第14話-02 縛られた両手
ドナの手引で裏口を抜け、アンゼリカはただひとり、冷え切った夜に歩み出た。分厚い革のコートを着込んでなお、寒気が肌に痛いほどだ。それでもちっとも苦にはならぬ。彼女の中には、恋慕にすら似た暗い情熱がふつふつと沸き立っていたのである。
月明かりのみを頼りに進み、くだんの界隈へ足を踏み入れる。年代記通りは第2ベンズバレン建造初期に作られた住宅街だが、立地の問題から今ひとつ人の居着きが悪く、いつしか浮浪者の溜まり場となって、今ではこの街きってのいかがわしい地区に堕してしまった。並外れて廉価な宿や酒場。不穏な病の気配を漂わせる娼館。細かな鉄屑をすら掛け金とする賭場。その他、得体の知れない店は数しれず。このようなところにアンゼリカの如き小娘が足を踏み入れて、無事目的地に
目指す店は、この通りでも一際空気の淀んだ一角にあった。煉瓦の壁に挟まれた狭い道の奥。朽ちかけた木戸が、半ば崩れた壁に寄りかかるように傾いでいる。
このような所に人が住めるとは思われなかった。人でなければ、獣か、魔か。ドアと壁の隙間には黒黒とした闇が顔を覗かせ、いかにも魔性のものの巣穴めいて、不気味に沈黙している。
今更ながら、来たことを後悔した。何を舞い上がっていたのだろうか。なんと恐ろしいことをしているのだろうかと。この巣穴に足を踏み入れれば、もはや後戻りはできぬ。自らも魔性のものと化し、恐るべき罪に手を染めることになる。
しかし、ここから逃げ帰ったとて、その先に一体何があろう。未来永劫、伯父の獣欲に貪られ続けるのか? あの屈辱を、明日も、明後日も、ずっとずっと――?
衝動的にアンゼリカは戸を叩いた。叩いてから、自分のしたことに驚いた。だが内心はどうあれ、やってしまった。これでもう後には退けぬ。
店主なり店番なりの返事は無かった。アンゼリカは思い切って戸を押し開け、中に滑り込んだ。
魔物の巣にしては洗練された部屋だった。山をなす書物、数え切れぬほどの薬瓶、嗅いだことのない臭気を放つ
その中央に、もぞと動く影があった。憐れなまでに痩せこけた老人だ。ボロを着て、血走った目を手元の薬瓶に集中させている。
「あの」
アンゼリカが声をかけるも、返事はおろか、視線ひとつ返ってこない。
「毒薬をください。一切の証拠を残さず、一口で人を死に至らしめる猛毒を」
「そんなものはない」
男はしわがれた声で応えた。
「朝の前に夜あるが如く、結果には原因が先駆けるものなのだ。突き止められぬ因果はないのだ。そんなことも知らんのか、馬鹿め」
「ですが、話に聞きました。あなたに作れぬものはないと。この国いちばんの錬金術師だと」
ようやく、男は手を止めた。
「違う。世界一の、だ」
錬金術師の落ち窪んだ目が、異様にぎらついてアンゼリカを睨んだ。
その眼光に秘められた微かな欲望の気配を敏感に察して、アンゼリカはコートを脱いだ。水の流れるような艶髪が、寒気に青ざめた肌が、小刻みに震える桜色の唇が、男の目の前にあらわとなった。
からだを包むチュニックは透けるほどに白く、厳然たる貞淑と意志の弱さとを共に感じさせる。可憐なスカートは膝のあたりまでしかなく、また、左右の深い切れ込みが、腿の大部分を見え隠れさせていた。それを恥じた乙女が、脚を擦り合わせて身をよじるものだから、かえって、見えてはならぬところまで晒してしまう。
錬金術師は興味なさげに鼻を鳴らした。その実、視線は舐めるように粘質であったが。
「……今は忙しい。屑どものくだらぬ依頼が山積みなのだ。5日後にまた来い」
「困ります。今夜でなければならないのです」
「なら諦めろ」
アンゼリカは男のそばに寄った。何者かに操られたかのように、体がひとりでに動いた。事実、操られていたやもしれぬ。誰に? 神か。悪魔か。自らも気づいていなかった彼女自身の本性にか。
「お忙しいのなら手伝います。その後でなら、作ってくださいます?」
「む……」
錬金術師は唸った。念入りに洗い清めてきたアンゼリカのからだから、石鹸のえも言われぬ香りが届いていたに違いない。
「……グレイル138の瓶を取れ」
言われたとおりにした。まさか正しい薬を持ってくるとは思わなかったらしく、錬金術師は目を丸くした。無論アンゼリカの方でも、貴人の
錬金術師自身が述べたとおり、その仕事は多忙を極めた。彼は正体不明の器具を手足の如く操り、色とりどりの薬品やら、妙な匂いのする煙やら、薄汚い燃え
アンゼリカはひっきりなしに飛んでくる指示に従い、薬瓶のみっちり詰まった箱やら、分厚い書物の束やらを、あっちこっちに運び歩いた。自分から言い出したこととはいえ、普段重いものなど持ったこともない体にこれは堪えた。いつしか注意力も散漫になった。だから気づきもしなかった。働きまわる自分のスカート越しに、尻の曲線が弾けんばかりに浮かび上がっていることにも。錬金術師がときおり、それを盗み見ていることにも。
やがて仕事は一段落したらしかった。錬金術師が椅子に深く身を沈める。そして、なぜかアンゼリカから目をそらし、ぼそりと命じた。
「これで最後だ。この箱を奥へ」
木箱の中身は、ほとんど空になった瓶ばかりで、これまでのことを思えば天国のように軽かった。小気味よく返事して、アンゼリカは荷物を抱え、奥の薬品室へ向かった。
薬品室には窓一つなく、頼りはちびた蝋燭ひとつきり。どこの棚にも箱はぎっしり詰まっている。どこかに隙間がないものかと、端から順に、視線を滑らせ――
と。
突如、骨筋張った腕が後ろから彼女を抱きすくめた。
錬金術師。いや、いまやただの男。枯れた老人が、別人のような情熱を込めてアンゼリカを
「あ……の……」
「落とすなよ」
男の声には有無を言わせぬ力があった。
「欲しいのだろう――」
指がスカートの切れ込みから滑り込んだ。いきなり秘所の先端をぴんと弾かれ、駆け抜ける歓びにからだがのけぞる。木箱の中で瓶が音を立てる。手を塞がれて身動き取れぬアンゼリカを、指の責め苦は容赦なく襲う。いじる。こねる。撫で回す。ついには肉を掻き分けて中に押し入り、好き放題に掻き回す。
「んっ……」
蜜はだらしなく滴り、口許からは唾液が溢れ、チュニックの胸元を濡らして伝い落ち――そこに男の手が忍び込んだ。細い手がボタンの隙間から胸に触れ、豊かな膨らみを下から掬い上げるように揉み、敏感に尖り始めた桜色の果実を指に摘んで
「あ……んあっ!」
声が出た。出すつもりはなかったのに。からだは好きにさせても、感じるつもりはなかったのに。さながらアンゼリカは肉の楽器。匠の手に弾かれることを、沈黙のうちに期待する弦。アンゼリカは掻き鳴らされた。貞淑とは程遠い淫靡そのものの喘ぎ声で――
充分な時が経って、アンゼリカはそっと身を起こした。乱れた髪を慣れた手付きで撫で付け、衣服を手早く整える。その姿を見上げながら、ああ、と嘆き声を漏らすのは、錬金術師であった。すっかり精根尽き果てて、起き上がる力さえ残ってはいなかったのだ。
「なんという、なんということをしてくれたのだ」
錬金術師は泣いていた。こんな年の男も泣くのか。アンゼリカの目は冷淡ではあるが、無慈悲ではなかった。自然と彼女の手が伸び、老人の頭を撫でた。しかし錬金術師は、それを払い除けた。まるで怯えているようだ。
「私は学問に生涯を捧げた。あらゆる肉の欲は唾棄すべき惰弱と切り捨ててきた。幸福を知らぬことだけが私の支えだったのだ!
だがお前は、お前というやつは、私に烙印を圧してしまった。もはやこの悦びは忘れられぬだろう。この命が果てる時まで」
アンゼリカは立ち上がった。今はどんな言葉も無意味と悟って。
「約束です。お薬を」
「……ガオージャを持っていけ」
薬品棚からそれを見つけるのは容易かった。先ほど手伝っているときに、そんな名前の薬をしまった覚えがあったのだ。手のひらに収まる程度の小瓶を握り、アンゼリカは錬金術師を見下ろす。彼は、秘薬の使い方を事細かに教えてくれた。
礼を述べ、代金を支払おうとすると、錬金術師は拒んだ。もう充分すぎるほどのものを貰ってしまったと。これ以上苦しめないでくれと。
一方で、立ち去ろうとするアンゼリカを、こう呼び止めもした。
「待ってくれ。私はどうすれば良い? またお前を……抱きたくなったら」
アンゼリカは振り返った。天使そのものの笑顔と共に。
「いつでもいらして。私を口説いて。あなたはあなたなりのやりかたで」
*
夜明けは近い。急ぎ帰らねば。しかしアンゼリカに焦りはなかった。脚が羽の生えたように軽い。裏通りの恐ろしさも、一戦終えた体の疲れも、これまで抱え続けてきた重圧とともに雲散霧消したかのようだ。自然と顔がほころぶのが分かった。
懐には小瓶がある。この薬が彼女を解き放ってくれる。あの果てることを知らない凌辱の夜に、この手で引導を渡せるのだ。
そう思えば、忌々しい伯父の帰りさえ待ち遠しい。
アンゼリカは風のように駆けた。心がうきうきとときめいた。子供じみた笑い声すら零れていたやもしれぬ。両親を亡くして以来、一度も味わったことのない感情であった。
かくも舞い上がっていたせいか、彼女は全く気づかなかった。道ですれ違った一人の青年が、ふと足を止め、少女のほうへ振り返ったことに。
*
薬は、寝室にある扉付きの酒棚に隠した。ここにあるのはとっておきの銘酒ばかり。それらに手を触れるのは、淫らな行いの前後に給仕役を勤めるアンゼリカのみだ。侍女たちも、命じない限り扉を開けはしないはず。
伯父が戻るまであと二晩。アンゼリカは常のように大人しく過ごした。庭をそぞろ歩き、あるいは書を紐解いた。一文字も頭に入りはしなかったが。時には寝室に戻り、そっと、酒棚の小瓶を確かめた。その縁を指で撫で、想像を膨らませる。伯父はどのように死ぬのだろう。血を吐くだろうか。顔を恐ろしげに引きつらせるだろうか。その死に様を思えば、それだけで少なからず心が慰められた。
日が暮れて、
風が木窓を叩き始めた。冬の嵐が来るのだろうか。街道が雪に閉ざされれば、伯父の帰りが遅くなってしまうだろうか――
まどろみかけた頃、風とは異なる何かが窓を叩くのが聞こえた。アンゼリカは跳ね起きて、寝具を抱き寄せ、耳を澄ます。ごうごうと唸る嵐。枝葉のざわめき。それに混じって――また。確かに、何かが窓を叩いた。
何か、ではない。誰かだ。空気や雨や雪などではない、もっと確かな実体を持った人間の拳が、軽く、優しく、問いかけるようにノックしているのだ。まさか。ここは2階なのに。一体誰が、どうやって?
恐ろしくもあったが、今のアンゼリカはいつになく大胆にもなっていた。上着を羽織り、窓に寄り、意を決して押し開ける。
そこには一人の青年がいた。雪のちらつき始めた嵐の中、身軽にも木の枝に登り、いささか幼く屈託のない笑みを浮かべている。一見して感じのよい若者ではある。
「こんばんは、アンゼリカ」
――誰?
危うく首を傾げそうになって、ようやく思い出した。以前に夜会で会った、あの青年だ。ひとりでに動く人形の奇術を一緒に見た。名前は……やはり、思い出せないが。
「どうしてもあなたが忘れられないのです。突然の来訪をお赦しください」
「それは一向に構いませんが。この入り口はいささか狭すぎましょう? あなたが猫ならともかく」
「にゃあ」
真面目な顔をして鳴き真似などするものだから、うっかりアンゼリカは吹き出してしまった。
「おはいりになって」
笑いながら手を差し伸べると、彼は嬉しそうにそれを取った。そして猫顔負けの身のこなしで、軽やかに飛び込んできたのだった。
(つづく)
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