Goodbye Cruel World

姫野なりた

1-1

 気がつくと森の中に居た。

 なぜこんな場所を歩いているのか、見失いかける。

 竹井宣子たけいのりこは前を歩く背の高い男の背中を見つめた。

 深い森、気怠い春の気配、充満する酸素。

 どこからか微かに甘いにおいがする。花の香りだろうか?

 これほど緑が深い場所に足を踏み入れるのは、生まれてはじめてだった。

 ふたりは踏み固められた土の道を歩いていた。細い道を踏み外せば、黄緑色の草が足下に柔らかな感触を残す。いま履いているヒールのような、かかとの高い靴では歩きにくいと思った。

 転ばないよう、足下に細心の注意を払いながら、先を歩む。

 鳥のさえずりが近くに聞こえる。木々から覗く日射しは小刻みに明滅し、歩くふたりを照らしていた。

 「着いたぞ」

 どれくらい経ったのだろう。歩き疲れた頃に、男——篠沢しのざわが振り返った。

 顔を上げると大きな一軒家が建っていた。

 年月が刻まれた古ぼけた家だ。全体的に茶色と灰色で構成された、一見壊れかけたような家屋。

 「……あの」

 宣子はふと疑問を感じた。

 近くに隣家はないのだろうか?

 辺りを見渡す。森の途中の拓けた土地に、その家だけがひっそり佇んでいる。

 「まさか、一軒しか……?」

 おずおずと彼を見上げる宣子に、篠沢は冷たい声で答えた。

 「この先を二十分ほど歩けば、上条の家がある」

 「二十分ですか?」

 聞き間違いかと思ったが、篠沢は黙って頷いた。

 宣子はぽかんと口を開けた。

 ……壮絶だわ。

 野中の一軒家、という言葉があるが、現代日本に実在するものだったなんて。

 そしてその家に自分が住むなんて。

 驚きが沈静すると、次第に可笑しさが込み上げてきた。この状況がたまらなく滑稽に思えた。

 わたしは、ひとりきりだ。

 その事実が、狂おしいほどの悦びを感じさせる。

 傍目には判らないほど薄く、宣子は微笑んだ。

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