第1話 狼の帰還
南千住――。
そこは北千住の影に隠れ、いまいちぱっとしない町――。
めざましい発展を遂げ、新旧合わせ様々な建造物が町を彩る北千住と違い、未だに車庫が街の中心でいまいち見所のない町――。
むしろもっと南に下って三ノ輪に行った方が楽しめるのでは? と思わせる町――。
北千住に倣い大学を招致してみたものの、聞いたことのない新興大学しか来てくれなかった町南千住――。
その誰も聞いたことのないような新興大学――振興(しんこう)大学に、入学式を間近に迎えた3月のある日、大学の運命を変える1人の男が訪れる……。
その男はゆっくりと、南千住駅に降り立った。
――いや正確にはここまで地下鉄日比谷線を使っていたので登り立った。
「ここが次の俺の戦場か……」
男は辺りを見回す。
「車庫デカイ……」
出たのが東口だったので、まずそれが目に付いた。ちなみにこの車庫が今後の物語に関わることがほとんどないことを先に明記しておく。
「……駅員さんの大学なのかな?」
男はこれから向かう戦場をそう捉えていた。
車庫を横目に男は歩き出す。
10分後――。
男は再び南千住駅に舞い戻ってきた。
「……逆だった」
スマートホンの地図を確認し、男は思わず呟く。
――そう、本来なら男は西口に出るべきだったのだ。だが、案内板の「車庫」という単語に注意を引かれ、特に考えもなく東口から出てしまったのである。
あり得ざるべきミス。
「クソっ!」
ミスは男がこの地球上で最も嫌うものだった。
あの時のことを嫌と言うほど思い知らされるから――。
「いや、これはわざとだ。俺は町の様子を知るためにわざと反対側から出た。あのグラーツもおそらくそう言っただろう」
グラーツとは言うまでもなく、アメリカが生んだ往年の天才ザバリストである。現在ロサンゼルスハンターズの監督である彼の前向きすぎる性格は、男にとって最高の師であった。
そして男は何事もなかったかのように町を歩く。
特に見所が見つけられない南千住の町を昭和通りに向かって数分歩くと、目的の振興大学が目に飛び込んできた。
「ここか……」
振興大学は一般にイメージされるような校舎がある大学ではなく、ビルの一部をそのまま校舎にした、良くいえば今風の、悪くいえばあまり資金力の無い無機質な大学であった。校庭はなく、体育会系の部活は練習のために電車を使って移動しなければならない。
「まあ俺には関係ない話か」
自分に言い聞かせるように言うと、男は自動ドアを開けビルに入り、エレベーターに乗る。
向かうのは学長室――。
男はかつてザバルの試合に臨むときと同じような気持ちで、扉を開けた。
「やあいらっしゃい、内田君」
「初めまして」
男――内田貴文は部屋の主である学長に深々と頭を下げる。
「さて、君は今年からスポーツ学部の講師となるわけだが――」
――そう、貴文がこの大学に来たのは教員になるためで、この日は学長に対する顔見せと最終確認があったのだ。
春から彼がこれまで心血を注いできたザバルとはほとんど関係のない、運動生理学の講義を行う予定であった。教員免許は引退後に取った。
本人はそう思っていたのだが……。
「――それと同時に君には新設されるザバル部の監督になってもらいたい」
「なんですって!?」
貴文は座っていた椅子から思わず立ち上がった。
「どういう意味ですか!? 確かに私はザバリストでしたが、事前説明にそんなこと一言も……」
「有名チームや強豪校に勧誘されてもなしのつぶてだった君が、果たして真実を話したらうちのような三流大学に来てくれたかね?」
「それは……」
――違う、とは嘘でも言えなかった。
もしそう言われたら、確実に貴文は新講師募集に応募しなかっただろう。雇用条件に「部活指導との兼任はない」の一文があったので、わざわざこんな大学に来たのだ。ザバル指導者兼任なら、早慶どころか東大さえ三顧の礼で迎えてくれた。
ただ、こういう事態がないとも思っていたわけではない。
なぜなら――。
「あの日本代表『栄光の66番』、内田貴文を呼ぶためだったらこの男福原達夫、ありとあらゆる手を使う」
「・・・・・・」
貴文は心の中で深くため息を吐いた。
そうだ。
何処までいってもそれだ。
現役を引退してからもう何年も経つのに、未だに世間は自分を一般人内田貴文ではなく、『栄光の66番』、『光速の右』、『烈火の左』、『激動の肩』、『裂帛の眉』、『産んでくれたお母さんに感謝したくなるような心臓』の内田貴文としか扱ってはくれない。
むしろ故障引退でプレー期間は短く、同期で現役のプレーヤーもまだいるというのに、いまだに日本代表のイメージがついて回る。自分はこれほどその呪縛から逃れたいというのに、世間はそれを決して許してはくれなかった。
ザバル関係の仕事を断り続けた結果、こんな地味な仕事しか残らなくなってしまったが、そこでもまだプロザバリストの貴文を放っておいてはくれなかったのだ。
(もうこうなったら日雇いでも……)
「断る前にまず話を聞いてくれないか」貴文がそう思い断ろうとした機先を制し、学長――福原達夫は言った。
「言うまでもなく我が大学は何の特徴もない地域に、特にこれといった強みもないまま創立され、案の定大して流行ってもいない、俗にFランや駅弁大学などと蔑まれている学校だ。この少子高齢化社会でそんな大学が生きていくためには、絶対的な、かつ多くの人に受け入れられる売りが必要なのだ」
「その点は理解しています。ですがそれは御校に限った話でも――」
「――そう、君の言うとおり、歴史が浅い割に世界的な人気のあるザバルにその活路を見いだそうとしている大学は少なくない。だが我が校は他校とは比較にならないほどの背水の陣で、ことに望んでいるのだ!」
福原学長は椅子から立ち上がり、熱い目をさらに熱く燃えたぎらせ貴文に詰め寄る。
貴文も180センチで日本人にしては高い方だが、福原学長は立ち上がると貴文以上だった。今時珍しく着物を羽織っており、体型が見えにくい服装にもかかわらず、その筋骨隆々な体型ははっきりと貴文にも理解出来た。頭ははげ上がっているが顔も若々しくかつ暑苦しく、その内側に籠もる闘志を隠そうともしない。資料上では
「は、はいすい……ですか……?」
「うむ」
福原学長は再びゆっくりと椅子に座る。
会ったときから貴文は感じていたが、その威圧感というかオーラというか、そう言ったものが尋常ではない。
「私は元ザバルの選手だった。もっともプロリーグが出来た頃は当に選手としてピークを過ぎていたがね」
「それはまあ……」
そもそもザバルが誕生したときでさえすでに福原学長は27なのだから、そんなの当たり前だ……という言葉を飲み込み、貴文は頷く。
「私が競技者として関わったのは、ほんの瞬きするほどの期間に過ぎない。だが、それでも私の人生を狂わせる……いや、言い方が悪いな。魅了するには充分の時間だった。それからの私の人生は全てザバルに費やされたよ。この学校を作ったのもそもそもがザバルのためだ」
「ですが、元々部は存在しなかった、というより現在進行形で存在していないはずですが?」
それも貴文がこの大学を志願した理由でもあった。まさかないものの指導者にさせられることはないだろう、と。
福原学長は自嘲気味に笑いながら、ゆっくりと首を横に振る。
「ふっ、確かに現状はそうだ。だが私は決して諦めたわけではない。ただ、半端なザバル部を作りたくなかっただけなのだよ。そんなもの作るぐらいならない方がマシだからな。まず大学を作って設備を整え、さらに各高校に根回しをし、今年ようやく動き出すことが出来たのだ!」
突然福原学長は貴文の手を取る。
その瞬間、貴文は驚愕した。
あまりに大きく無骨で岩のように固い外側とは対照的に、シルクのようになめらかなその掌は、明らかな『フラッター』のものだった。かすかにスキンクリームのぬるぬる感があるあたり、手入れは未だ怠っていないのだろう。『フラッター』はザバルでも比較的ベテランが務めるポジションではあるが、逆算すると福原学長が選手でいたのは40代後半、おそらく50前後だろう。さすがにここまで高齢の選手を貴文は知らない。だが握手をすれば程度が分かるといわれる『フラッター』故に、福原会長の元プロ選手という話を疑うことはもうできなくなった。
そんな貴文の内心を読み取ったのか、福原学長は手を離しにやりとする。
「ご覧の通り私はこれほどまでにザバルに入れ込んでいる。そんな私の夢を叶えるチームなのだ、半端なものでゆるされるできではない。まず新入生だ」
貴文は知らない間にごくりと唾を飲んだ。
その気はなかったのに、すっかり福原学長の言葉に引きずり込まれていた。
「まずチームの中心にインターハイ2年連続得点王……のあの子はさすがに無理だったが、同じ高校で去年『ミン賞』だった尾崎君の勧誘に成功した」
「『ミン賞』……」
尾崎某という高校生については貴文は知らない。ザバルに関する情報は自分から積極的にシャットダウンしてきた。その変わり、『ミン賞』の選手をチームの中心に据えるという福原学長の慧眼は理解出来た。
『得点王』、『打点王』、『失点王』、『拒点王』、『王』と違って『ミン賞』には目に見える数字が存在しない。あまりに報われないポジションへの救済措置として、日本の学生ザバルにのみに存在する賞だ。時には「頑張ったで賞だろ(笑)」などと揶揄されることもある、名誉とは無縁の賞である。
だが貴文のような元プロザバリストから見れば、これほど重要な賞もない。
ザバルにおいては、いやこれはどんなスポーツにおいてもそうだが、マスコミやファンの注目を集める選手より、縁の下の力持ちとなってチーム全体を支える選手の方が実は重要なのだ。現に前年度優勝校が前年『ミン賞』を受賞した選手を欠いたために、全国大会どころか地区予選落ちしてしまったという話も珍しくない。
さすがに何の賞も受賞していない選手より格は上だが、それでもはっきりチームの中心に据えると断言した
(まずいな、少し熱くなっている自分がいる)
貴文はわき上がる笑いをこらえるため、引きつったような不自然な笑みを浮かべた。
「そ、それでその何が背水――」
「話はまだ終わっていない。他にもインターハイ出場経験のある小野と本宮のふたごの勧誘に成功した」
「双子、ですか……」
ザバルにおいてポジションは限られるが、双子は大きなアドバンテージだ。同じ能力の選手が2人いたらまず身内に双子がいる方が選ばれるというほどである。言うまでもなく、本人が双子の片割れでなくても、だ。
「しかし苗字が違いますが?」
「そこは複雑な家庭の事情があるのだ! ちなみに二卵性だから顔は似ていないがまあ些末な問題だろう」
「いや、まずそこが大事なんですがね……。でもまあ――」
双子と言うことは置いておいて、こんな大学にインターハイに出場した選手が来てくれたことは注目に値する。こんな社会的な実績も、魅力も、校庭もない大学に。
「他にも全国を駆け回り、私がこれはと思う高校生達をスカウトしてきた。中には札束でほほを引っぱたくような勧誘をして連れてきた者もいたが、皆基本的にはある一点を条件に入学を承諾してくれた」
「条件?」
「ああ」
そこで福原学長は目を閉じ、言った。
「君が監督になると言うことだ」
「そんな気はしていました」
特にショックもなく貴文は言った。
これには言った福原学長の方が肩すかしを食らう。
「……察していたのか」
「今までの話の流れから。つまり背水というのは私が監督にならなければ、彼らとの約束が反故になり、部自体が誕生しなくなる、ということですね」
「それだけではない。実は勧誘や部創設には方々から資金援助をして貰い、そのほぼ全てが君が監督になることを条件としていたのだ。つまり君がここで首を横に振れば、私は破産するというわけだよ。これが背水だ」
「本当に貴方という人は……」
とんでもないザバル馬鹿だな、と貴文は呆れた。
そしてかつての自分がこの男と全く同じ目をしていたことも。
「さて、それでも君は断るというのかね」
「そうですね。老人の蓄えを全て溶かしてはいさようならというのも、寝覚めが悪くてしようがありません。だからといってじゃあ受けますと言っても、お互い良い仕事は出来ないでしょう。少し時間をくれませんか?」
「それが今私が最も期待していた答えだよ」
2人は握手を交わす。
その日の出会いは2人にとって、そして大学ザバル界にとっても歴史に残る邂逅であった……。
「どうすっかなー」
あれから数日後、入学式を翌日に迎えたある日、貴文はまだ返答できずに安宿の一室で転げ回っていた。
貴文用の部屋は実は校舎があるビルの一角に用意されていたが、そこに泊まるとなし崩し的に監督にさせられそうな気がしたので、わざわざ身銭を切って寝床を変えていたのである。
「でも監督かあ……」
現役時代はゆくゆくはそうなるものだと思っていた。
それまでのロードマップも描いていた。
それがあの事故で全てがフイになった。
(自分の故障と引き替えに日本代表はワールドカップ初優勝という快挙を成し遂げたんだから、そりゃ部外者にとっては美談だろうさ。でも本人にしてみれば、アレで将来描いていたあらゆる計画が全てパーになったんだ。もう二度とザバルに関わりたくないと思うのも当然だろ)
貴文は心の中で愚痴る。
「それに命がなあ……」
医者からはまた同じ場所に問題が起これば、死ぬ可能性があるとまで言われた。
だったらもう選手は辞めるしかないだろ。
引退後も人生は続くのだ。
「でも断るのもアレだしなあ。ホントどうっすっかなー……」
貴文はまた部屋の中を転がり回った。
そんなことをしていても答えなどでないと分かっていても。
「……外の空気吸ってくるか」
いい加減こんなことをしていても無意味と判断し、貴文は重い腰を上げる。
外に出るともう夕暮れ時だった。窓を閉め、時計を見ていなかったので出るまで時間が分からなかった。
福原学長には明日の入学式までに結論を出してくれと言われているので、もう本当に時間が無い。
焦りは当然あった。
ただ現役選手だった頃と違い、そのために何をすれば良いのか、全く思いつかなかった。
宿舎を出た貴文は迷わず北へ向かう。
残念ながら南千住には時間をつぶせそうな所はどこにも無かった。とにかく北千住まで行けば何かあるだろうと、地元住民のような思考回路がすでに完成されていた。
「……ん?」
寂れた商店街を少し歩いていると、向こうから走ってくる少年が貴文の目に入る。
ただの少年であったなら、特に気にも止めなかっただろう。
ただ彼の走り方は、明らかにザバルをしている者特有のそれだった。ザバルを教える際、まず最初にするのが走り方の練習であるほど、ザバルにとって走法は重要である。
少年はなかなかのスピードで貴文の横を通り過ぎていった。
貴文はそんな少年の後ろ姿を少しだけ見送ってから、また歩き出す。
たとえザバル選手であったとしても、今の自分には全く関係のない相手だ。
だが少年にとってはそういうわけにもいかなかった。
「あの!」
千住大橋にさしかかったところで、貴文は不意に呼び止められる。
振り向くと全身汗まみれのあの少年が、肩で息をしながら立っていた。
すれ違ったときはあまり注意しなかったが、改めて見るとなかなか特徴的な少年であった。
背は160前後でくりくりと良く動く大きな目、おそらく中学生だろう、随分可愛らしい顔をしている。女の子からはモテるというより、可愛がられるようなタイプだ。
だが貴文が気になったのは、そんな容姿の話ではなかった。
低身長でその上華奢、にもかかわらず明らかなザバル走法でのジョギング、これは――。
「『前バック』……」
「え、あ、はい『前バック』やってます!」
少年は姿勢を正し、体育会系を連想させる礼儀正しさではっきりと答えた。
――そう、貴文は一瞬で少年のポジションが『前バック』だと見抜いた。極限まで体重を削り、かつ体幹がぶれていない少年の体型は、『前バック』には理想的だった。
「あ、あの、内田選手ですよね!?」
「元選手、だよ」
少年は興奮した様子で貴文に詰め寄る。
福原学長とは違った暑苦しさだ。
ただ、汗まみれの割には男子学生にありがちな汗臭さはなかった。むしろ何か妙にフローラルな臭いがし、貴文は少し気持ち悪くなった。
「あ、そうでしたね。えっと、それで明日から大学の監督になるんですよね!」
「大学の監督……もしかして君は」
「はい! 元三十六高ザバル部尾崎松之助です!」
「こう言っちゃ悪いがてっきり中学生だと思っていたよ」
「良く言われます」
照れながら松之助は答えた。
男子高校生の割にそういう仕草に違和感がないのは、貴文はどうなんだろうと思った。
「まあそれはおいておいて」
「え?」
「いや、こっちの話だ。確か俺が現役の頃は三十六高といえば強豪校だったな。それは今でも変わらないのか?」
「・・・・・・?」
今の高校ザバル界の事情を知らないような貴文の発言に、松之助は不思議そうな顔をした。監督になるなら知っていて当たり前の情報である。
貴文もすぐにそれを察したが、あえて誤魔化そうとはしなかった。
別に現時点で無知を見抜かれても困ることはない。
「俺は引退してから長い間ザバルから離れてたんだよ。だから今は学生ザバルどころか、プロザバルのことについても全く知らない」
「そうだったんですか……」
松之助の表情は明らかに失望したそれだった。
これから師事しようとする人間が、ほぼ門外漢だと分かればそれも当然だ。他の新入生にも事情を話せば、全員落胆しこのまま監督の話はご破算になるかもしれない。あの会長には悪いが、外的要因を理由に断るのもありか。
貴文はそう思い始めていた。
「三十六高は……」
やがて松之助は絞り出すように言った。
「え?」
「今の三十六高は昔ほどは強くないです。俺が2年のときに5年ぶりにインターハイに出場することができて、去年7年ぶりに準優勝しました」
「ああ、三十六高の話か」
どうやら話は途中で終わったわけではなかったらしい。
「俺はそのとき『前バック』で『ミン賞』に選ばれたんですが……」
言いながら松之助を奥歯を噛みしめる。
ああ、あの顔だ。
貴文は松之助の表情に、昔を思いだした。
おそらく松之助は『ミン賞』に選ばれた名誉より、決勝で負けたことを思いだしているのだろう。
準優勝の上『ミン賞』なら周囲は賞賛したはずだ。
それが余計に自分を苛立たせる。
むしろ「何故負けた!」となじってくれた方が、どんなに楽だったか。
貴文も同じような気持ちになったことが、過去何回もあった。
そしてその悔しさが天才プレーヤー内田貴文を作り上げてきた。
もし貴文が本当に天才なら、栄光だけで悔しさなど一度も味わうことはなかっただろう。
それでも周囲は天才だと囃し立て、どうしようもない雑音に貴文の心はささくれだった。
(いかん……)
思考が過去に戻ろうとしているのを、貴文は首を振って押しとどめる。
こんな状態では何を言い出すか分かったものではない。目を血走らせながら青臭い話をするほど、もう若くもなかった。
ただ一つ確かなことは、この少年は将来必ず強くなるということだ。
上手くなったり、速くなったり、尖ったりするのではなく、純粋に選手として強くなる、そう思った。
「『ミン賞』を取った新入生が来るという話は聞いていたが、それは君だったのか」
「はい! でも、あの時は取ったと言うよりは周りに取らせてもらった言う感じで――」
「自惚れるな」
「え……」
貴文は松之助を一喝する。
「『前バック』はそれだけで務まるようなポジションじゃない。『ワールド』の選手だけでなく、裏方、その他表には出ない多くの人達の協力があって初めて成立する。それら全てを把握するのが一流の『前バック』だ。今のは謙遜して言ったつもりだろうが、裏を返せば自分一人でどうにかなると思っている傲慢な考えだ」
「す、すみませんでした!」
松之助は90度どころか、180度近く腰を曲げて頭を下げた。
そんな松之助を見て、貴文は熱くなりすぎた自分が恥ずかしくなり、後頭部をかきながら頭を上げるように言った。
「まあ引退した俺がいちいち言うセリフじゃないがな。忘れてくれ」
「いえ! 尊敬する内田せ……元選手の言葉、胸に刻みます! 念のためメモにも取ります!」
「尊敬するって……。最近の学生はお世辞も部活で習うのか?」
「本当です! 俺は内田元選手の指導が受けられると聞いてプロの誘いも全て断ったんですから!」
「ああ……」
そこで貴文は、新入生の入学条件が自分の監督就任であったことを思いだす。今の自分を評価できない貴文は、それをすっかり忘れていた。知らない間に「監督にならないと学長が破産する」という結果しか頭に残っていなかった。
「いやでも、な。俺はそもそも指導歴なんてないし、現役時代『前バック』でもなかったし……」
「たとえ何を言われようが、自分にとってあの試合の内田元選手は英雄でした!」
「あの試合……」
おそらくこの少年が言っているのは、引退の切欠になったワールドカップ決勝の試合のことだろう。あそこでがむしゃらにプレーしなければ、今でも現役は続けられたかもしれない。だが優勝がかかったあの状況で、自分だけ楽をするなど、到底我慢出来なかっただった。
結果、日本は奇跡の逆転優勝を遂げ、貴文は悲劇の現役引退に追い込まれた。燃え尽きるどころか、選手としてやりたいこと、プレーしてみたいリーグ、対戦してみたいチーム、触ってみたい草が数え切れないほどあったというのに。
そんな絶望的な過去を世間は美談として扱う。
あのシーンは未だにテレビで何度も放映される。
それを見せられる度に、貴文はテレビをたたき割りたくなった。
たとえあの場にもう一度立っても、同じ選択をしたと分かっていても――。
それ故に他人からあの当時の話を聞かれるのは勘弁願いたかった。
「あの時の話なら――」
「ンパンパDリーグ第16節!」
「え……」
予想外の発言に、貴文は拍子抜けした。
そんな貴文に構わず、松之助はすさまじ勢いで話を始める。
「日本人初のンッパDマン(ンパンパDリーグに所属している選手のこと)としてシーズン途中で乗り込んだ前年は目立った活躍は出来なかったものの、身体が慣れ始めた翌シーズンからは脅威の『拒点率』! そのプレーは当時の大統領もビックリ! 大統領の運転手と言わしめるほど! 特に第16節のトラッププレーは他のプレーヤーがすれば袋だたきに遭うこと間違いなし、内田選手ならばこそ許されるプレー! さらに後半――」
「ああもういい」
端々に舐め腐った表現が見て取れたが、情熱は伝わり、さらにこれ以上放っておくと私生活まで言ってきそうなので止めた。
「君が俺を尊敬してくれているのは分かった。だが、いや、だからこそ俺はそれほど指導者として相応しいとは思えない。君はもっとしかるべき人間の元、しかるべき指導を受けた方が良いと思う。いちおうまだある程度ツテが残っているなら、海外でも多少は口利きも――」
「内田監督!」
「は、はい!」
貴文は思わず頷いてしまった。
「俺がザバルの選手を志したのは、学生時代の監督のプレーを見たからです。そんな俺が監督の指導を受けないんじゃ意味がないんです! 他の連中だってそうです!」
「……他のスポ推(スポーツ推薦)の連中とも、もう会ってるのか」
「はい、高校時代試合した相手でもありますから。みんな監督に憧れて、たいして条件も良くない振興大学のスポーツ推薦を受け入れたんです!」
礼儀を守って話しているようで、ところどころ口の悪さが感じられたが、それ以上に自分に対する熱い思いが押し寄せてきた。
果たして今の自分にそれを受け入れられるほどの力があるのか。
自画自賛してもイエスとは言えなかった。
「・・・・・・」
「見て下さい」
煮え切らない態度の貴文に、不意に松之助は南千住駅の方を指を差した。
「ここからのルート何かに似てるとは思えませんか?」
「何かに……」
貴文は目をこらす。
見えるのは南に向かう昭和通りの広い道路だけで、特にこれといったものは連想できなかった。
「俺にはさっぱり……」
「そうですね、実は俺もさっぱりです。じゃあ今度はスマートホンの地図を使ってみて下さい」
「ああ……」
貴文は言われたとおりにする。
その瞬間、貴文も松之助の意図に気付いた。
「これは……人?」
「そう人です!」
自信満々に松之助は答える。
――そう、昭和通りが南千住信号のY字路で都道464号線と別れることにより、地図で見るとちょうど『人』という字になっていたのだ。
「ここは人と人が出会う町南千住。ザバルもひょっとしたらこの地で誕生したのかもしれません。しかしそれも、一つの視点からでは見ることは出来ません。監督、俺には監督が何に悩んでいるのか分かりません。ただ落ち着いてもう一度別の、もっと高い視点から色々考えて下さい。そういったのは他ならぬ内田選手自身ですよ。それじゃあ俺は残りの練習があるので」
松之助はそう言うと、南千住の方に向かって走って行った。
おそらく同じルートを何度も往復しているのだろう。典型的な『前バック』の練習方法だ。
貴文は松之助の背中を、ただ立ちつくしながら見送った。
「あれは……いつの言葉だったか……」
やがてそんな呟きが口をついて出る。
「そうあれは――」
貴文の脳裏にあの時の映像がまざまざと蘇った。
あれはそう、高校2年の夏――。
貴文はその時、監督兼選手としてインターハイ県予選決勝の試合に臨んでいた。
勝てば当然インターハイに出られる。
高校生ザバリストにとって、インターハイは最大の目標だ。しかも貴文のいた高校は松之助のいた三十六高とは違い弱小校で、自他共に認める貴文のワンマンチームだった。
――そう世間は思っていた。
結果は敗戦。
個人としては県予選、および決勝で最多得点を取ったが、チームとしては惨敗。
そのときある地元紙のスポーツ担当記者に「今大会は惜しくも敗退してしまいましたが、個人としては大活躍ですね」と言われたときに、返した言葉である。実は言った本人は忘れていたが、後に日本代表入りした際にその話をその記者が蒸し返して、思い出した。
正確にはこうである。
「記者さんは僕という視点しか見えていないようですね。落ち着いてもう一度別の、もっと高い視点から色々考えて下さい。そうすれば今の僕たちがどんな状況なのかわかりますから」
おそらく敗退した試合で勝ったように扱われ、かちんときて皮肉で返したのだろう。ひねくれ者の自分なら言いそうなことだ。似たような台詞をいろんなとこで言ったような気もする。
ただ、それを後に他人から言われることになるとは、これ以上の皮肉があるだろうか。
「別の視点、か……」
言われてみると、確かに今までの自分は視点が固定されていたのかもしれない。引退時の辛い思い出から、ザバルを避ける気持ちばかり強くなり、あらゆる物事をそれを基準に決めていた。
だが本当にザバルに対する気持ちはそれだけだったのか。
あの血反吐を吐きながら、それでも気が狂ったように笑って『ワールド』をかけずり回った日々は、本当に思いだしたくもない過去なのか。
「……自分についた嘘はシャッテでも逃げることはできない、か」
今はことわざになっているような古い言葉を思いだす。シャッテは日本リーグ開幕当時、ンパンパ連邦から来た選手で、その快足で日本のチームをずたずたに引き裂いた。そのあまりのスピードに、当時シャッテを用いた車のCMが嫌と言うほど放映された。
そのシャッテでさえも結局自分についた嘘に追いつかれ、その精算をさせられる。そう言ったのは、ある大学のザバルファンの教授だったか。
ちなみにシャッテ自身は特にこれといった問題も起こさず、選手引退後は指導者の道を歩み、それも順調に引退してからはンパンパ連邦で悠々自適な老後を送っているという。
「……あそこに行ってみるか」
貴文は踵を返し、千住大橋を後にした……。
貴文が向かったのは南千住の外れにあるとある古びた建物だった。その建物には「ザバル記念館」と書かれた木の表札がかかっている。ザバル発祥の地……と主張する南千住ならではの建物だった。
受付の腰の曲がった老婆に代金を払って入館する。
前々から気になっていた場所であった。もっとも、その前々はこの町に来た今月だが。地下鉄の案内板にあったのが嫌でも目に入っただけである。
いざ入ってみると、予想以上にちゃちな施設だった。
展示物は誰もが知っているような内容で、独自のものと言えば知りたくもない町長の演説内容や、ザバルとは一切関係ない南千住の歴史など。行けば心がさらに沈むと思っていたあの頃が情けなくなるほど、どうしようもない展示物だった。しかも室内は狭く暗い。せめて2階はあるだろうと思ったが、2階は倉庫で、一般開放されていたのは1階だけだった。入館料は100円だったが、これなら缶ジュースを買った方がマシだったかもしれない。貴文以外の客は、かろうじて地元の少年が一人いるだけだ。
「帰るか……」
なにか現状を変えるヒントが見つかると思っていたが、結局何も見つけられないまま閉館時間になった。
貴文は受付の老婆に軽く会釈して記念館を出る。
老婆に反応は無い。わずかに振動しているので、死んでいるわけではないだろう。もうお迎えの近い老婆とはいえ、記念館の従業員なら自分のことを知っているかと思ったが、結局何もなかった。
むしろ現役時代のトレードマークだった髭はばっさり切り、伊達眼鏡をしていたのにもかかわらず気付いた松之助の方が、変わり者だったかもしれない。
「さてどう……うわっ!?」
「あ、すみません!」
記念館を出た瞬間、先に入って見学していた少年が背後からぶつかってきた。
貴文は思わずその場に尻餅をつく。
それから少年は何回も謝って、どこかへ行った。
「これぐらいで倒れるなんて、俺も衰えたな……ん?」
立ち上がりかけたとき、ポケットに何か入っていることに気付く。取り出してみると、それはチラシを折りたたんだ物であった。
記念館に入る前にポケットのスマートホンで場所を確認したので、その時には確実になかった。そもそもそのチラシは記念館の広告なのだから、あるわけがない。
あの少年のものが入ってしまった……ようには思えない。ポケットのかなり奥の方に押し込まれていた。
不思議に思いながらも、とりあえずチラシを広げてみる。
『されど狼は狼』
「これは……!」
書かれていた言葉を見た瞬間、貴文は絶句する。
この言葉はザバリストなら誰もが知っている、あまりに有名なものだった。
出典は第三回ワールドカップ準々決勝、当時国策としてザバル強化に取り組み、躍進を遂げた中国と古豪ンパンパ連邦戦まで遡る。
その時ンパンパ連邦は過去2回の大会で『打点王』に輝いた『アフリカの黒き狼』、ブルーリー・ホワイトを怪我で欠いていた。事前情報では試合前日に手術を受けたと言われていたが、なんと当時の中国監督ジューバイヤー・ブラノビッチはその日の試合、明らかにホワイト対策と思われるフォーメーションを取ったのである。当然ホワイトは出場せず、試合は中国の完敗、そして試合後のインタビューでブラノビッチが記者団に言ったただ一つの言葉がそれであった。(もちんろん日本語ではなかったが)
「狼、か……」
当時の中国とンパンパ連邦の力はホワイト抜きでほぼ互角、ややンパンパ連邦有利という状況であった。順当なフォーメーションを組んでいたら、中国の勝率は40%といったところだったろう。だが、そのフォーメーションでホワイトに出場されたら勝率は1%にも満たなくなる。
それでも怪我をして、手術までしたと言われているのだから、そこまで警戒する必要はない。……ないが、そうしなければならないと思わせるほど、ホワイトの存在は大きかった。中国風に言えば、「死せる孔明生ける仲達を走らす」と言ったところか。
「俺が『アフリカの黒き狼』ほどの選手とは到底思えないけれど……」
行かないと分かっているのに、ここまで話を大きくし、多くの人間を動かしてしまった。自分が被害者と言えばそれまでだが、自分の方にもできると思わせてしまう何かがあったのかもしれない。
ちなみにホワイトの話には後日談があり、ホワイトはその選手生命の最晩年、周囲の反対を押し切り、薄給で当時低迷していた中国リーグへと移籍したのである。そして彼は言った「狼はここにいる」と。
彼は狼としての責任を果たしたのだ。
このチラシを誰がどんな目的で入れたのかは分からない。
だが貴文の心は決まった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
完全に日も暮れた振興学園夜の学長室。
2人の男が黙って向かい合う。
先に口を開いたのは福原学長であった。
「やるかね?」
「やります」
「……そうか」
福原学長が差し出した腕を貴文は強く握り返す。
その日、ザバル界に一匹の狼が帰ってきた――。
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