第14話-03 恋人の目の前で



 青年はオーデルと名乗った。きっと僕のことなどお忘れでしょうから、と前置きされたときには心臓が飛び出そうなほどであった。図星をつかれた驚きを、果たして隠しおおせたかどうか。

「昨夜、あなたを見かけたのです。年代記通りで」

 褥にふたり並んで腰掛け、つかず離れずの距離を保って、彼はそう切り出した。てっきり押し倒されるものと予想して、またそれを承知で招き入れたアンゼリカだけに、オーデルの紳士的な振る舞いはいささか拍子抜けであった。ただ話をするためだけに、嵐の中、女の寝室へ忍んできたというのだろうか、この青年は。

「一瞬のことでしたが、見間違えはしません。あなたの横顔ははっきりと覚えておりましたから」

「物覚えのよろしいこと」

「あなたが美しすぎたので、目に焼き付いてしまったのです」

「堂に入ったお世辞ね。どこで覚えてこられたの?」

「友人に口説き文句の手ほどきを……あっ」

 舌を出すさまがなんとも無邪気だ。かつて抱いた好感を、今またアンゼリカは蘇らせていた。素直で、飾らない、素朴な正直者。虚飾に満ちたアンゼリカとは正反対。

 ともあれ、裏通りのことから話を逸らすのは成功した。話題は彼の師匠たる好き者の友人を経て、オーデル自身の身の上に移った。彼は、さる位の低い騎士家の長男であるらしい。すでに幾度も戦に参加し、ちょっとした魔物やら盗賊やらを退治たのだという。

 促すと、彼は目をキラキラさせて夢を語った。今はまだ騎士団の末席に名を連ねるのみだが、いずれ武勲を立て、名を上げてみせると。

「シュヴェーアの名も無き“竜殺し”、剣聖デクスタ、そして伝説の勇者ソール! 名だたる英雄たちの中に、私の名を加えてやりますよ。

 身分違いはなんとかしてみせます。だから、そのう」

 小首を傾げるアンゼリカに、オーデルは、立ち上がり、深呼吸し、改まってひざまずき、手を取りながら生真面目に述べた。

「あなたを我が妻としたい。どうかこの愛をお受けください、この世に比類なき天使よ」

 アンゼリカは爆笑した。

「似合いません!」

「そうですかあ?」

「その台詞、どれだけ練習なさったの?」

「かれこれもうふた月……笑わんでくださいよう」

 目尻の涙を拭い、アンゼリカは彼の胸に手を当てた。鋼鉄のように引き締まったからだの奥から、高鳴る鼓動がびりびりと響く。その激しさは、指先に心地よい痺れを覚えるほどだ。

「ね。そんな言葉ではいや」

 オーデルの心臓はいっそう強く脈打った。

「あなた自身の声を聞かせて」

「君が欲しい」

 今度は彼女がどきりとする番だ。

「君が好きだ」

 それからしばらくは、声もなかった。風が鳴った。木の葉がざわめいた。嵐は徐々に強まっているようだった。自然の声に包まれて、じっと見つめあっていれば、まるでこの世からふたりだけが切り離されてしまったかのよう。真実の存在はたったひとつ。触れ合う指の温もりだけ。

 アンゼリカは瞼を伏せた。好きなように、してほしくて。

 ゆえにオーデルはそうした――そっと顔を寄せ、彼女に優しく口付けしたのだった。

 初めてだった、こんなにたどたどしいキスは。こんなに甘いキスも。瞼を持ち上げたとき、アンゼリカの目はとろけていた。この胸のときめきを、知られてしまったに違いない。燃えるようなじらいに頬が染まった。恥知らずにもからだはうずいた。

 しかしオーデルはそのままゆっくりと体を離し、立ち上がってしまった。

「……今夜は帰ります」

「えっ?」

 つい、抗議の声が出た。オーデルは微笑んで、

「これ以上はいけない。あなたを妻とするまでは」

「そうね?」

「また参ります。今度は、正式にあなたをいただきに」

 今いただかれてもよいのだけど。とは流石に言い出せず、彼女はぽかんとするばかり。

 青年は窓を開け、来た時と同じように、軽く枝に飛び移った。アンゼリカは、窓辺に手をつき、嵐の中に身を乗り出してまで、彼を見送った。すがるような目をしていたとは、自分でも気づいていまい。

「伯父様は明後日まで戻らないの」

「そうでしたか」

「明日も来てくださる?」

 オーデルは頷き、

「ええ、もちろん」

 力強く請け負うと、するする木を伝い降り、最後に大きく手を降って、そのままどこかへ行ってしまった。アンゼリカに残されたのは溜息ばかり。

 吹き込む吹雪に身震いして、アンゼリカは窓を閉めた。

 彼の温もりがまだ残る褥に腰を下ろし、ふと、己の脚の間に指を挿れてみる。

 ねっとりと糸を引くような蜜が、いつの間にか滲み出ていた。彼が指一本触れることのなかった乙女の聖域にだ。

 再び溜息をついて、アンゼリカは寝床に身を投げだした。

「……あんな男もいるんだ」



   *



 恋をした。生まれて初めての恋だ。

 吹雪がそれを教えてくれた。

 翌日、降りしきる雪はあらゆるものを純白の下に隠し清めた。滅多に雪が積もらぬだけに、この街は積雪には大変弱い。まして体が埋もれてしまうほどの大雪。街全体が息絶えたの如く動きを止めるに至り、アンゼリカは窓辺でそっと溜息を付く。

 明日も来ると安請け合いした殿方だが、さすがにこれでは約束を果たせまい。逢えぬ。そう確信するや、胸の中で何か不定形の生き物がのたうち回るような不快感を覚えた。これで二度と逢えぬやもしれぬ。雪はしばらく融けぬだろうし、明後日には伯父が戻ってくる――

 こんな不安は、ついぞ感じたことがなかった。自然と涙が溢れ出た。たかが男に会えぬくらいで、何故泣いているのか自分でも分からぬ。まるで半身を失ったかのようであった。

 きっとこれが恋なのだ。書物が語る伝説でしか触れたことのない、甘やかな心の果実。ひとくち口にしたが最後、体の芯から痺れさせるその酸味のとりことなって、再び求めずにはいられなくなる。だがかじれば齧るほどに餓えはいや増し、ついには恋以外の何も喉を通らなくなる。

 伝説は、まことであった。

 引き裂かれそうなこの思い。机の上に頬をこすりつけ、あるいは寝床に身を投げ出し、わけもなく襲ってくる不安に呻かずにはいられない。逢えぬ時間の切ない苦さ、これこそが恋の味。

 だから、夕暮れごろ、雪まみれのオーデルが再び窓を叩いた時には、思わず「きゃあ」などと歓声を上げてしまったのである。

 半ば引きずり込むように招き入れ、雪に埋もれた外套を脱がせ、ついに我慢しきれなくなって、胸に飛び込み抱きしめた。彼は凍えて震えている。この体を使って温めてやらねば。そうとでも理屈をつけなければ、羞じらいのあまり頭がどうにかなりそう。彼の匂い。彼の吐息。次第に蘇る彼の体温。無骨な手が、戸惑いながらも優しく髪を撫でてくれる。体中にむず痒く快感が走る。知らなかった、頭を撫でられるのがこんなに気持ち良いことだとは。

 その日もまた、寝床に並んで腰を下ろし、他愛もないおしゃべりに興じた。ふたりの間に彩を添えるのは、彼が持参した焼き菓子と、アンゼリカが用意した甘い蜜酒。話は盛り上がり、笑いは絶えなかったが、とうとう男と女の為すべきことは為されずじまい。昨夜からの進展といえば、ふたりの距離がこぶしひとつぶん縮まり、腕や肩が触れ合ったり離れたりしていたこと。小指で彼の手をくすぐると、お返しに握りしめてくれたこと。そして、昨日より少しだけ強引なキス。

 はしたなくも嬉しくて、つい物欲しそうな目を向けてしまって、それを見て取った彼はもう一度唇をくれた。もう一度。もう一度。おねだりするたび、何度でも。

 もどかしくて、切なくて、早く貫いて欲しいのに、彼は決してしてくれない。壊れやすい宝物を扱うように、大切に、大切に、アンゼリカを愛でてくれる。そう、愛してくれている。不意にそうと悟った彼女は、恋が通じ合った喜びに身震いした。そして、彼の胸に頬を寄せ、甘えた。

 第二の夜が終わった。今日には伯父が帰ってくる。だからこれが最後の逢瀬。

 しかしそこに思わぬ吉報が舞い込んだ。大街道が雪で封鎖され、また嵐も収まる気配を見せないことから、伯父の帰りはかなり遅れるだろうというのだ。アンゼリカは狂喜して神に感謝の祈りを捧げ(神のほうではいわれなき感謝に戸惑っていたやもしれぬ)、勇気を出して、侍女ドナに彼のことを打ち明けた。

 ドナは愛人として嫉妬したが、それ以上に、親友としてアンゼリカの初恋を喜んでくれた。壁を乗り越えないで済むよう裏口から招き入れる役を自ら買って出てくれた。アンゼリカの髪をいつにも増して念入りにくしけずり、体を香油と化粧で美しく飾り立ててくれた。夜着も、とっておきの、愛らしく、艶めかしいものを。殿方が身をたぎらせ、飛びかからずにはいられないように。

 今夜は勝負をかける夜。

 乙女が女に変わる夜。

 肉体はとうに変わり果ててしまった――だが、心はいまだ処女だったのである。



   *



 三度目の晩。

 手紙にて招かれ、裏口からとはいえ丁重に迎えられて、オーデルは予感を覚えていたに違いない。何か常ならぬものの予感。良しにつけ悪しきにつけ、ただならぬことが待ち構えていると。

 侍女に導かれるまま、青年は恋人のねやへたどり着いた。扉は厳かに開かれた。黒黒とした闇がその奥に広がっている。冬の寒気の中にあってなお、じわりと湧き上がる汗。恐るべきものがこの先に居る。

 しかし、愛を得るためならば。

 青年は闇の中に踏み入った。

 そして、見惚れた。

 一見して白、純白にも優る白。纏う見事な薄絹さえ、少女そのものを前にしてはくすんで見える。蝋燭の灯りに透ける四肢の、なんと細く伸びやかであることか。指が、腕が、脚が、単なる立ち姿の中にさえ無限の愛撫を想像させる。あのからだを、思うがままに抱きしだくことができたなら――

「もう我慢できないの」

 脳の蕩けるような、誘惑の声。

「きて」

 誰がこれに耐えられようか。

 青年は飛びかかった。キスによって押し倒した。彼女のからだが自ら崩れ落ち、抱きすくめられるまま寝床に倒れた。狂ったように舌を絡める。唾液の味さえ今は甘美。服の上から胸を揉み上げれば、アンゼリカの口で欲情の声が破裂する。ただ触られた、それだけで。愛しい男に触られている、その事実が、アンゼリカの感覚を十倍にも膨れ上がらせる。

 そして彼女の陶酔は、無論、男の目にも明らか。

 感じている。これほど愛らしい乙女が、この手に抱かれているがために!

 彼は指二本の先端でもって、乙女の脚のつま先から、線を引くように、腿の付け根までを撫で上げた。夜着の裾を捲りあげられ、アンゼリカが淫らにさえずる。そのまま指を滑り落とせば、既に濡れ濡れて海の如くになった肉の口が、声の口にも負けず物欲しげにひくついている。乱暴に揉み虐めるほどに、そこは青年を呑み込まんと吸いついてくる――

 と。

 その時であった。

 罵声に始まる短い騒音。次いでドアが叩き開けられる。襲来する何者かを身をていして防がんとした侍女ドナは、投げ捨てるように部屋の隅へ突き倒された。

 屈強な力士どもを連れ、来るべからざるものが入ってくる。

 すなわち、憤怒に顔を強張らせた、アンゼリカの伯父、その人が。



   *



 オーデルの体は、力士どもの手によって可憐な恋人から引き剥がされ、床へねじ伏せられた。背中を剛力で押さえつけられ、肺が苦悶の呻きを零す。

 伯父はアンゼリカに歩み寄った。鉄仮面よりも無表情に。

「事情の説明は要らぬ。古今を通じてありふれた出来事と見えるゆえ」

 伯父の声は、外の雪にもまして冷酷。

「命知らずの若者よ、ひとつだけ問おう。ここな娘を愛しておるか?」

「愛している。我が命にかけて」

 伯父が笑った。心からの悦びに満ちて。

 彼が何を考えているか。長い年月その暴虐に晒され続けてきたアンゼリカには、それが身震いするほどはっきり判った。伯父に飛びつき、その胸にすがった。撫でた。揺すった。口づけさえした。しかし伯父は彼女に視線もくれぬ。アンゼリカの懇願を感じながら、狂喜をさらに増すのみだった。ついにアンゼリカは泣き叫んだ。

「伯父様やめて!!」

「腕を潰せ」

 力士は命じられるまま動いた。すなわち、鈍器と豪腕をもって、オーデルの腕の骨を叩き潰したのであった。

 夜を引き裂かんばかりの絶叫が響き渡った。恐怖と激痛が悲鳴に乗って、アンゼリカにまで伝わってくる。少女は狂乱し、力士を止めんと自ら飛び出す。伯父が腕をひと振りすればその身は枯れ枝の如く蹴散らされる。

 再び悲鳴。今度は左腕。丁寧に。入念に。もはや二度と、骨の固まることがないように。

「脚もだ」

 かくて青年は。

 青年は――

 青年は多くを失った。

 腕も、脚も。やがて功為し名を挙げんという野望も。蛆よりも惨めで痛々しい姿で、そこに、転がっている。

 それでも伯父は、まだ満足してはいまい。

 全てを失わしめねば。最後に残ったひとつ――命をかけるとまで言い切った、何より大事であろうものまでも。

「用は済んだ。下がって良い」

 伯父は感動もなく命じた。力士たちがオーデルを解放して立ち上がった。ろくに這いずることさえできぬその状態を、もし解放と呼べるなら。

「その女はお前たちで好きにしろ」

 伯父があごで示すのは侍女ドナであった。気丈に抵抗するドナを、しかし力士たちは軽々と担ぎ上げ、意気揚々と去っていった。その間アンゼリカにできたのは、震えることだけ。見つめることだけ。恋人を。あるいは、恋人の残骸を。

「さて」

 伯父が、彼女の髪を掴み、寝床に引きずり上げた。

「もうしたのか?」

 アンゼリカは何も言わない。

「まだか」

 伯父がまたしても笑う。嬉しそうに。

「では見ておくがよい、若者よ」

 手が、夜着を引き裂いた。彼のために着ていた特別薄い絹なれば、脆いものであった。乳房があらわになる。それ以上のものまでも。

「いや!」

 悲痛な叫びは、かえって叔父をたぎらせる。

 転がる青年に見せつけるが如く――伯父はアンゼリカの股を開かせた。

「そなたが見たくてたまらなかったものだ」

 青年は、吠えた。

 その心は獣に堕した。

 目の前で獣な行いが始まった。伯父は自らをさらけ出し、深々とアンゼリカの中に突き立てた。滑る肉の中を、上へ、下へ、好き勝手に伯父は暴れ回る。その度途方もない快感がアンゼリカを貫いた。悔しいのに。こんな男に玩具にされて、殺してやりたいほど憎いのに。彼のために高ぶり濡れたこの体は、伯父の蹂躙にさえ見境なく反応してしまう。彼が――愛しい人が見ているその前で。

 伯父が肉を擦りあげる。最も感じやすいところを、狙いすましたように的確に。声が漏れる。泣き叫んでしまう。これまで感じたことがないほどの悦楽が、ひっきりなしに襲ってくる。達した。果てた。また達した。意志に反して肉体は止めどなく絶頂を迎え、その都度白いからだが弓なりにのけぞった。いつしか泣きじゃくりながら、彼女は自ら動いていた。

「いや……」

 自分から腰を振り、体を押し付け、伯父の男を求めていた。

 ぼろり、ぼろり、大粒の涙を、切なく乳房へと零しながら。

「見ないで……!」

 オーデルが目を見開いた。凝視せずにいられようか!

 今度こそアンゼリカは最後の絶頂に行き着き、息絶えたように倒れた。

 後に残るのは、小刻みなからだの痙攣。

 そして哀れな青年の放つ、血混じりの慟哭のみであった。




(つづく)

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