第8話-04 少なくとも



 仕事から戻った時にはもう、街全体がすっかり暗闇の海に埋没していた。カジュは帰るなり屋根裏に駆け上がっていき、夕飯ができたと声をかけても返事ひとつしなかった。ヴィッシュには何もできなかった。心を込めて作った手料理が、なすすべもなく冷めていくのを見守る他には。

 そのまま夜は音もなく更けていった。どうにも寝付かれず、ヴィッシュはストーブに火を入れ、酒を温め、ひとり酒を喰らっていた。横では緋女ヒメが床にムシロを敷き、刀をバラして手入れしている。炉の炎がじわりと揺れて、剥き出しになった刀身の、息を飲むほどに華麗な刃紋を浮かび上がせる。

 ヴィッシュは迷っていた。緋女ヒメに訊いてみたいことがあった。だが、自分に彼女らの内心に踏み込む資格があるのかどうか、いまひとつ自信が持てなかったのである。

 今となってはこのまま放っておくことはできない。拒絶は覚悟の上で、ヴィッシュはゆっくりと、口を開いた。

「なあ」

 緋女ヒメは、刃の打ち粉を丹念に払いながら、鼻にかかった甘い声を返してくれた。

「んー」

「お前は……知ってるのか。なんであいつが、なのかを」

 吸い込まれるように刃が鞘に収まり、鯉口で、パチリと耳心地良い音がする。

「話してくれたことないなー」

「お前にも、か……」

「あのカジュが、よ……」

 溜め息がこぼれる。

 緋女ヒメは刀を脇に置き、胸を弓なりに反らせ、暗い天井を仰ぎ見た。あの向こうにカジュがいる。しかし、その間は何層もの壁に阻まれ、いまだ彼女の全貌は見えない。

 心とは、元来そうしたものかもしれない。どれほど近づこうと、ひとつ屋根の下で同じ飯を食らおうと、ひとつの寝床に同衾どうきんしようと、決して正体が見えることはない。できるのは推測することだけだ。推して、測って、何度も重ねて、それでも暴けないのが人の心だ。

 緋女ヒメは寂しげに目を細めた。

「ね。昔の話、していい?」

「ああ」

「あたしとカジュが初めて会った時ね。あいつ、“企業コープス”に使い捨てにされてたんだ」

 ヴィッシュの手の中で、杯に波紋が立った。

「ほとんど自殺みたいな攻撃させられてて。見殺しにされてて。あたしがそれを助けて。仲良くなって。いっしょに企業の奴らと戦ったりして。

 それから1年。お前と出会うまで、あっちこっちふたり旅。

 その間に治ったけど……最初、あいつヒドい顔してたんだよ。肌とかボロボロでさ。なんかかゆくなるみたい。傷になってカサブタだらけなのに、また掻いちゃって。どんどんヒドくなってくの……

 ずっと酷い扱いされてたらしいんだ。嫌な仕事ばっかさせられてさ。あんまり話したがらないけどね……」



     *



 話してどうなることでもない。泣き言を言って、誰かに優しく守ってもらう、そんな甘えた生き方は本意じゃない。

 だからカジュはひとりで生きたかった。同情なんてまっぴらだ。自分の居場所は自分の力で勝ち取りたかったのだ。

 誰かに与えられる居場所の脆さ。与えられたものにすがることの危うさ。皮肉にも、“企業コープス”で生まれ育った経験が、それらを嫌というほど教えてくれたから。

 弱みを見せてはダメだ。たとえそれが、大好きな友達に対してでも。優しく親切な仲間に対してでも。

 それなのに。今は、その生き方が耐え難く、苦しい。

 カジュは屋根裏の巣に籠もり、人知れず泣いた。常にそうであるようにだ。やがて、涙が疲労を羽毛のように暖かく包み込み、彼女をまどろみへと導いていった。

 カジュは夢を見た。

 夢の中にが現れ、問うた。

 ――何のために生きているの。

 カジュは答えようとした。

 言葉は――出なかった。もう何年も、ずっとその答えを探し求めてきたはずだったのに。今ではもう答えを見つけ出してしまい、かえりみる必要さえなくなっていたはずなのに。それは妄想だった。答えを見つけたわけじゃない。解決できたわけじゃない。

 ただ、一時のたのしさが、辛い問いかけを忘れさせてくれていただけだ。

 ――分からない。

 カジュはようやく、そう応えた。

 ――まだボクには分からないんだよ――



     *



 そこで、目が覚めた。

 すでに太陽は高く昇りきっており、小窓の隙間からは眩い白光が射し込んでいた。表通りのざわめきが聞こえる。人々がそれぞれにうごめいている。己の為すべきことをよく心得て――あるいは、心得ているかのごとく見せかけて。

 すっかり寝坊してしまった。今日は早朝から論文の続きに取り掛かるはずだったのだ。だが不思議とカジュに動揺はなかった。あれほど彼女を追い詰めていた焦燥が、たっぷりの睡眠のおかげで、まるで他人事のように片付いてしまっていた。

 書物机に頭を預けたまま寝ていたためか、首と肩が乾物のように凝り固まっている。大きく伸びをすると、骨と筋肉がバキバキと心地良い音を立てほぐれていった。思いっきり息を吸い込み、吐く。まるで10日ぶりに呼吸をしたような気がする。悪くない、息をするというのも。

 小窓を開けてみると、陽射しが鋭く目を刺した。そのまっしろなセカイの中に、カジュはふと、幻を見た。太陽の中に浮かぶ少年の幻だ。逆光のために顔は見えない。だが、顔など見えなくとも分かる。そこにいるのが誰なのかは。

「いつまでも進歩ないんだ。笑っちゃうよね。」

 カジュがささやき声で自嘲すると、少年はゆっくりかぶりを振った。

 ――キミは、とってもすてきだよ。

 思わずカジュは吹き出した。自分の頭だけで創った問答が、やけに思えて。

「キミってそういうやつだよ。クルス。」

 それからカジュは、両の手のひらで頬を打った。小気味よい音が、弛緩しかんした心と身体を引き締める。見えた気がした。己の為すべきこと――少なくとも、今為すべきことだけは。

 そう。

 ――少なくとも、破滅するために生きてるわけじゃない。

「よっしゃ。やるかっ。」



     *



 居間に駆け下ると、ヴィッシュは(びっくり顔。)緋女ヒメに(今は犬に変身中。シッポ振り回して超ごきげん。)昼飯の皿を(うまそう……。いや、あれ絶対ヤバいっしょ。)差し出しているところだった。カジュのお腹がいいタイミングでキュンと鳴き、

「食べ物ある。」

 と問いかけるのを後押ししてくれた。ヴィッシュは僅かに戸惑いながらも、ぐいと親指でテーブルを指し、

「座んな」



     *



 今日のメニューは“たっぷり牛肉の牛飼い煮グーラシュ”。

 バターを入れた鍋でタマネギを炒め、狐色になったところでスパイス、水、少量の酢を加え掻き混ぜる。ここに角切り牛肉をどっさりと加え、さらにジャガイモ、人参、トマトピューレ、刻みニンニク、ハーブ、塩を加え、煮込む。肉が柔らかく煮えたなら、小麦粉でとろみをつけて完成。

 ヴィッシュの故郷、シュヴエーア北部の郷土料理で、あちらでは黒パンを添えて汁に浸けながら食べるのが定番。今日はベンズバレン流に、ほかほかの白米といっしょにいただく。

 ごろりと大きな魅惑の肉をひとさじすくえば、トマトの香りも豊かな紅玉色のスープがとろおりと垂れる。空きっ腹にこれはたまらない。かぶりつくようにして口に入れる……とたん、爽やかな酸味が一陣の風のように舌の上を吹き抜けた。そしてそれに絡みつく牛肉の、柔らかなこと! よくよく煮込まれた肉は繊維の一本までほろりと解けるほどに柔らかい。飲み込めば脳を刺激する、あらがいようもない確かな満足感。

 ――うまい。

 こんなに。こんなに食べ物とは旨かったのか。

 腹の中に温かくどっしりしたものが満ちていき、カジュは恍惚こうこつの溜め息をついた。腹から始まって、全身にエネルギーが行き渡りつつあるのがはっきりと感じ取れた。錯覚であることは分かっている。そんなに早く消化が進むはずがない。だが、いま身体を満たしつつあるこの感覚、元気は、紛れもない真実だった。

「ごちそうさま。さーて、続き書きますか。

 緋女ヒメちゃーん。暖房ー。」

「わんっ!」

 カジュはすっくと立ち上がる。緋女ヒメが足元に擦り寄ってくる。犬になった彼女を抱いていると、膝がとても温かいのだ。

 階段を登りかけたところで、ヴィッシュに声をかけられた。優しげな声だった。いつもとなんら変わりなく。

「大丈夫か?」

 カジュはひょいと肩をすくめた――ヴィッシュがいつもやる仕草と口調を、そっくり真似して。

「まあ見てな。」



     *



 一晩の休息で蘇った頭が、たっぷりの栄養を得て走り出す。まずやるべきは計画の見直し。深い疲労は能率を落とすだけだとはっきり分かった。睡眠時間はきちんと予定に組み込んでおく。その上で、我欲と妄執を棄て、あと7日で実現可能な見通しを立てるのだ。

 まずは全体構成の簡略化。万全を期すなら言及すべき副次的な研究についての記述を最小限にとどめ、実験をひとつ省略。代わりに理論面からのアプローチを追加し、後続の検証に先鞭をつける。これなら頭の中にあるものを書くだけでよい。

 特殊な条件下のみで成立する存在性方程式には項を追加して一般化するつもりだったのだが、とても書ききれない。これも削除……またいつか、独立した論文にまとめることにしよう。

 あれも削り、これも削り、時間の不足は工夫で補い、なんとか形を作っていく。それでも削りようがない実験、それも大掛かりなのがひとつ残っていた。ここは、の力を借りることにする。極めて不本意ではあるが。

「おーい。パン屋ー。」

 遥か遠いリネットまで《遠話》を飛ばすと、待ってましたとばかりに陽気な声が応えた。

〔よーっすカジュ大先生ー! 実験準備できてるぜ!〕

 カジュは目を丸くした。

「まだ何も言ってないんだけど。」

 パン屋は気のいい笑い声を聞かせてくれ、

〔こないだ、お前しんどそうだったろ。頼ってくれるって信じてたぜ!〕

 この時カジュの中に生まれた感情は、言葉ではいまひとつ説明しづらい。気の利いた助力に感心したようでもあるし、暖かな友情に胸を打たれたようでもある。もっと別の甘やかなものが込み上げてきたのも、否定はできない。しかし同時に、正体不明の敵愾てきがい心や敗北感、悔しさのようなものが胸の中に入り混じっているのであった。

 やたらと早口で実験内容を説明したのは、複雑な胸中をごまかすためだ。パン屋は時折相槌を打ちながら聞き、いくつかの要点について質問を飛ばした。

 打ち合わせがすっかり済んだころ、カジュは不思議な気分になっていた。まるで昔に戻ってきたような。同年代の子供たちと、日々、学問というおもちゃで遊び回っていたあの頃。二度と戻りたくないはずの、苦い思い出ばかりであったはずの、あの頃に。

「……そういう感じで。手間なんだけど頼むよ。」

〔任せとけって。そのかわり、今度会えたらデートしてよな〕

 彼の愛嬌ある笑顔が目に浮かぶよう。

 カジュは、ふんと鼻で笑った。

「ま、1回だけならね。」

 パン屋の歓声の大きなことときたら耳が爆発するかのようだ。カジュは片耳に人差し指を突っ込んで、思いっきり顔をしかめたのだった。



     *



 そして再び、カジュは書いた。

 冷え込む夜、犬に変身した緋女ヒメを、湯たんぽ代わりに足元へ抱いて。霧の朝、実験結果を元にパン屋と激論を交わして。いつのまにか届けられていた夜食に、ねじ切れそうな空腹を満たして。

 いくつもの手に頼りながら、カジュの魂を込めた論文は紡がれていった。決して満足のいく出来栄えではない。もっと良いものが書けたはずだ、充分な時間さえあれば。豊富な書庫があれば。自分にもっと、実力があれば。

 思い通りにならぬ作品に、苛立ちを覚えなかったといえば嘘になる。

 それでも、編まねばならない。

 たとえ最善ではなくとも。今のカジュに出せる最大限の“答え”を。



 それから七晩七夜が飛ぶように過ぎた。書き連ねた原稿は200枚超。その全てを束ねて製本し終えたのは、ある日の早朝――魔法学園の一行が帰りの船に乗る、まさにその朝のことであった。




(つづく)

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