第7話-02 パートナー
校長の言葉が皮肉にしか聞こえないカジュにとって、今の状況は苦痛以外のなにものでもなかった。
それからというもの、クルスはどこに行くにもカジュに付きまとった。講義も実習も、食事でさえもだ。もちろんそれは、やむを得ないことではあった。クルスをパートナーとすることは、それ自体が学校から与えられた課題だ。従わないわけにはいかない。命令には従う。言うまでもなく、カジュは今までそうやって生きてきた。たいがいの無理難題はこなしてきた身の上だ。
問題は、このクルスという少年が、途方もなく無能で怠惰でちゃらんぽらんだったことである。
クルスはしばしば、授業をサボろうとした……というより、開始時間を忘れて遊びほうけた。遊ぶと言っても、外の草むらや木の下に、ぼんやりと立つかしゃがみ込むかして、虫や草を見つめているだけ。一体何が楽しいのやら、全く
その上、教室でのクルスは、たいてい黒板を虚ろに眺めているか、カジュの横顔をじっと見ているかのどちらか。あれで講義が耳に入っているのかいないのか。ノートを取っている姿を見たこともない。実際、聞いちゃいなかったのだろう。先生に質問されても、彼の答えは決まって見当外れだった。やがてカジュは、彼が当てられると、大慌てでノートに正解をメモして、そっと彼の前に差し出す習慣を身につけた。おかげでクルスも優等生扱い。カジュと並んで。
何よりひどかったのは実習の時である。魔法陣を書くための砂、石盤とチョーク、補助のために支給された杖や
何たる素人!! 今までの7年間何をやってきたのか! 7歳にもなれば、
このままではダメだ。なんとかしなければならなかった。卒業時、3/4の方に入るわけにはいかなかった。
ならばやるしかない。パートナーが役立たずなら、自分ひとりでなんとかするのだ。
カジュは努力に努力を重ねた。勉強に勉強を重ねた。自由時間を削り、睡眠時間を削り、食事の時間さえ切りつめて、体力の続く限り頑張った。
それなのに。
ああ、それなのに――
*
転機が訪れたのは、
廊下に張り出された順位表……120組240人分の成績が、上から順にずらりと並んだ大きな貼り紙。生徒達はそこに群がり、競って自分の順位を確認していた。人垣の中からは大いなる悲鳴が、そしてごく希な歓声が聞こえてくる。カジュは人々を掻き分けて前に出ると、恐る恐る、自分と……クルスの名前を探した。
第104位。全120組中。
セカイが消え去った。
カジュは人混みの中からはじき出され、ふらつきながら、やっとのことで廊下の窓際までたどり着くと、糸の切れた人形のように床にへたりこんだ。茫然。未体験の低評価。カジュはずっと頂点を走ってきた。どんなグループに放り込まれても、その中で常に他を圧倒して生きてきた。なのに今――
順位が三桁だと。
上から数えて86.7%だと。
「……死ねばいいのに」
ぽつりと、本音を漏らした、ちょうどその時だった。
「いよっしゃあああああああっ!」
「よおっ、カジュ! 見て見てオレ! 9位ィ~ッ! トップテン入りィ~ッ!」
百兆歩
「オレたち頑張ったもんな! なっ、ロータス!」
「あう、あ……え……んっ……」
ロータス、とはこの女の子の名前だ。入学式のとき、リッキーの隣に座ってもじもじしていた、あの気の弱い子だ。まともに喋ってるのを聞いたことさえほとんど無いが、魔術の才能はなかなかのものがあり、カジュも一目置いている。リッキーにはもったいないパートナーである。
「やっぱ努力すりゃ成果ってのは出るんだな、うんうん」
「カジュだって努力したよ!」
思わずカジュは絶叫した。
ここ数ヶ月の、血の滲むような努力が思い起こされた。休みたくても、遊びたくても、カジュは我慢して頑張ってきたのだ。なのにその結果がこれか? その報いがこれか? この学校の誰よりも豊富な知識と高い計算力と正確な技術を持っている自信があるのに。なのにどうして結果が出ない!?
情けなくて、悔しくて、涙が溢れそうになる。泣かずに済んだのは、ただ、意地の為せる技。泣いてどうなる、涙を見せて何が変わる。自分を戒める強靱な意志が、挫折という名の最後の一線を越えることを、カジュに許さなかった。
だがリッキーは……あの腹立たしい軽薄な男は、さも当然のように、不思議そうに、こう言った。
「いや、お前努力してねえじゃん」
――何?
「あ、いや、勉強は頑張ってるけどさ。すげーと思うけど……ここに集められた以上、オレらだってそれなりに天才児なんだぜ? 2対1じゃ勝ち目ねーだろ?」
カジュは後ずさった。
代わりに一歩踏み出したのは、さっきまでリッキーの隣でもじもじしていた、あのロータスであった。
「あっ、あの……クルスくん……待ってる、と思……から、あの……」
カジュは、逃げた。
小さな脚をぱたつかせて、必死に廊下を走って逃げた。分かっていた。本当は分かっていた。だからリッキーにああ言われても、何も言い返せず、受け入れてしまう。自分のやり方が間違っていることくらい分かっていた――だって、カジュは、天才だ。
本当は。
本当は、怖くて。
カジュは走りながら指先で魔法陣を構築する。
《広域探査》。発見まで32ミリ秒。楽勝だ。
*
カジュが息を切らせて辿り着いたとき、クルスはいつものように校庭の草むらにしゃがみ込み、じっと花を見つめていた。カジュはしばらく彼の背中を見つめて立ち尽くし、息が整うのを待った――いや、実際には、声を掛けづらくて
やがて覚悟を決めると、カジュは彼の背に声を掛けた。
「クルス」
「いいところに。ねえカジュ、今、
クルスは立ち上がった。あの虚ろな目を、
彼がこちらへ腕を伸ばした。手のひらに乗っていたオンブバッタが、ぴょんと跳んでカジュの服にしがみついた。黒いビーズ玉みたいな目が四つ、カジュをじっと見上げている。細いススキの穂みたいな触角が、それぞれゆっくりと8の字を描いている。カジュは優しく手のひらでバッタを包み、服から引き離すと、草むらに放ってやった。バッタは草むらの緑に溶けて、自分の世界へ帰って行く。
初めて会ったときとは違う。物怖じしている暇などない。カジュにはやらねばならないことがある。
「今日、放課後、カジュの部屋に来て」
「なんで。」
「勉強。教えたげる」
「え。」
クルスが、珍しく表情を変えた。
初めは、驚き。そしてやがて、微笑み。嬉しそうな、本当に心躍る何かに出会ったような、そんな笑顔。カジュは心臓が爆発しそうになるのを感じていた。見たことがなかった。これまで7年の人生で、誰もこんな笑顔をカジュに向けたことは無かった。笑顔というのは人間関係を円滑にするための道具だ。それが常識だ。
違うのだ。クルスは、そうではないのだ。
そしてこの笑顔を誘発したのが、他でもない、カジュ自身であるという事実が、頭の中でぐるぐると渦を巻いた。その事実が何を意味するかも、なぜ自分がそんなことに衝撃を受けているかも、カジュは気付いてはいなかったが。
「必ず行くよ。ありがとう、ボクのために。」
腹の底から怒りが爆発して、カジュは頭の
「お前がヘボいとカジュが困るんだよ! ばかッ!」
まるで《火焔球》の術のように、怒りの形相で、肩肘張って、がに股に去っていくカジュ。その背中が見えなくなるまで、あるいは見えなくなった後も、クルスはじっと見つめていた。その光景は、初めて会ったときとそっくり同じ。
いや。同じに見えて、ちょっとだけ、違う。
*
こうしてカジュとクルスの奇妙な師弟関係が始まったが、カジュを驚かせたのは、彼が思いのほか出来のいい弟子であることだった。カジュが手ずから教える知識や技術を吸収することは、まるで水を吸うスポンジのよう。
半月でみっつの言語をあらかたマスターした。さらに半月で基礎的な魔術式を残らず把握した。計算力こそかなり劣るものの、呪文の文法構造と単語の活用から神への敬意度を計算する、恐ろしく複雑な偏微分方程式も理解した。これは非常に重要なことだ――強力な術になればなるほど、神への敬意度を間違った際の反動が大きくなる。僅かな活用形のミスで、幾人の一流術士が命を落としたことだろう。
何より恐ろしかったのは、実際に呪文を構築する際、クルスがしばしば文法的ミスを犯すことであった。立ち会っているカジュのほうがぎょっとする。反動を消すために慌てて防御の術を構築したことも、一度や二度ではない。だというのに彼は一切動揺を見せず、アドリブで後半の文法や単語を組み替え、呪文を唱え終わった時には、敬意度の誤差を有効数字5桁以内に抑えてしまう。これはほとんど神業である――にもかかわらず、
「一体どうやって計算したの?」
「なんとなく。」
これだから、カジュはもう舌を巻くしかない。
つまり彼は、ハナから計算などしちゃいないのだ。魔術式も、エギロカーン方程式も、全部腹の底から理解している。計算などするまでもなく正しい答えを導き出せるほどに。人が意識せずとも息を吸って吐けるように。鳥が何も考えずとも空を飛べるように。
本物の天才、というものに、カジュは初めて出会ったのだった。
解せないのは、これほどの才能を持った奴が、なぜ今まで
「ねえ。今まで勉強してなかったの?」
「してたよ。でも、どうでもよかった。」
「どうでもよくないでしょ。カジュたちは
「どうでもいいなあ。」
「変な奴」
クルスは笑った。彼は最近、よく笑うようになっていた。カジュは溜息を吐くことが少なくなった。彼の笑顔に、いちいち動揺することもなくなった。しかし、
「でも今は、勉強が好きだよ。」
「なんで?」
「カジュが教えてくれるから。」
さすがにこれには参った。カジュが
いずれにせよ、クルスはめきめきと力をつけていった。ふたりの評価も、最悪の状態から、徐々に高まっていったのである。
*
「LN量産機たちの調子はどうです?」
校長室のソファにどっかりと背中を預け、にこにこ笑顔を貼り付けたまま、コープスマンが訊ねた。向かいの校長が茶をすする。彼もまた、能面のような笑顔を相手に向けている。立派な
「さすがにジブリール・タイプは優秀ですね。噂になるだけのことはあります」
「とはいえ、アレは
「つまり不安定性を心配していらっしゃる?」
「そういうことです。120体のうち、一体どれだけが使い物になるやら……問題があれば、僕が技術部に伝えときますよ。きっと新型には反映されるでしょう」
言って、ずずっ、とコープスマンは茶をすすった。
「いやあ、美味しいお茶ですなあ♪」
「山が近いでしょう? 雪解け水が湧くんですよ。今年ももうじき、一面の銀世界になります」
「羨ましい、いい環境だ。今から楽しみですよ」
「というと、
「そのつもりです。ですので」
楽しそうに、コープスマンは言った。
「そこらへん、も少し詰めて打ち合わせましょうか」
(つづく)
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