第17話-06(終) 旅立つ希望の序曲



 窓の隙間からまっすぐ差し込む朝日にまぶたをくすぐられ、カジュは猫のように背伸びしながら目覚めた。ベッドの上で身体を起こす。まだ頭が寝ぼけている。いつもとなりで一緒に寝ている緋女の姿は既にない。もう日課のトレーニングに行ってしまったのだろうか。

 寝間着のまま、木製の階段をぺたりぺたりと降りていく。きっと下では、ヴィッシュが朝ごはんの支度をしている。夜更かしが多いカジュはいつも起こされてばかりだったけれど、たまには手伝いのひとつもしようか。彼のことだ、きっと嬉しそうに歓迎してくれる。料理は不慣れだから、卵を焦がしてしまうかも。大丈夫、きっと緋女が笑って平らげてくれる。

 楽しい想像の中に遊びながら、寝ぼけまなこをこすり、カジュは、ひょいと階段下の居間を覗いた。

「おはよー。」

 静寂のみが、それに応えた。

 薄暗い、からっぽの部屋。夜の間に冷え切った寝椅子。定規で線を引いたようにまっすぐ注ぐ陽光の中で、ゆっくりと流れていく白い埃。飲み水の壺の、ふたの裏にたまった露が、また壺に戻ってぴちゃりと声を上げる。息を吸い、息を吐けば、その微かな音さえもが哀歌のように家中に響く。

 カジュは左右の腰に拳をあてて、ふん、と勢いよく鼻息を吹いた。



   *



 第2ベンズバレンから少し離れた丘の上に、一匹の赤犬の姿があった。彼女は夜明け前に街を抜け出し、街道を北へひた走ってきたのだ。だがこの丘の上に上り詰めたところで、何か後ろ髪を――いや、尻尾を引かれる思いがして、背後を一度だけ振り向いた。遠くに第2ベンズバレンの巨大な城壁が見える。あの壁の向こう、ここからでは見えないどこかに、きっと、彼女の大切なひとがいる。

 赤犬はその場に尻を降ろし、長い舌を口の中へきちんとしまって、鼻先を天高く突き上げ、遠吠えした。涙を誘う歌声が、初夏の野原に響き渡った。この声が、仲間たちに届いたろうか。ちょっと期待できない。人間たちは、なにしろ耳が遠いから。

 でも、きっと心は、届いている。

 ――ばいばい! あたし、行くね!

 緋女は再び立ち上がり、燎原の火の如く駆けだした。

 なすべきことが、目指すべきところが、きっとこの道の先にあるから。



   *



「すみませんでした。私も……動転していました」

 港まで見送りに来たコバヤシが、珍しく心からの謝罪を口にした。ヴィッシュはそれを笑い飛ばし、荷物を肩に背負い直す。コバヤシらしくないというか、なんというか。こちらは、何のことを謝っているのかさえ、始めは分からなかったくらいだというのに。

「すまないのはこっちも同じだ。この非常時にやる気をなくしてちゃ、情けないって思われて当然だよな」

「ですがこんなつもりで言ったわけではなかった。本当にいいんですか? “勇者の剣”を使えば、ヴィッシュさんの身体は……」

「なしにしようぜ、湿っぽいのは。それより後のことを頼む」

 コバヤシが力強く頷く。その頼もしさが、ヴィッシュの中に最後まで残っていた躊躇いを押し流してくれた。



   *



 小麦の粉を水で溶き、岩塩をほんのひとかけ、ナイフで削り入れる。かまどの灰の中から火種を掘り起こし、少しばかりの炭を足して、火の準備は完了。身長が足りないので、かまどの前に踏み台を持ってきて飛び乗る。フライパンを熱し、油を馴染ませ、小麦粉のタネを流し込む。いい加減に焼けたところで皿に移し、今度は戸棚からビン詰めの漬物や肉を取り出し、さきほどの生地で巻いていく。今日はぜいたくに、半熟の目玉焼きも一緒に巻き込んでしまおう。

 ヴィッシュがよく作ってくれた朝ごはん、その見よう見まねだ。ひとりで作り、ひとりで水のカップと皿を並べ、ひとりで食卓につき、ひとりで感謝の祈りを唱える。

「いただきまーす。」

 豪快に手づかみでガブリ。

 ――うーん。

 何か一味、足りない気がする。というかまあ、端的に言って、まずい。ヴィッシュが作ってくれたものは、感動するほど美味しいというわけではなかったけれど、いくらでも食べられた。今の今までそれがあたりまえだと思っていた。それを同じように再現してみたつもりだけれど、どこか少し違うらしい。

 ――やっぱりすごいんだなあ、職人技は。

 手ずからやってみて初めて分かる、“あたりまえ”の凄味であった。

「ごちそうさまでした。」

 とにかく栄養を腹の中に突っ込んでしまい、カジュはてきぱきと後片付けにとりかかった。洗い物を済ませ、フライパンを壁の釘に吊るし、火の元に水をかけて念入りに消火する。壺の中に余った飲み水は裏の運河に流してしまう。食材の棚を確認すると、保存食がいくらか。少し考えた後、カジュはそれを抱えて隣の家に持って行った。

「よかったら食べてください。腐らせてももったいないんで。」

 隣家のよく太った中年女性は、怪訝そうに眉を寄せた。

「出かけるのかい? そんなに長く?」

「仕事っす。」

 カジュはぺこりとお辞儀して駆け戻った。

 家じゅうの戸締りを確認し、フィールドワーク用の服に着替える。勉強机の上に重ねたままの書きかけの論文は、とりあえず束にして書類箱へ突っ込んだ。最低限の荷物を詰め込んだ背嚢ランドセルを背負い、2m以上もある本気勝負用の長杖を手に取り、全てをきっちりと片付けたうえで、カジュは玄関のドアノブに手をかけた。

 なにか超自然的なものに、呼び止められた気がした。

 振り返れば、いつもと変わらぬ居間の光景がそこにある。

 たくさんの時間を、ここで過ごした。

 ヴィッシュの夜食をつまみ食いして叱られた。

 夜中に喉が渇いたら、台所にはいつも清潔な水が用意してあった。

 あの机で勉強をした。

 行儀悪くも階段に腰かけ、時間を忘れて読書にふけった。

 荷物棚の一番上の巻物に手が届かなくて、ヴィッシュに取ってもらってムカついた。

 冬にはあの壁際のストーブの前に、きまって緋女が寝そべっていて、挨拶すると、尻尾をひとふりして愛想を返してくれた。

 身の上話をした。

 作戦会議もした。

 緋女とふたりでくすぐり合戦して。

 ヴィッシュがプリンを作ってくれて。

 毎朝ここに集まって、“おはよう”の言葉を交換しあった……

 一年分の暮らしと愛着。その全てを、我が家という宝石箱にそうっとしまい込み、カジュは外からドアを閉めた。

 錠の降りる乾いた音が、まるで見送りの挨拶のよう。

 せいいっぱいに胸をはり、カジュは今、日常に別れを告げる。

「行ってきます。」



   *



 街道や航路が物流の線なら、港はその結び目である。船に荷車に馬車に人夫、複雑に絡まり合った人と物の流れは、放っておけばたびたび衝突し、もつれを生じる。ゆえに港湾には多種多様な任務が要求される。船を操り、荷を運ぶばかりが仕事ではない。毎日山のように押し寄せる手続き書類を捌いていくのも仕事なら、樽のひとつひとつに荷札を貼っていくのも大事な仕事。

 混沌の中に渦巻くそれらの業務を淀みなく進行させるためには、角笛ホルンの音色が欠かせない。角笛ホルン吹きは港湾区の要所要所に配され、出航と入港の許可を海上の船に知らせる重大な役目を担っている。もし彼らが多彩なメロディを吹き分けることができなければ、港はたちまち大渋滞を起こし、物流がぴたりと止まってしまう。それどころか、衝突事故が起きれば人の生死にすら関わりかねないのだ。

 その責任の重さを誰よりも深く理解しているのが、角笛ホルン吹き見習いの少年ロトであった。少年は海際のやぐらの上に立ち、最前から懸命に唇を震わせていたが、角笛ホルンはかすれた音を立てるばかりで、ちっとも歌声を聞かせてくれない。

 少年は目に涙を浮かべ、後ろを振り向いた。しかし師匠は厳しい視線を少年に返すのみ。鼻の頭と目元以外をぜんぶ髭の中に埋め込んでしまったような師匠だから、表情を読もうにも読むところがない。ただ、矢じりさながらの眼光が、少年にじっと突き付けられているだけなのだ。

「師匠……やっぱり、おれ、無理ですよう……」

「あれほど練習しただろうが」

「あと半年は練習あるのみって言ったじゃないですか。どうしていきなり……」

 師匠は何も言わない。

 角笛ホルンは、難しい。楽器それ自体は単なる丸い管でしかなく、音は唇を震わせて出す。音階を調整する機能なども一切ないから、メロディを奏でるには、唇の震動の具合や息遣いを微妙に変えてやるしかないのだ。いっぱしの奏者になるには長い修練が必要とされる。それゆえ港湾の角笛ホルン吹きは子供を弟子に取り、幼いうちから少しずつ仕込んでいくのが普通であった。

 少年自身が泣き言を言った通り、彼はまだようやく音階らしきものを吹き分けられるようになったばかりで、複雑な曲を演奏できる段階にはない。そんなことは師匠とて百も承知のはずだ。

 なのに師は、どうして突然、未熟な少年にを任せたのか。それには今の情勢が大きく関係していたが、師の厳しさしか知らない少年には、その心が分からなかった。

「できると思ったから、やらせるまでだ」

 師匠は岩山が身じろぎするようにして唸った。

「さあ、もう一度だ」

「でも……」

「おめえ、名が泣くぞ。おかあさんが付けてくれたんだろう、異界の英雄の名をよ。ええ……おめえ、つよい男だろう。

 思い切ってやってみろ。おれがここで見ているぞ」

 少年は、唇を一文字に結び、再び海と向かい合った。

 角笛ホルンを握りしめ、口へ運ぶ。怖気と気後れを、胸の奥から湧き出す若々しい勇気によって払いのけ、少年は胸の中にたっぷりと息を吸い込み、吹いた。力いっぱいに唇を震わせた。

 音色が、高らかに響き渡った。

 少年は奏でた。力強いファンファーレを。何千回も、何万回も、この時のために修練を重ねた、あの由緒あるメロディを、今、少年の角笛が歌い上げたのだ。

 ――できた。

 自分の成し遂げたことが信じられず、少年は茫然と立ち尽くす。その少年のかたわらで、出航許可を得た港の船が動き出した。船が動いた――合図が伝わったのだ。その事実が、これは夢ではないと少年に教えてくれた。弾かれたように振り返る。背後でしっかりと見守っていてくれた師匠が、髭もじゃの顔の前に、ビッと親指を立てて見せた。

 少年はうなずいた。再び角笛ホルンに口をつけた。やるべきことは、もう分かっていた。



 角笛ホルンの歌声が躍動し、空と海とのはざまを満たす。

 少年は知らない。自分の演奏が、船の上のある旅人を、大いに励ましていたことを。

 その男は甲板の隅で丸くうずくまっていたが、どこか耳懐かしい音色を聞いて、ゆっくりとその場に立ち上がった。

 揺れる船から母なる港を顧みる。第2ベンズバレンの街並みから、幾筋も立ち昇る炊事の煙。海原の果てまで届かんばかりに響き渡る人々の声。今日も30万の人々が、歩き、休み、また立ち上がり、時には争い、時には愛し、情熱と知恵と肉体のるつぼの中で、確かな体温をもって息づいている。

 ――今なら分かる気がする。なぜ勇者が、俺を守ってくれたのか。

 しっかと固めた拳の内に勇者の記憶の結晶を握りしめ、旅人は第二の故郷へ背を向ける。

 ――それを守るために、俺も行くよ。


 彼は勇者になれなかった男。

 だが、これからもなれぬと誰に言えよう。


 旅人が今、海原をく。

 その背を見送り讃えるは、幾多の英雄を鼓舞した音色。

 旅立つ希望の序曲オーヴァチュア





 「勇者の後始末人」

 第17話 “旅立つ希望の序曲オーヴァチュア

 Overture:Revival of the Wish



THE END.









■次回予告■


 春の嵐吹き荒れる夜、ヴィッシュを訪れる懐かしい顔。見る影もなく豹変した後輩のありさまに彼は強く動揺する。時を同じくして闇の中に蠢き始める奇怪な敵。絶え間なく襲い来る苦痛と絶望。どうにもならぬ執着の果て、若き狩人はいかなる道を択ぶのか?


 次回、「勇者の後始末人」

 第14.5話 “一矢一途に”

 Only You


 乞う、ご期待。



(注)

・次回更新日は8/1(土)の予定です。

・次のお話は、第14話と第15話の間に挟まる独立した短編エピソードです。メインストーリーの続きとなる第18話は、次々回から再開の予定です。今しばらくお待ちください。

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