算が合わない。リッキーの血が止まらない! どうして? 血が出る。また噴き出る。もう周りは血の海だ。ぬかるんだ手で傷口を押さえる。押さえながら泣き叫ぶ。もう呪文でもなんでもない。止まって。止まってと。カジュ自身の《鎌》で切り裂いてしまったリッキーの傷を、この手で刈ってしまった命を、ただ元通りに戻したくて、友情と思い出を失うことがひたすら怖くて、カジュは彼を抱きしめ泣きじゃくった。

「泣くなよ、相棒」

 腕の中から聞こえた優しい声に見下ろすと、カジュが抱いていたのは緋女だった。死人色の肌をして、ガラス玉のように眼球を静止させて、緋女が腹から血を流してる。怖気おぞけが走る。喘ぎが漏れる。死なないで緋女ちゃん! こんなの嫌だ!! 殺したくなかった!! どうしてあの時……

「自分が死ぬことを選べなかった。ま、それもいいさ」

 ヴィッシュが倒れる。そして死ぬ。

 いいわけあるか!!

 勝手に決めるな! 優しく言うな! みんな殺して自分だけのうのうと生きる、そんなカジュなのに、血が止まらない。ロータス、デュイ、オーコン、アニ、リッキー、緋女ちゃん、ヴィッシュくん、止まらない!

 血が止まらないんだよ、クルス!!



   *



 深い深い眠りの海底から、浮かび上がるようにしてカジュは目覚めた。

 初めに目に入ったものは、聖トビアの啓示を描いた流麗なる天井画。広い静かな寝室に、響くものは己の吐息のみ。夢中で噛み締めていたのだろう、奥歯とあごがひどく痛む。不快な寝汗が首から胸まで滴が垂れるほどに濡らしている。

 カジュはベッドの上にゆっくり身を起こし、あたりを見回した。雪花石膏アラバスタの壁に彫刻された守護聖獣は今にも走りださんばかりの精巧さ。黒檀エボニーの調度は光を放つほどに磨き上げられ、ゆうに5人は眠れそうなベッドは尻が沈み込むほどに柔らかい。

 これではまるでおとぎ話――お姫様の寝室だ。

 カジュはここでようやく、自分自身もお姫様になっていることに気付いた。彼女が着せられていたのは、薄いシルクレースの寝間着ネグリジェ。精緻なバラの花紋様の下に、乳首やへそや、それ以上の秘所が透けている。

 ――誰の趣味だよ、このエロいの。

 羞恥より失笑が先に立つのがカジュという人物だ。冷静に寝間着ネグリジェの裾をめくりあげて下腹部をのぞき、続けて腕と脚と、その他もろもろの様子を確かめていく。特に危害を加えられた形跡はない。ボスボラスに殴られた傷も――骨の5、6本は折れていたはずだが――残っていない。むしろ熟睡して気分爽快なくらいだ。

 と、いうことは。

 ――ナメた真似してくれるよ、魔王様。

 カジュは溜息交じりにベッドを降りた。

 さすがにこんな裸みたいな恰好で出歩くのは気分が悪い。クローゼットをあさって薄桃色の上着を引っ張り出し、羽織りながら寝室のドアを押し開ける。隙間からそっと外を覗き見て、おおむね予想通りの光景に目を細める。

 どうやらここは、魔王城内の宮殿の2階部分であるらしい。寝室の前を走る廊下は端がかすむほどの長さ。向かい側の手すりから身を乗り出せば、常緑樹と芝の植えこまれた広大な中庭を見下ろせる。廊下にも庭にも動くものの気配はなく、ただ乾いた微風が耳元を静かに吹き抜けていくのみ。

 少し廊下を歩いてみる。血と骨と肉をあしらった魔王城のおぞましい造りは、どうやら外観だけであるらしい。宮殿の内装は荘厳かつ清潔。廊下の石柱は整然たる騎士の隊列を思わせ、柔らかな絨毯は裸足を包み込んでくすぐる。凍り付いたように動かない庭木のこずえから、ときおり小鳥がさえずりを聞かせてくれ、剣の如く床へ突き立つ陽光の中では、真っ白な糸埃が静かな舞を続けている。

 なんだろう、この静けさは。

 意識がとろけるような、この安らぎは。

 一足ごとに現実感が薄れていく。甘ったるい気配に記憶と思考が飲みこまれていく。初めて目にする場所なのに、確かにを知っている――まるで幻想ファンタジーの世界だ。カジュのためにおとぎ話を語り聞かせてくれた人などいない。だからカジュは自力で読んだ。猛烈な勉強の合間に紐解ひもといた、書物の中の虚構の世界。竜と騎士。魔法とお姫様。子供っぽい迷信だと鼻で笑いながら、ページをる手を止められなかった。あの他愛なくもかけがえない耽溺の時と同じ、どこか切なく、どこか不安な、この世ならざる異界の空気……

「どうにかしなきゃいけない」

 幻想から不意に現実に引き戻され、カジュは足を止めた。

 ひとりの魔物が廊下へ座り込んでいる。

 何者だろう。魔獣や妖魔にはそれなりに詳しいカジュだが、あのような生き物は見たことがない。一見して人型。肌はろうのように白く、異様なまでにせた体つきは骸骨スケルトンと見間違わんばかり。それが大きな毛布1枚を身体に巻き付け、とめどなく涙を落としながら、震える声で何事か呟き続けているのだ。

「このままじゃみんな政治に殺される。嘘だらけの政治はもう終わりにしよう。今こそ行動を始めるときだ。庶民の声を聞こうとしないリーダーなんてもう要らない。今度こそ私たちから独裁政治へNOをつきつけましょう。世の中には……」

 彼――仮に“蝋人ろうじん”と呼ぼう――の果てしない繰り言は唐突に途切れた。一体何を思い立ったのだろうか、蝋人は落ちくぼんだ目を引き剝き、意味不明の言葉をわめきながら立ち上がった。そのまま身体を引きずるようにして中庭への螺旋階段を降りて行く。続いて庭の方でどよめきが起きる。

 目に見えぬ何かにいざなわれて、カジュは蝋人の後を追った。螺旋階段を半分ほども降りたところで足を止め、植木の隙間から庭をのぞき見る。息を止め、手すりを固く握りしめる。

 庭には大勢の魔物たちが、芝生を覆い隠すほどにひしめき合っていた。

 異形。誰も彼もが異形。4本の腕を無意味にわななかせる者。身体中に貼りつく無数の眼球をしきりにぎょろつかせる者。巨大な甲虫としか思われぬ者。大鬼のような巨躯の左半分を無残に削り落とされ、片手片足のみでいずる者。あらゆる関節が逆側に曲がり、仰向けに四つんいとなっている者。全身が融け爛れ今にも息絶えんとしている者。さっきの蝋人の姿もある。これほどの数が揃いながら、ひとりとして同じ形のない、何百通りもの異形たち。それが何重にも輪を作り、芝の上にひざまずいて、一心に祈りを捧げているのだ。

「救いを……どうか救いをください」

「よるべを、我が身を置いてもよい場所を」

「どうか、どうにもならない歪んだ僕らに、収まる器をお与えください……」

 異形の祈りを受け止めて、ひとりの少年が微笑する。

 彼もまた、異形。この世ならざる完璧の美という異形である。

『我等が主、我らが救い手、《悪意》の御子、魔王クルステスラよ――』

 斉唱された願いに応え、異形の王は手を伸ばした。

 その手のひらが蝋人の頬をさする。蝋人はひとつ鋭く震え、恍惚の声を漏らす。すると、蝋人の身体がしぼみ始めた。もとより骨と皮のみだった四肢が小枝ほどにも細り、胸と腹が卵の殻を押し割るように窪んでいく。

 吸われている、とカジュは看破した。あれは《融合》。蝋人の肉体と魂の全てが、触れ合った肌を通じて魔王の中へ取り込まれているのだ。だのに蝋人は、感涙している。自身が失われていくことを、恐れるどころか感謝と歓びをもって受け入れている。

 こぼれた涙を親指で受け止め、魔王は低く囁いた。

「おいで。全ての苦から解き放たれ、僕の中で共に生きよう」

 絶頂の喘ぎひとつを残して、蝋人は跡形もなく消滅した。

 歓声が起きた。魔物たちが魔王に群がりすがり付き、我先にを懇願した。しかし魔王は彼らを穏やかに見すえ、優しくほぐすように微笑むばかり。

「焦ってはいけない。救いの道は長くて遠い。いま、ここにある命を全うする者にこそ《悪意》の手は差し伸べられる。

 でも、安心していいんだよ。僕はいつもそばにいる。君たちが真に必要としたその時、僕は必ず、君たちとひとつに融け合うだろう」

 魔王への賛美の声が、愛を歌うようにして渦まいた。魔王は彼らをひとりひとり慰撫してやりながら、螺旋階段へ――カジュの方へと近づいてくる。

「彼らは“夢見人ゆめみびと”。人間社会に取り残された旧魔王軍の生き残りにとって、この世は地獄そのものだった。報復、暴力、飢餓、凌辱……世界に絶望しきった彼らは、己のねじけた心に合わせて肉体まで異形に変えてしまったんだ。

 蝋肌の男の呟きを聞いたかい? 彼は正義感溢れる青年だった。社会の矛盾を正そうと懸命に働き、魔王の傘下に降ることで理想を実現しようとしたが、ただ、能力が足りなかった。誰にも支持されず、つまはじきにされ、やがて妄執に囚われて、いもしない敵への恫喝を呟くだけの存在に成り果てた。

 幻想ファンタジーは、それを幻想ファンタジーと知る者にのみ現実を生き抜く力を与える。でもそうでない者は、現実をこそ煮え湯のような幻想ファンタジーに変えてしまうのさ」

 カジュは身じろぎもしなかった。挑んでも到底かないはしないし……なにより、彼は何の害意も抱いていないからだ。

「……で、救世主ごっこってわけだ。」

 魔王は苦笑した。

「再び掴んだこの命を何のために使うのか。考えながら実践するうちに、いつのまにかこうなっていただけさ。

 魔王ぼくの中に融け合えば、幸せではないにせよ、苦しみからは解放される。《悪意》は百億通りの夢とエゴを飲みこみ癒す。古来《死》がそうしてきたようにね……」

 かつて木漏れ日の中で交わした想い。

 空の白むまで語りあった言葉。

 カジュだけへ注いでくれたのと同じだけの愛を込め、彼は今、微笑みかける。

「ずっと君に逢いたかった」

 魔王クルステスラ。

 いや。

 初恋のひと――クルス。

「プレゼントがあるんだ。受け取ってくれると、うれしい」



(つづく)

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