第一章 幼児期
第01話 『Born To Be Wild』
俺の名は
いや、生きていた、と言った方が正しいか。誰が信じるよ? 瓦礫に押しつぶされて死んだ俺を迎え入れたのは、色白の美しい天使。天国地獄、夢現の境界すら判断出来ない俺の目に飛び込むのは知らない天井。映画や美術館でしか見たことのない豪奢な家具。せっせと働く人々に囲まれて、おんぶに抱っこにべろべろばあ。
そう、俺の体が……縮んだのか? 生まれ変わったのか? ともかく普通じゃありえない現象が俺の身に起こったことは確かだ。
我が困惑、悩めど悩めど、解決せざりけり。ぢっと手を見る……どう見ても、赤ん坊の可愛らしい手だった。
第01話 『Born To Be Wild』
今、俺を抱いて微笑かけてくる女性は、最初に会ったあの天使とは別の人だ。この人以外にも、花瓶を拭き、絨毯を拭い、寝台の敷布を取り換えたりと働く女性達が居る。何という無駄な労働力。どうやら俺はやんごとなき身分の生まれらしい……普通に考えれば、の話だが。普通でない彼女らの恰好を見ると、自分の立場を把握するどころか余計に混乱する。
黒の布地に白いエプロン。腰から足首にかけて広がるスカートにカチューシャという、誰もが本やテレビで一度は見たことがあるであろうメイド服そのものだ。
百歩譲って、そこはまだいいとしよう。見逃すこと許さずと自己主張している、一部の女性の頭部と臀部に問題がある。
まず頭頂部だが、髪から覗くのはカチューシャだけではない。犬とか猫みたいな、獣の類特有の三角形のモコモコと毛が生えた大きな耳が生えている。そして臀部。耳と同じように、フサフサの尻尾が右に左に跳ねている。バネや針金で釣ってるようには見えず、意志を持って動いているようだ。
この部屋で俺が視認できる四人の中では、色形は違えど俺を抱えている女、今花瓶を床に置いた女、雑巾を絞っている女の三人はその奇妙奇天烈な容姿をしている。残った一人は普通の人間のように見えるが、赤い髪と瞳をした、見た目がかなり強烈な女の子だ。
自分の身に何が起こったのかが最大の問題点ではあるが、この頓珍漢な場所は一体どこに存在しているのだろうか。世界三大変態大国、ドイツ、イギリスと並ぶ一国、我らが日本国の新鋭コスプレ喫茶だと言われたら、まあ信じなくは無いが、それにしてはやけに凝り過ぎた内装に思えるし、何よりもこの光景が自然に見えるし、女性たちも馴染み込んでいる。それとも、違法でごにょごにょなM資金で過激な活動をする動物愛護団体だったりするのだろうか。
まさか、俺の体にも耳や尻尾が? と頭を撫でてみるが、特にそれらしいものは生えていない。ならば、洗脳ではなく生贄? 俺を供物として踊るのか? ケチャケチャやるのか? いやいや落ち着くんだ。とにかく情報収集に徹して、自分と身辺の状態を見極めなければならない。
……なんか催してきたな。あれ? この体でどうやってお花を摘みに行けばいいんだ? ——
昔、隣近所の庭に植えてある柿をくすねて友人達と食べ、仲良く腹を下したことがある。腹を抑え、パンツをババ色に染め倒れる友人達。あくどい餓鬼にはお似合いの結果なのだが、窃盗と醜態という二十苦を大人達に晒すのを断固として阻止したかった俺は、括約筋に全精力を注ぎ、流れる冷や汗を拭いながらも、完璧なポーカーフェイスを決め込み、当時親友だった坊主頭のかっちゃんに全責任を押し付けた。俺の名誉は完璧に守られ、当然の如くかっちゃんに絶交される。逆ギレした俺はかっちゃんを脱糞禿野郎と罵り、彼のクラスヒエラルキーを著しく下落させた。若さ故の過ちだったのだ、許してくれ。
——そんな訳で、俺の名誉の犠牲になったかっちゃん、脱糞禿野郎の名に懸けて、こんな所で漏らす訳にはいかない。生まれ変わっても失ってはならないものがある。そう、あるのだと……あ、ああ! この体、括約筋が弱い! 赤ん坊だからか!? まずいまずいかっちゃんの骨は拾っても同じ業を背負うつもりはないぞ!? つうかそれ以前にどうやってこの犬耳のメイド姉ちゃんに厠に連れて行かせればいいんだ!? ああ駄目だ間に合わ……
仏の如く悟りの境地にて揺らめく意識が再び現世に戻ってきた時、俺は寝台に寝かされていた。羞恥心など水に流してしまえ。赤ん坊の身では考えるだけ無駄だ。
っと、何かが俺の頬を刺激している。見れば先ほど絨毯をせこせこ拭っていた黒猫メイドが、ニマニマとだらしない表情でつんつんと突っついているではないか。ちゃんと手を洗ったのか? 俺のピチピチベビーフェイスを弄るとは良い度胸だ。頬を突つく手を捕まえ、その人差し指にチューをした。メイドは硬直し、頬を赤く染める。ふはは。古今東西、赤子の可愛らしさは絶対正義なのだ。思い知ったか。
がちゃりと扉が開く音が響く。その音に再起動したメイドが俺から指を離して飛び上がり、静かに着地し佇まいを正して何事も無かったかのように俺の横に立った。……おい、なんだその跳躍力。軽く二メートルは跳ねたように見えたんだが? 俺の疑惑の視線にメイドは気づかない。扉に向けて頭を深く下げている。
部屋に入って来たのは、俺がここに来て? 最初に見た天使だった。明るい金色の長い髪がさらりと流れ、陽光を優しく反射している。陶磁器のように白い肌はシミ一つ無く、顔だちは名画の登場人物のように整いすぎ、俺と交差したその瞳は天国の石と呼ばれるブルーサファイアを思わせる程に、妖艶で煌びやだ。あの時は顔しかまともに見えていなかったが、服装はかなりゆったりとした黒いワンピース。赤い飾りが付いた襟から胸元が大きくはだけ豊かな膨らみが覗いている。煽情的に見えなくもないが、その美しすぎる容姿は劣情と共に、芍薬牡丹百合をその神々しさで切り刻みそうだ。赤ん坊だから性的な感情が湧かないだけかも知らんが。
そして例に漏れないというかなんというか、天使の耳も普通でなく、漫画やアニメに登場するエルフとか言う異人のように横に長く伸びている。耳に気を取られているといつの間にやら天使は俺を抱き上げ、ごそごそと肩にかかる紐を下ろし、片乳房を露出させた。成程、これから、おまんまの時間のようだ。……え? 俺の?
ちょっと待て。俺は確かに今現在は赤ん坊だが、精神年齢的には大人に片足を突っ込んだ立派な青年なんだぞ? こんな気持ちで授乳なんてとてもじゃないがって待って。待って! やめて! そんな慈愛に溢れる眼差しで俺を見つめないで! その薄桃色の突起を近づけんじゃねえ! いや近づけないで下さいっ、お願いっ、やめ……
毎日毎日、食っちゃ寝チョメチョメ、食っちゃ寝チョメチョメと三大欲求を満たすだけの、あまりに退屈すぎる日々。分かった事と言えば俺の名前が“リオ”ってことだ。それも愛称らしく、本名はもっと長い名前のようだが聞き取れない。聞き取れても文法が理解が出来ない。イントネーションはヨーロッパ圏の言語っぽい気がしないでもないが、さっぱり分からん。扱っている文字は象形文字をもっと崩して簡易的にしたようなモノのように見えるし、何が何やらチンプンカンプンだ。授業で習ったどの記憶にも当てはまらない文字は、此処は地球では無いと俺に語っているように思えた。
刹那的に生きるが信条の俺にとって、生前に未練などとうに無いから、異世界であろうとなんだろうと、面白ければそれでいい。しかし理解出来なければ折角の体験もつまらんものになる。この身では誰かの補助無しに本を読むことも出来ないし、寝返りは気張ればうてるようになったが、ハイハイは無理。行動範囲が狭いどころではなくただの点。零次元。時間も空間も束縛され不自由不快。暇な時間を潰す唯一の手段は睡眠。退屈となんちゃらは人を殺す、と詩に載せたマギーだかメギーだかって奴も、虚無感や無力感が生む苦痛に、アヘ顔でひぎぃと歌ったに違いない。
せめて抱っこして外へ散歩にでも連れてってくれよ。それが駄目なら“魔法”見せてくれよ。昨日読んでくれた絵本にそれっぽい描写があったんよ。せっかくのファンタジーワールドをこんな狭い、いや一人用にしちゃ随分でかい豪華な部屋だが。ともかくこんな空間に閉じ込めて過ごさせるなんて拷問と変わんねぇよ。本だけ読んで想像巡らすだけじゃ、向こうの世界と変わりねえじゃん。だれか俺を行かせて! もう『俺がママになるんだよ。単為生殖ソロプレイ編』で遊ぶのも飽きたよ~。
「……………」
いつの間にか、M字開脚してアヘっている俺の傍らに長身の男が立っていた。母の容姿に負けず劣らずの美男。燃えるような紅蓮の髪に、同じく緋色の瞳の双眸はキリリと鋭く迫力がある。鎧にも似たその礼装は、様々な宝飾が施され絢爛であり、漆黒の大きな外套を羽織り、それ以上にぞくりとする程の威圧感を纏っている。下らない痴態を見られ心に血の涙を流す俺に優しい笑顔を向けてきた。相変わらずいい色男ね、親父殿は。
親父は手を伸ばし俺をそのたくましい胸に抱きこんだ。長耳のお袋の胸には、母の愛と男の夢と俺の飯が詰まっているが、親父には父の侠と男の希望、そして大黒柱の気苦労が詰まっているようだ。指先が墨のようなもので汚れている。俺の視線を追った親父も気付く。しばし悩んで……おいおい外套で拭くなよ。いやいや良しじゃねえよなに同じ黒だからオッケーバッチリだみたいに頷いてんだ。今は目立たねぇが乾きゃテカるし落ちにくくなるんだぞ。あーあ、オラ知らね。
俺を抱いて歩く親父の足元には、細やかな金の刺繍が縫われた継ぎ目の無いレッドカーペットが敷かれ、等間隔で並ぶ大理石の柱には人や獣を模したレリーフが彫られている。天井からは大小様々なシャンデリアが吊れ下がり、窓から差す光が小さなガラス細工の中で踊り星のように輝く。鏡の如く磨かれたメーブルノアールの床が空間を広く見せて、まるで宇宙に浮かぶ赤い道を歩んでいるようだ。
先に待ち受けていたのは高さ四メートル近い、何トンあるかもわからない大扉。いたる所に大小様々なダイヤが散りばめられ、俺の頭ぐらいありそうな大きさの八種八色の見事な宝石に囲まれて、天高く剣を掲げる戦士が彫られている。扉の両脇に直立しているのは鎧の上からでも分かるほどに筋骨隆々な、扉と変わらない背丈の巨大な兵士。それぞれ金と銀の宝飾大剣の切先を床に当て柄に両手を置き、鋭い視線を真っすぐに動かない。
親父が扉の前で立ち止まる。二人の巨兵士はその剣を少しだけ持ち上げ、床にぶつけた。二つの重たい金属音が共鳴し合い、それに反応するかのように八つの宝石が一瞬輝く。巨大な扉が重低音を轟かせ、ゆっくりと開かれた。
扉の向こう側に広がる空間は、天井が信じられないほど高く、複雑な幾何学模様のステンドグラスから太陽光が漏れている。部屋を支える巨大な八つの螺旋柱は漆のように美しく、天井から零れる光を妖しく照らす黒曜石で出来ている。
レッドカーペットの両脇には、親父程ではないが一目で高価だとわかる衣服を着こんだ数千人の人々が、俺達に向け頭を下げていた。誰も彼も服も見た目も違う。身分階級を表しているのではなく、おそらく文化圏が異なっているのだろう。ということは、親父は唯のお偉いさんではない。
人垣の間を悠然と歩く親父の顔を見れば、軽い微笑みを妙ながらも、覇気を周囲に放っている。カーペットの終点、最下段には一糸乱れぬ兵士達が並び、中段には親父と同じ真っ赤な髪と瞳の老若男女八人が、礼装鎧を身に包んで切先を床に、柄に手を置き片手を後ろに組んで堂々と立っている。八人が持つのはそれぞれ赤、青、緑、黄、橙、紫、黒、白の八つの宝剣。扉に埋め込んである宝石と同じだ。そして最上段には巨大な玉座。やがて玉座の前に立った親父は外套を大きく翻らせ、人々を見下ろした。
この広い堂に反響するほどの親父の声が響き渡った。言ってる事はところどころしか解らないが、この雰囲気からして、俺のお披露目の挨拶といったところだろう。玉座を見上げる連中のチラチラとした視線が刺さる。
やんごとなき身分という言葉の頭に、くるしゅうないがついてしまうほどのおうちに、俺は生まれてしまったようだ。第二の人生の過ごし方について思案に暮れる俺を置いて、玉座の間には俺の名前が鳴り響く。
リオスクンドゥム・メルフェイエ・グランディアマンド
……。なげぇよ。
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