幽霊小噺

幽霊小噺




電気すらついていない、不気味なほど薄暗い玄関だった。

靴箱から溢れる高いヒールの靴。小さなスニーカーがひとつだけそこに埋もれていた。


「おとうさん、いかないで」

低い目線と、拙い言葉で父親を引き留める小さな手。

腕を精一杯伸ばして必死で足にすがり付くのを父親は苛立ちながら引き離す。汚いものを見る目で、こっちを睨み付けた。

「お前も誰の子かわかったもんじゃない」

言葉の意味は理解できなかっただろう。それでも子供は何かを察した様子で、その場にうずくまる。

がしゃん、と重く閉じられた鉄のドア。

母親の笑う声が聞こえた。





「そろそろ起きろ、キツネ」

「……あ、寝てた」

座布団が3枚列なる簡易布団から体を起こし、声をかけた張本人を見やる。無駄なイケメンが寝ぼけ眼であまり見えなかった。

「お前、今回はなんで子供なんだ」

「それがこの年にして麻薬の取引とかしちゃってるみたいなんだよね~暴力団の親分の息子」

「はー。人生詰んでんなぁ」

シュガーに指摘された自分の姿は、絵に描いたような不良少年だった。

人工的に赤く染められた髪、両耳に付けられたピアス、声変わりしたての低い声。そして幼さが残る綺麗な指先。

「しかし、生き物でもねぇのによく寝るよ」

「シュガーこそマスクするクセやめなよ」

「俺の喉は繊細なんだ」

ぼくらはみんないきている、じゃなくて、僕らはみんな生きていない。シュガーは死んでいるけどハニーには生死の概念すらあるかどうか。そんな僕らに花粉とか黄砂とか、害になるわけがない。

「そういえばシュガー、君は昔の夢を見る?」

「は?いや、幽霊になる前のことは全く。夢にも見ない」

なんでもないようにそう返すシュガーは、本当に何も知らないんだろう。僕が――君のすべてを奪ったことすら。





「御免、御免、くだサイ、客人、客人ダヨ」

家に響く、からんからんと鳴る下駄の音。それは本日一人目の客人の訪問を知らせるものだった。たまたま近くにいたシュガーが玄関に向かう。

「はいはいー、どなたー?」

引き戸を空けると、一本足に古い唐笠をかぶった妖怪が姿を現した。知名度もなかなか高い、あの傘小僧である。


「なんだ、キツネって言っても本物の化け狐じゃないのか」

そして、隣に立つ黒の学生服。手に握った赤い紐は傘小僧の足首にしっかりと繋がれている。どうやらこちら側の仲間というわけでもないらしい。

「いや、俺はキツネじゃねぇけど」

「へぇ!これまた珍しいお客サンだ」

「あ、こっちがキツネ」

横からひょっこり顔を出したキツネを指差せば、学生服の少年はそれを鼻で笑った。傘小僧の唐笠が怯えるように音を立てる。

「化け狐どころか子供じゃん」

「君も子供じゃないか、学生服くん」

ピリピリとした空気を漂わせる少年と対照的に、いつも通りの笑顔を崩さないキツネ。下手すると殴り合いの喧嘩を見ているときより緊張しそうだ。

「それより依頼しに来たんだけど」

「依頼?依頼に脅しはいらないんじゃないかな」

キツネが紐で繋がれた傘小僧に目を向ける。傘小僧が目で助けを訴えかけた途端、紐が強く引っ張られて前後にぐらりと揺れた。

「人聞きが悪いなァ。案内役を頼んだだけなのに」

「じゃあその子を放してあげて」

「先に依頼聞いてよ」

「お前なぁ…!」

一歩も譲らない少年にしびれを切らしたシュガーが動こうとすると、それを制したキツネが少年の目の前に立った。

「あのさ」

口元とは裏腹に笑っていない目が静かに細められる。一瞬にして凍りついた空気にシュガーは息を呑んだ。一触即発かと思いきや、途端にキツネは破顔して少年に近寄っていく。

「そんな状態で依頼は聞かないよ?」

「……わかったよ、放すって」

「謝罪もね」

「……チッ……悪かった」

傘小僧がその場から走り去ると、まるで何事もなかったかのようにキツネは客間へ入った。シュガーとハニーは不服ではあったが、キツネの決め事には従うほかない。


「どうぞ」

小さな音を立てて、湯呑みが机に置かれた。ハニーは警戒心が抜けていないらしく、お茶を出しても少年の隣から離れようとはしない。

「ハニー、こっちおいで」

「……はい」

キツネに言われ、しぶしぶといった様子でハニーがキツネの隣に座る。少年は物珍しそうにそこら中を見渡して、思い出したように口を開いた。

「そうそう、この男なんだけど」

少年がポケットから出した一枚の写真。そこには楽しそうに笑う男女が写っている。

「殺してほしいんだ」



驚いて声も出なかった。

キツネたちは基本気が向けば何でもやるが、殺しは絶対にしない。それはこの少年も知っていてここに来たはずなのに、なおも殺してくれと頼むという。

「俺たちは殺しはしない。わかってるだろ?」

「現実の殺し屋に会うより俺にはこっちが確率高いし、完全犯罪にもなる」

少年は端正なその顔の眉ひとつも動かさず言ってみせた。ハニーとシュガーの顔が思わず引きつる。

もちろんキツネは断るだろうと思っていたのだが。

「考えてみよう」

「はぁ?何言ってんだよ!」

「ちょっとキツネどうしちゃったのよ!!」

慌てふためくシュガーとハニーを置き去りに、キツネは話を進める。

「でも最終的にどうするかは僕らが決めるよ。その対価もね」

「結局殺しはしない、ってわけ?」

「君は人間としての節度を持ったほうがいい」

――シュガーみたいな結末を迎える前に。

口走りそうになったのを飲み込んで、キツネは少年の手を取る。シュガーが自分のことでもないのに顔を歪めてその様子を見ていた。

「は?」

「仲良しジャンプ」

にやりと笑ったキツネと目が合う。その瞬間、吸い込まれるような感覚が少年を襲った。ねじれた体が元に戻った、その時。少年はさっき登っていったはずの山の入り口に立っていた。

幻術などではない、キツネの仕業である。

「……くそッ!追い出された!」

側にあった木を蹴りつけた少年は恨めしげに山の奥を睨み付け、街へと踵を返した。




「さっきの子、本当に人間だったんだな」

シュガーがぽつりと呟いた。

幼い子供はよく幽霊や妖怪を視ることができる。しかしあの少年は本質的に“視える”人間――比較的こちら側に近い人間だ。

「むしろ人間じゃなきゃとっくに呪い殺してるでしょうね」と苛立ちを隠せない様子のハニー。依頼を引き受けそうな勢いだったキツネは少年と一緒に消えたまま、家には戻っていない。

「殺したいほどの理由って何なんだろ」

「あら?殺された側からしてもわからない?」

「だから覚えてねぇって言ってんじゃん!!」

シュガーはいつもの調子に戻ったハニーに安堵したものの、漠然とした胸騒ぎが収まることはなかった。




「こんにちわ、姐さん」

「……あての仲間の嫁入りかい?」

「天気雨にでもなるのかってはっきり言ってよ」

姐さんはいつも僕をからかいながら社を出てくるのに、今日は静かに階段に腰かけていた。艶かしい唇でふかした煙管から白い流線が漂う。

「同情でもしたかえ?人間様相手に」

「……そうかも」

「はぁ、そない珍しいこともあるもんやな」

僕が横に座ると、姐さんは煙管を御付きの妖狐に渡した。燻らせた薫りがいまだに残っている。

「どうして人は人を殺すんだろう」

「さぁなぁ、あても人やないからねぇ」

「だよねぇ」

殺してほしいと頼まれたにも関わらず断れなかったのは、きっと夢を見たからだ。依頼主の少年みたいに、寂しくて、素直になれなくて、ひとりぼっちの夢を見たから。





「えー佐東くんもう帰っちゃうのぉ?」

「今夜遊んでほしかったのになぁ」

甘ったるい声で絡んでくる女の腕をやんわり避けて、財布から数枚の札をテーブルに置く。

「ごめんって。でも明日の用事は酒臭いとダメなんだ」

「佐東は女遊びひどいくせに大学はちゃんと行ってるもんなー」男友達がケラケラとからかうように笑う。

明日は赤点必至のやつを連れて口うるさい教授の機嫌取りに行かなきゃならない。優等生気取るのもいい加減疲れる。

「俺だって大学ではいい子してるんだから」

「そうやってまた女の子ひっかけるんでしょ」

「人聞きが悪いなぁ」俺はひっかける気なんて更々ない。あっちが勝手に寄ってくるだけだ。

「ねぇ今日がだめなら明日デートしよ?」

どうせ授業が終われば暇。家にも帰りたくないし遊んだほうがましか。 「んー……夕方からだったらいいよ」

「ほんと!やったぁ」

きゃっきゃとはしゃぐ女を一瞥して店を出る。ふと足下を見て、自分の身に付けているものが女からのプレゼントばかりだったことに驚いた。そういやここ数年、自分の服なんて買ってない。

「――あ」明日デートする子、名前なんだっけ。



おそるおそる鍵を開けてドアノブを捻る。きぃ、と耳障りな音を立てた先には人の気配はなく、真っ暗な廊下があるだけだ。

照明のスイッチを押すと、切れかけの蛍光灯が点滅しながら部屋を照らす。置時計の時刻はすでに0時を回っていた。

風呂をシャワーだけで済ませて、ベッドの端に腰かける。母親のいない家を寂しいと感じてしまう自分に腹がたった。あんなやつ、いっそ死んでしまえと思うのに。帰ってくるなと思うのに。希望を抱いたまま、ずるずると生きてきた。

「ただいまぁ」

扉が閉まる音と、耳にまとわりつく甘ったるい声。珍しく男連れじゃないらしく、怒ったように足音を立てながら俺の前まで来る。

「今日はね、奥さんに早く帰ってこいって言われて帰っちゃったのよ?ひどくない?」

言わずもがな、俺の母親は男を取っ替え引っ替えしながら浮気を繰り返していた。妻子持ちやどっかの社長なんて博打みたいな男ばっかり選んで。

「ひどくないと思うよ。どうせ遊びでしょ」

「遊び?へぇ~遊びでこんなに儲かるんだぁ」

母親が手に持った有名ブランドのバックをまじまじと見つめる。酒と香水のにおいが鼻をついた。

「さっさと風呂入ってきて」

「一緒に入ってくれる?」

酒のにおいが混ざった吐息が耳にかかる。嫌悪の対象以外の何物でもない。

「入らねぇよ」

「なんで?お母さんじゃ不満?」

首に回された細い腕でさえ、振りほどけない自分が情けなかった。ルージュののった唇が首筋を伝って、リップ音とともに離れる。恍惚の表情でこちらを見るのは、母親ではなく女の顔だ。

「母親はこんなことしない」

「だめ?せっかく今夜のお相手してあげようと思ったのに」

肩に体重をかけられて、ベッドに体が沈む。弱々しい俺の気持ちを代弁するみたいに軋んだスプリングの音が静かな部屋に響く。

「どう、その気になった?」

「……息子を馬鹿にして楽しいか」

「馬鹿になんてしてないわ。だって、あの人に似た顔だけは私の好みだもの」

そんなの、俺が一番わかってる。

毎朝、洗面台の鏡に映る顔が。街中を歩いて、ショーウィンドウのガラスに映る自分の顔が。女がかっこいいと持て囃すこの顔が――俺を捨てたあの男にそっくりなことくらい。

歳を追うごとに父親に似ていく顔を、どれだけ憎んだことか。どれだけ怯えて生きてきたことか。

母さんは何も知らないんだろうな。






「突然ですが!あの少年の依頼を受けようと思います!」

「なんでそうなった!?」

居間に現れたキツネの宣言にシュガーは思わずツッコミを入れた。仲良しジャンプから急にいなくなって一時間は経っている。その間に何があったかなど、シュガーとハニーは知るよしもない。

「さすがに殺す……まではいかないけど、退治まではしちゃいます!」

「退治……人間を?」

「ハニー、いい質問だね」

キツネは少年から預かった写真を取り出し、女性を指差した。

「まず、この女性は新島今日子。依頼主である少年、新島夕希くんの母親だ」

柔らかな笑みを浮かべる女性は少年に面影がある。つんけんしている今は似ていない部分も、丸くなれば見えてくるのだろう。

「じゃあ隣は父親か?」

「いや、父親は8年前に他界してた。こっちは上木雅俊、新島今日子の恋人」

「たった一人の親に恋人ができて殺したいほど憎いわけか」

キツネは頷いて、首を傾げて、唸って、やっと口にした。

「まぁ簡単に言えばそうだけど」

「まだ何かあるのね」

「上木雅俊って偽名なんだよ」

もしや結婚詐欺とか、お金を貢がせているとか、その手の犯罪者かと考えたシュガーは次の言葉に驚愕することになる。

「これの正体は――吸血鬼だ」

「吸血鬼ぃ!?」

吸血鬼――名の通り、人の血を吸い生気を喰らうと伝説のヴァンパイア。よく知られる弱点は日光、十字架、ニンニクなどである。

「僕も見るのは初めて」

「なんでそんな星5つレベルが日本で恋人作ってんの!?」

「馬っ鹿だなぁ食べるために決まってるじゃん」

「あっそうか……そうなのか!?」

たくさんの情報が一気に入って混乱してきたシュガー。それをハニーは鼻で笑った。

「あなた頭大丈夫?最近輪をかけて馬鹿だけど」

「まだこの世界についてけねぇの!!」


どこかから取り出した大きな袋を抱えて、キツネは満面の笑みを浮かべる。まるでイタズラを企む子供のように。

「不老不死の吸血鬼ということで殺すのはなかなか無茶ありますが、がんばりましょー!」

嫌な予感がする。シュガーは朝とは違う不安に眉を潜めたのだった。






「佐東くん」

眉を潜めた仏頂面で、不快感を隠そうともせず俺の名を呼んだ女性。

「はい?」

俺にだって、どうしても仲良くなれない人がいた。

「その気味の悪い笑顔はやめなさい」

女の子なら誰でも落ちるキラースマイル、とまで友人に命名された俺の笑顔はその人に一切効かない。それだけならまだしも、いちいち文句まで言ってくる。

「気味が悪い、ですか」

余計なお世話だ、能面女が。たぶん心の中で悪態を吐いたために笑顔は引きつった。

「そう。媚びへつらうとは君のためにあるような言葉ね」

「そこまで言わなくてもいいじゃないですか、宮沢先輩」

医学部2年の宮沢先輩。長い黒髪を左耳の下あたりで三つ編みにしている。言わずもがな秀才。通称は教授ちゃん。そこらの教授より教授らしい性格にそのニックネームが付いたそうだ。

「……本当にやめてほしいわ」

「諦めてくださいよ、教授先輩」

教授から頼まれた資料を渡して、さっさとその場から離れる。嫌なら嫌で距離を取ってくれればいいのに、わざわざ会話する宮沢先輩の気が知れなかった。



今日は何も予定がない。それだけで罪悪感にも似た感情が目の前を真っ暗にした。

図書館は休館日だし、行きつけのカフェは満席だし、終いには雨が降り始めた。シャツに点々と染みをつける大粒の雫に舌打ちして、家路につくことを決めた。

どうせこんな夕方に母親は家にいない。麻痺しきった感覚じゃ、それが嬉しいのか悲しいのかもわからなかった。


降り込んだ雨で濡れた階段、薄暗いマンションの廊下。頼りない僅かな灯りに蛾が集まっている。

「……なに、してんの」

どういう心境の変化か、玄関の前には母親が立っていた。

「優護おかえり。こんなにずぶ濡れになっちゃってもう……ほら早く入って」

いつにもなく“お母さん”を演出する母親に反吐が出る。また金をくれとか言うんだろう。父親から送られる大学卒業までの学費は俺が貰ってる。どうせそれが目当てだ。

「体冷えてるよね?お風呂入ってきたら?」

聞き流していた雑音みたいな声の中に、聞きなれた音が混じった。

「…………おい、今、鍵かけただろ」

「鍵くらいかけるでしょ」

あっけらかんと言ってのける母親。自分が家の鍵なんて閉めることがないのを気づいてないらしい。

「何考えてんの」

「何って……」

母親の目が泳ぐ。ちらりと視線が向いた先、リビングには数人の男がいた。全員普通じゃない。素人目にもわかる。

「あんた、ヤクザにまで手出したのか」

「だって、いろいろ買ってくれたし」

「挙げ句に浮気がバレて、今まで貢いでやった金返せとか言われたんだろ!」

逃げなきゃまずい、背中を冷や汗が伝う。俺たちの言い争う声に男が立ちあがった。

「でも優護、お母さんのこと助けてくれるでしょ!?」

「ふざけるな!!」

母親に手をあげたのは、初めてだった。それでも押し退けたくらいだったけど、母さんはひどく悲しそうな顔をして俺を見ていた。

俺が玄関を飛び出てすぐに、逃げたぞ、ふざけんなクズ女、言うこと聞くんじゃねえのか、そんな罵詈雑言が扉の隙間から廊下に響いた。滑りそうな足元をどうにか踏ん張って、声から逃れるように必死に雨の中を走る。追ってこないとわかっても、しばらくは足を止められなかった。

三十分くらいは走り続けただろうか。偶然見かけた公園のベンチに腰を下ろす。大雨の公園には人どころか、鳥一羽すら見当たらない。

あのまま捕まっていたら、俺はどうなってたんだろうか。借金取りに規制はあったって、裏切られた女に使った金なんて完全な私情だ。通知も見ないでスマホの電源を切る。母親が今どうなっているのか、考えるのも怖かった。

足を折り曲げて、膝上に組んだ腕に頭を埋める。夏の終わりの雨は縮こまっても寒いままだ。


「水も滴るいい男、実践でもしてるの?」

突然の声にびくりとして、上を見る。オレンジ色の傘に暗い空と雨粒は遮られて、代わりに女の子の驚いた顔が目に入った。

「宮沢、先輩」

「君、いつもの笑顔はどうしたの」

「俺がいつ笑いましたか」

脈絡のない自暴自棄な台詞に先輩は溜め息を吐く。そうだ、そうやって、見なかったふりをしてくれればいい。

「理由」

「え……」

「言ったら拾ってあげる」

「拾うって」

「私は神様でも仏様でもないから、理由も聞かずに家に連れて帰ってあげたりしない」

そう言って微笑んだ宮沢先輩。教授ちゃん、と呼ばれる意味が少しだけわかった気がする。

「母親に売られました」

「そう」

「はい」

「じゃあ私が買う」

「なんで買うんですか」

「ひとまず――夜ご飯で」

先輩は右手に持った買い物袋を持ち上げて、俺を見た。「なんでって、そういうことじゃないですよ」

意外と天然なのかなぁ。俺の体から自然と強ばりがなくなって、先輩の傘と買い物袋を取り上げた。

「……顔ちっちゃいから、身長もそんなに高くないと思ってた」

「俺これでも男ですから」

下から見上げてくる先輩はいつもの冷たい感じじゃなくて、女の子らしい表情をしている。

「……学祭で女装してみる?」

「嫌です!」

そしてちょっと、茶目っ気がある。



夕食はオムライスだった。少しのっぺりした卵とケチャップライス。久しぶりに食べる手作りの味だ。

「おいしいです」

「でしょ」

先輩は満足げな様子でオムライスの乗ったスプーンを口に運ぶ。俺もそれに倣ってオムライスを頬張った。

「服、それでよかった?」

「はい。何から何まですみません」

びしょ濡れだった服は洗濯してもらって、服もろもろは先輩から借りていた。まさか先輩に男がいたとはと勘繰ったが、単身赴任で海外にいるお父さんの予備らしい。

「一人暮らしの実家に男入れちゃって大丈夫なんですか」

「君が間違いを起こそうものなら包丁は準備してあります。いつでもかかってきなさい」

「遠慮しときます」

真顔で先輩が言うから、冗談なのか本気なのか判別がつかない。でも不器用なりに、俺の気を逸らそうとしてくれてるのがわかった。

「あと大学の外で敬語はいらない」

「いらないんですか」

「好きじゃない」

「先輩って案外言うこと横暴ですね」

「今の発言はいろいろ好きじゃない」

ムッとする先輩の顔が面白くて吹き出すと、さらにムッとされた。想像してたより、ずっと表情豊かな人だ。



「いや!それはさすがにダメです!」

「敬語」

「あ、ごめん……ってそういうことじゃねーよっ!」

なぜ俺がこんなに肩で息をしながら声を荒げているかというと、先輩が原因である。

「良いノリツッコミだ。おいで」

「おいでじゃねーよ!」

先輩は既にベットに潜り込んで、俺に手招きしていた。意図はわかりかねるが『襲おうものなら包丁で刺す』と遠回しに脅した人のとる行動じゃない。

「いったい何考えて……」

「甘えていいよ」

「えっ、うわっ」

不意に聞こえた柔らかい声に力が抜けた。今だとばかりに俺の手が力ずくで引っ張られる。反射で手と膝はついたものの、これじゃあまるで襲ってるみたいだ。

「あの、先輩」

「……ずっと思ってたの。佐東くんは無理やり笑ってばかりで、誰も信用しないのはなんでだろうって」

先輩が壊れ物に触るように俺を抱きしめる。俺が冗談で抱きしめる女の子みたいな化粧のにおいも香水のにおいもしなくて、ただ俺と同じシャンプーの匂いがした。

「裏切られても傷付かない距離を保って、みんなに嫌われないように神経尖らせて。だけど本当は、もっと大切にしてほしかったんだよね」

「そんな……綺麗な生き方、してない」

自分だけは傷付かないようにしてきた。いつだって最悪のパターンを想像して、ああなんだやっぱり、って期待なんかしないようにしてきた。

辛い現実から目を反らして。母親の見つからない長所ばっかあら探しして。それの犠牲になる女の子に目もくれず、涙も見ないふりをして。父に捨てられたあの日から、俺は俺だけのために生きてきた。

「お母さんに、頭撫でられながら寝たことある?」

「……ないよ」

先輩の肩に顔を押し付けて、俺ほだされてんなぁって情けなくなる。小さい腕の中が離れがたいほど心地よかった。

「すごく幸せでね、よく眠れるの。だから今日だけ、お母さんしてあげる」

「……先輩が、お母さんって、あはは」

大人しくセミダブルのベットに潜り込んで、仕返しだと先輩に抱き付く。邪な気持ちが湧かないほど今の俺は子供だ。

「あーもう……かなしいよー。おかあさん」

ふざけて口にしたはずなのに、鼻の奥がつんとして熱い。おかあさん、最後にそう呼んだのはいつだろう。



「優護くん、朝ご飯できたよ」

「……はぁーい…………ん!?」

寝ぼけて無意識に返事をしたが、ここが自分の家でも、遊び友達の家でもないことに気づいて飛び起きた。寝室に顔を覗かせる先輩は首を傾げる。

「ぐっすり寝てたから……もしかして用事とかあった?」

「そうじゃない、けど」

掛け時計を見ると針は9時を指していた。あのまま本当に寝ただけとは、実感がなかった。

「あ、名前?……一夜を共にした仲だからいいかなって」

「誤解を招く発言だな!?」

「じゃあ一緒に寝た仲だから」

「悪化してるから!!」

なんか昨日もこんな会話したあとに言いくるめられた気がする……俺は頭を抱えた。作り上げてきたイケメンキャラが崩れている気がしてならない。

「私も名前でいいよ」

「宮沢先輩……名前なんていうの?」

先輩が友達といるところはたくさん見るけど、名前は聞いた覚えがなかった。

「鈴蘭。宮沢鈴蘭」

「すずらん!?先輩が!?」

驚きやら笑いやらが混ざって先輩を指差すと、先輩はぴっと台所の方へ指を向ける。

「ちょうど料理終わったから包丁あるけど」

「すいませんなんでもないです鈴蘭さん」

その日から、俺は先輩の家に居候することになった。




とある後輩を、犬に例えたとしよう。

「鈴蘭せーんぱいっ」

まず走り寄ってくる。

「なに優護くん」

「オムライス食べたいです」

そして尻尾を振って甘えてくる。

「今日は肉じゃが」

「えっ……肉じゃがおいしいからいっか……」

耳と尻尾が垂れ下がってちょっと悲しそう。

「オムライスは明日ね」

「やった!」

そしてまた尻尾を振って楽しそうに去っていく。


「……ねぇ教授」

隣にいた友達が恐る恐るといった風に私の肩を叩いた。

「なに?」

「あれ、カッコいいって有名な佐東くんだよね」

「有名かどうかは知らないけど佐東優護」

私が後ろ姿を指さしながら友達に言う。友達はその場で頭を抱えて、呻くように口にした。

「どうしよう……私……佐東くんがラブラドールレトリバーに見えてきた……」

「奇遇だね、私も見える」





シュガーは豆の入った枡を見ながら頭を抱えた。

「これは、どういうことですか。リーダー」

「豆まきです。シュガーくん」

キツネとシュガーは依頼主の家に忍び込み、リビングにて男を待ち構えていた。

「だからなんで豆まきだよ?!」

「吸血鬼といえど鬼だからね!」

ぐっとガッツポーズをしてみせるキツネに枡を突き出して訴える。

「もっと太陽とか十字架とかあるじゃん!かっこよさげなのが!」

「太陽と十字架は半数の吸血鬼が克服したんだって」

「初耳にも程があるわ!!」

まさか依頼達成のために豆まきをすることになるとは思わなかった。拍子抜けしたシュガーはソファーに座って豆を意味なく観察する。見れば見るほどただの豆だ。

サトリ姐さんによれば男は合鍵を持っていて毎日のように家を訪れており、ハニーによればあと数分で家に着く。依頼主と母親の帰宅にはまだ一時間ほど猶予が残されている。それまでに吸血鬼をどうにかしなければならない。

「あ、来たみたい」

廊下を歩く足音。リビングに近付いてくる。

「準備はいい?」

「やればいいんだろ、やれば」

リビングの扉が開いて、男が部屋に入った。それを目視したキツネが豆を投げつける。

「鬼は外ー!」

「福は内ぃー」

「シュガーもっと気持ち込めて」

「うっせぇな熱血か!」

ところ構わず豆をぶつけ続ける。男に動きはない。本当に豆が必要なのか、シュガーが疑問を口にしようとした瞬間。

「ぎゃあああああああああ豆ぇえええええ」

「えっ、まじで?効くの?」

急に逃げるでもなく床に座り込んだ男。必死に床を見回している。

「ああっ、豆が、小さな豆粒が!!いち、に、さん、し……」

「シュガーそこの豆潰して!」

キツネに言われて、シュガーは考える間もなくそこらにあった豆を踏む。乾いた音と共にそこに残ったのは豆の残骸だ。

「ぎゃああああ今何個だったっけ!?!?三つ、いやもっと潰されたから、ええと……ああもう最初からだ!!」

「なにこの神経質な吸血鬼!?」

「実は吸血鬼には『小さな粒を見ると数えなければ気が済まない』という習性があるんだ!」

「ショボ!!ナメクジに塩かけてる気持ちだよ!!」

事態は混乱を極め、必死に豆を数える男とそれに豆を投げつけ続ける男とそれにじりじりと近寄る少年の図が出来上がった。

「もう豆なくなるんだけど!」

「おっけー!シュガーもこっち来て」

キツネがシュガーの手を引っ張る。そのまま男の手を引っ掴んでキツネが声をあげた。

「仲良しジャンプ」




「うっええええきっもちわるぅう……やだもう……転職したい……」

「悪霊にでも転職する?」

呆れ顔のハニーがシュガーを見下ろす。田舎の古民家へ一緒に仲良しジャンプさせられた男は状況が呑み込めていないのか、おろおろと辺りを忙しなく見やった。

「あ、あんたたち何なの!?ジャパニーズ妖怪!?ゴースト!?」

「妖怪も幽霊もいるけどね」

キツネが畳に座ってケラケラと笑う。服のポケットから豆がいくつかこぼれ落ちた。

「つーか…………おネエ?」

「悪かったわねおネエで!!」

「あっさり認めるのね」

男はキツネたちが人間でないと気づくと、態度を豹変させて本来の姿に戻った。マントを翻して床に座り込む。

「ええと……吸血鬼さん?あの人を狙った理由は?」

「それ!サトリ姐さんも教えてくれなかった」

キツネとシュガーが吸血鬼の顔を覗き込む。吸血鬼は頬を染めてもじもじと喋った。

「……好みの男の子の……血が欲しくて」


居間を沈黙が支配する。キツネは笑顔のまま硬直し、シュガーは目を見開き、あのハニーでさえ苦虫を噛んだような顔で後退りした。

「はぁ!?じゃあ息子が目当て!?」

「夕希くんに近付くためにお母さんの恋人にねぇ……」

キツネが遠い目で窓の外を眺める。ハニーが慌てて肩を揺さぶっていた。

「殺す気なんてないの……しょうがないじゃない!いくら美男に化けられるったって好みの子は引っ掛けられないもの!」

「そりゃ男同士だからね……」

シュガーは吸血鬼からゆっくりと離れる。死んでいるためもちろん血も通っていないが、想像しただけで鳥肌がたった。

「海外でやりなさい。日本はまだそういうのに閉鎖的よ」

「だって……!なよやかでほっそりした日本の美少年がタイプなのよ!黒髪黒目じゃなきゃ嫌!」

「めんどくせぇこだわりだな……」

吸血鬼を殺そうとした夕希は、図らずとも自分の身を守ったことになる。シュガーは同じ男として心底ほっとした。

「いや、でも、もうやめよ。夕希くん嫌がってるみたいだから」

復活したキツネが吸血鬼に言い聞かせる。とりあえず自分が赤髪であることに安心したらしい。

「……わかった……夕希くんは諦めるわ」

「うんうん、良かった良かった」

キツネが笑顔で頷くが、吸血鬼の次の言葉で再び固まることになる。

「そうよ……まだ寿命までは程遠いもの!きっと私を受け入れてくれる美少年に出会えるはず!」

「えっ……?」

「ありがと!私がんばるわ!!」

うじうじしていた吸血鬼はどこへ行ったのやら、予想だにしないポジティブシンキングでその場から消えた。

「……僕、もう吸血鬼には会いたくない」

「弱点あっても、結局は最強だったよ……」

ハニーが吸血鬼の座っていた場所をはたきで叩く。

「あんなのとは関わりたくない」





「あの子とは一生関わりたくないなぁ……」

「そんな女の子、本当にいるものなのね」

街がすっかり寒くなって雪がちらほらと降り始めた頃、前のケータイが壊れて女の子の連絡先がごっそり減った。既に電話番号は変えていたけど、新しいケータイには先輩とバイト先と数人の友人の連絡先しか入っていない。

ショップに寄った帰り、女の子には悪いことしたな、なんてうっかり口を滑らせたばっかりに、先輩が女遍歴を聞きたいと言い出した。

「二、三回しか会ってないし、あんまり喋らなかったんだ。なのに毎日電話かかってくるし」

その頃の着信履歴を思い出すだけで顔が青ざめる。ちょっとしたきっかけを与えただけで何か事を起こしそうで、普通とはいえない子だった。

「今はどうしてるの?」

「ある日ぱったり電話がなくなったから……わかんない」

「優護くん……」

先輩は口元に指をあてて、考え込む仕草をする。何事かと続きを待ったが。

「いつか刺されちゃいそう」

「勿体ぶって物騒なこと言うな!」

「だってそんなに女の子弄んでたのに、今となっては私の後ろを飼い犬みたいに付いてきてるのがおかしくて」

「なんだよ!悪いかよ!」

先輩と一緒にいるようになって、ずいぶん口が悪くなった。それにはっとしては口調を直すけれど、先輩はボロが出てるみたいで好きだという。最初から思ってはいたけど、変わった人だ。

「そんなラブラドール優護くんがいま幸せなら、今日はごちそうにしましょう」

「どういう流れ?」

「書類上のお誕生日なので」

「……個人情報ですよ」

この間の大学に提出した書類。そこには生年月日も書いたけど、まさか先輩が見ていたとは思わなかった。


「優護くんは……きっとお母さんもお父さんも嫌いだろうけど、私は優護くんの両親に感謝してるよ。両親を見てきたからこそ君は優しくなれて、お母さんが息子を売ったから私は君に会えた」

先輩の指先が、俺の手に触れる。

「生まれてきてくれて、ありがとう」

恥ずかしいやら泣きそうやらで真っ赤になっているだろう顔を隠すようにうつむきながら、あ、とかう、とか言葉にならない声を洩らす。手に触れた指先を握りしめて、精一杯の気持ちを口にした。

「鈴蘭――生まれてきてくれて、俺に出会ってくれて、俺を拾ってくれて、ありがとう。すごく、しあわせです」

おそるおそる先輩を見ると、まだ不満げに口を尖らせている。

「大好きです、は無いの?」

「~っ!……だいすきです」

「よろしい」

にっこりと笑う先輩にまた頬が熱くなって、慌てて顔を反らす。離れた指先が、少し寂しかった。

「両手じゃ歩けないから」

ひんやりした先輩の小さな手が俺の手に重ねられる。どぎまぎしながらそれを握り返した。

女の子と遊んでたときはどうやって手を繋いでたんだろう。ちょっと前まで平気でやってた俺はどこに行った。

「……ごちそう」

「うん。まずメインはオムライスね」

「…………ごちそう?」

「好きなものが一番のごちそうだよ」

「それは……そうかも」

「でしょ」

いつになっても先輩には言いくるめられてばかりだ。クスクス笑う先輩に釣られて俺も笑う。血反吐が出る思いで生き延びた今までが嘘みたいだった。


「佐東くん!!」

後ろから名前を呼ばれて、振り返る。そこにいたのは一番見たくない顔だった。

「誰?」

「あ、先輩は先に行っててください」

「……うん」

急に敬語を使った俺に先輩は訝しむ視線を向けたものの、帰り道を急いでくれた。いくらか離れたところで前の女の子に目をやる。

「電話繋がらないから心配したんだよ?」

「ああ……ごめん、前のケータイ壊しちゃって」

「しばらく家に帰ってないみたいだったし、本当によかった」

「…………なんで知ってる?」

ぞくりと、背筋が凍る。電話がなくなってから接触はなかった。俺が家出したことは友達にも言ってない。


「ヤクザに追われてるんだってね」

逃げきった気になっていた。俺は自由になれたんだと勘違いしていた。

「あいつらの手伝いでもしてるのか」

「あの人たち、いろいろ教えてくれたよ。お母さんが佐東くんを男娼にするつもりだったとか、遊んでた女の子の家に行かなかったから行方が掴めなかったとか、今は先輩の家に転がりこんでるとか」

あの日の恐怖が蘇る。どこまでも追ってくる人影。怒鳴り声。母親が俺にすがる声。

「勿体ないなぁ、男娼になったら私が毎日買ってあげるのに…………あ、そうだ、先輩のことも知ってるよ?

医学部2年の宮沢鈴蘭さん。母親は小さいころに他界、父親は海外赴任で一人暮らし」

「やめろ、先輩には手を出すな」

一気に距離を詰められて、俺が彼女を見下ろすことになった。こちらを見上げる目に狂気がちらつく。

「鈴蘭の名前はあんなに大切そうに呼ぶのに、私の名前なんてもう忘れちゃった?

許してほしい?命乞いする?でも許さない。許してあげない。絶対に許さない。

佐東くんなんか、死んじゃえ」

腹部が強烈な熱と痛みに襲われて、その場にうずくまる。コンクリートの地面に薄く積もった雪が赤に染まった。

「殺してあげる。あの女も、殺してやる」

「……やめ……」

声の代わりに溢れるのは赤い血ばかりで、どんどん意識が遠退いていく。

だめだ、まだ死ねない。


医学部に入ったのは、夢があった。本当に医者になりたかった。だからちゃんと大学に通った。親なんか大嫌いだったけど、この名前は好きだった。優護。優しく護るってことだろ。違ってもいい。この名前をつけてくれたことだけには感謝してる。

先輩の作るごちそうも食べてない。メインはオムライスで、たぶんスープがあって、いつもよりいいお肉があって、デザートを用意してくれる。電気消してふざけてローソク立てたりして、だから、まだ。


「後悔してるんだね」

俺とまったく同じ顔が、俺に言った。

「どこからやり直したいのかもわかんねぇくらい後悔してる」

あれだけ出なかった声が、不思議と出た。

「今、一番望むことはなに?」

「先輩を助けたい」

きっとあいつは言った通り、先輩を殺しに行く。助けたいなんて、俺のせいで殺されかかってんのにとは思うけど。

「……方法はあるよ」

「どうすればいい」

知らない俺が泣きそうな顔で、俺の心臓を指差した。

「僕が君を食べる。君という存在を。

そうすれば彼女が先輩を殺すこともない。君が生まれることもなければ、女の子を傷付けることもなく、先輩に出会うこともない。

君が遺した先輩を想って苦しむこともなければ――

先輩が、死にゆく君を思い出して悲しむこともない」

ぜんぶ無くなるってことだ。悲しそうな俺が言う。

「立派なハッピーエンドだよ」

「最期まで強がるね」

知らない俺が叩いた胸元から、ころころと金平糖が溢れた。それを一粒一粒、食べていく。

「…………ごめん」

最後の一粒が、ぱきりと音を立てた。

「僕のせいで、君はもうどこにも行けない」






「あ!夕希くん~」

キツネとシュガーは吸血鬼が去ったあと、依頼主である新島夕希のもとを訪れた。妖怪や幽霊なら古民家まで出向く余裕もあるが、何せ相手はただの人間だ。

「げっ」

「『げっ』はないだろ。貞……命の恩人に向かって」

慌てて言い直したシュガーが咳払いで誤魔化す。

「てい……?」

「ああああその件はどうでもいい!とにかく、君の依頼について話がしたい!」

首を傾げる少年を遮って、キツネが大袈裟に声をあげた。

「お前が殺そうとした男、吸血鬼だったんだよ」

シュガーがこめかみに手を当てながら、事の次第を話す。本当の目的が少年だったことは伏せて。

「……は!?」

「だから君の家族に関わらないことだけは約束させた」

それが本当にキツネ達の成果なのか、甚だ疑問ではあるが。今後あの吸血鬼が少年に近づくことはないだろう。

「……依頼料は?」

キツネが小さなビンから取り出した金平糖を噛む。

「君のお母さんの吸血鬼に関する記憶。そして――」

少年が息を呑む。人間でないものに事を任せてしまったからには、依頼料が何であろうと覚悟はしていた。

「家に散らかしてきた豆の掃除」

「……豆?」

「あれか……」

シュガーが今まで忘れていた惨事を頭に浮かべる。リビングいっぱいに散らばった豆と、潰れた粉々の豆。あれを片付けるのは骨が折れそうだ。

「君の記憶やその力も食べようかと思ったけど……やめるよ。それはこれから君が大切な人を守っていくために使うんだ。何かあったら、また僕らを頼るといい」

にっこり笑ったキツネがシュガーの手を掴む。シュガーの歪んだ顔が少年に見えたのは一瞬で、それはすぐに消えた。

「キツネさん……」

そしてキツネの名前を呼びながら目を輝かせた少年も、シュガーは見てなどいなかった。




「あちゃー。やっぱり成仏できなかったか」

倒れている俺を上から覗き込む猫。それが俺にある最初の記憶だ。なんとなく自分は死んだってことと、名前だけは覚えていた。

「君は生前、女遊びを繰り返した結果ここで女に刺し殺されちゃったんだ」

「それで成仏できなかったのか」

「浮遊霊の出来上がりだね」

言われてみれば体は風船みたいに軽くて、気を抜けば宙に浮きそうだ。しゃべる猫はお手をして――いや、手を差し出して?

「よかったら僕のとこに来ない?僕はキツネ!」

「いやお前、猫だけど」

事実を簡潔に述べると、憤慨だと猫の尻尾が地面を叩いた。

「キツネが街の中に普通にいたらおかしいでしょ!人が何もないところに話しかけてもおかしいでしょ!一番便利な猫に化けてるの!」

「ああ……」

どうもハイテンションな猫についていけない。自らをキツネと名乗るのだから、化け狐の妖怪だろうか。

どのみち行くあてなんかないから、猫の手も借りたい気持ちでキツネの手を取った。

「君、名前は?」

「佐東です」

「佐東くん、さとうくん、さとう……シュガーだね!」

「なんでだ!!」

かくして俺は、シュガーの呼び名が付いたのである。




「ご苦労やねぇシュガー」

「どうも姐さん。またお世話になりました」

姐さん恒例の地酒。今度のものはなかなか手に入らない一品らしく、俺の顔を見た瞬間から姐さんは楽しげだ。

「ど?おもろかった?吸血鬼」

「めんどくさかったですよ……」

キツネに吸血鬼の目的を話さなかったというサトリ姐さん。そこには何の意図があったわけでもなく、純粋に楽しんでいたようだ。

「キツネ、他にも能力あったんですね」

キツネが食べていた金平糖。後から聞くと、あれは新島今日子の記憶だったらしい。

「悪食ゆうやつやね」

「あくじき?」

「要するに何でも食べるんよ。記憶でも魂でもなんでもね」

ちらりと覗く、俺の知らないキツネ。何事も知らないことばかりで、俺は幽霊側と妖怪側どっち付かずをさ迷っている。思い残しもない自分がここに存在していることも、ときどき不思議に思う。

「それ、俺が記憶ないのと関係ありますか」

意を決して訊ねた言葉に、姐さんは艶やかに笑った。

「ふふふ、どやろなぁ。

――お、騒がしいんが二匹」

「二匹?」

俺の身近にいる騒がしいのといえばキツネだけど、もう一匹が思い付かない。

「助けてシュガー!姐さん!この子しつこい!!」

だだだと音が付きそうな勢いで走ってきたのはキツネと――「キツネさん!!弟子入りさせてください!!」新島夕希だった。

「お得意の仲良しジャンプで追い出したらええんと違う?」

「だって手握ろうとしたら嬉しそうなんだもん!!」

確かにそれは気持ち悪い。

必死の形相で俺の背中に隠れたキツネ。吸血鬼といい新島夕希といい、今回のキツネは運が悪い。

「そういえばキツネ……世紀の大泥棒騙ってたわりには、今回何も盗んでねーな」

「いえ……キツネさんは盗んでいきました。俺の憧れという心を!!」

「くっさ……」

聞いてるこっちが恥ずかしい。にじり寄る少年を押さえてキツネに問いかける。

「どうすんのー」

「どうもしないよ!」

キツネはすでに社の屋根で身の安全を確保していたが、少年はいまにも登っていく勢いだ。

「弟子入りさせてください!!」

「やだ!!」

大声のやりとりはまるで子供同士の喧嘩。止めているのも馬鹿馬鹿しくなって、少年を離した。

「キツネさんっ!!」

「シュガーの裏切り者ぉ!」


「子供が増えて騒がしいのぉ」

「まったくです」

我関せず、と姐さんと俺は社の階段に座る。キツネと少年の言い合いを背景音楽に空を眺めた。

自分の生前がどんなものだったか、知りたくないわけじゃない。たぶんキツネは何かを知ってる。

それでも、また今度でいいかと放置してしまうのは、充分楽しい今を生きて――否。


俺は幸せな今を、死んでいるから。

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幽霊小噺 @tohma_twin

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