鍵盤の上を小鳥が踊る
瓜生 了
1
自分の小さな体、特に小さな手のひらが嫌いだ。
野球ボールではフォークなんて投げる前に握ることすらできない。ハンドボールですらこの手には大きい。
中学生の時、仲の良かった女子と手を合わせたときのこと。彼女と俺の手は全く同じ大きさだった。
「
彼女は笑っていた。被害妄想かもしれないけど、馬鹿にされている気がしてへこんだ。
「失礼しました」
保健室をあとにした俺は、怪我した足を引きずるようにして廊下を歩いていた。
部活中に他の人と交錯して、足首をねん挫してしまった。サッカーをやっていれば擦り傷などはしょっちゅうだが、これはなかなかにひどい怪我だった。
残念だが、しばらくは部活を休まざるを得ないだろう。
「うかつだった」
高校生になっても満足に身長は伸びなかった。
現在高校2年生、身長は163センチ。平均より低い程度だが、部の中では最低身長だ。
その上、他の部員は体つきもしっかりしてきている。
ぶつかりあったら傷を負うのは小柄な俺になる確率が高い。あれは避けるべきプレーだった。もっと上手いやり方があったはずだ。
痛む足でひょこひょこと不格好に進む。
歩けないことはないがペースは遅い。帰宅は苦労しそうだ。
運動場の喧騒を窓越しに聞きながら、昇降口へ向かっていると、ふと耳に入ってきた音。
――――軽やかなピアノの音色。
聞こえてくる方向はすぐそこにある文化棟。その2階にある音楽室だろうか。
なぜか無性に気になって、俺はそちらへと歩いていく。手すりの力を借りながらゆっくりと階段を上っていく。踊り場にたどりつき、さらに上って2階にたどりつく。
近づくたびにはっきりとしてくる音。
どうやら音楽準備室から聞こえてくるようだった。
かすかに開いている扉から中をのぞいてみるが、ピアノの陰になってしまって演奏者の姿が見えない。
「……すいませーん」
反応がない。
「すいませーん」
声のボリュームを上げてみたが、それでも応答がない。
「失礼します」
最低限の礼儀は果たしたということで、扉を開けはなって部屋に入った。それでも演奏者は変わらずピアノに夢中なのか気付いた様子はない。
少し呆れて、特に気配を隠したりはせずピアノの向こう側に回り込む。
そこでようやく気付いた演奏者と視線が合う。
彼女のぱっちりとした瞳は驚きからか、さらに大きくなった。
「え、外村くん?」
「由利だったのか」
「どうしてここに外村くんがいるの?」
「ピアノの音をたどってたらここにたどりついて。呼んだけど返事がなかったから、入ってきた。ダメだったか?」
「ダメ、じゃない、けど。見られてたなんて、なんか恥ずかしいな」
頬を赤らめて肩をすくめる。小柄な由利がさらに小さくなる。
「良ければ続けてほしい」
「……わかった」
俺は手近なところにあった椅子を引き寄せて座った。足の状態がアレなので、そろそろ限界が近かった。
由利が再び弾きはじめる。
見られていることを意識しているのか、最初はどこかぎこちなかった。重さがあって、俺が気になったあの音とは違った。
でも、時間とともにそれはなくなった。
彼女がピアノに集中していくにつれ、音が軽さを取り戻していく。
それにともない由利の動きにも変化が現れる。体全体を大胆に動かしながら演奏し、後ろで一つに結んでいる髪がぴょこぴょこと跳ねる。
なにより目を引いたのが、指の動きだった。10本の指が踊るように、鍵盤の上を縦横無尽に行き交い、跳ねまわる。
クライマックスに差し掛かる頃には、彼女の顔は熱で赤みを帯びている。指は信じられない速さで動きまわる。
そして、最後の一音を奏でた後、由利は大きく息を吐いた。
「すごい……」
自然と拍手をしていた。
それを見た由利は、照れながらもまんざらではない顔で笑った。
「いやあ、ほめられるのも悪くないね」
「もっとほめようか?」
「ほめてほめて。わたしが天狗になるくらいほめて」
白い歯を見せて無邪気に笑う姿は、教室で時折見かける彼女の笑顔と同じだった。
「よくその小さな手で弾けるな」
俺も幼い時にピアノ教室に通っていた時期があるからわかる。小さな手、小さな指でたくさんの鍵を相手にするのは難しい。
由利はとても小柄だ。身長も小さければ、手のひらのサイズも小さくなるのが普通だろう。男子の俺の手より小さいのはもちろん、女子の中でも小さいと思われる。
「うーん、そんなことはあんまり気にならないかな」
由利は右の手のひらを開いて、前に差し出す。
「一度測ったことがあるんだけどね。わたしの手のひら、中指の先から手首のしわのところまでで約15センチなの。みんなで測ったんだけど、わたしが一番小さかった」
しかし、その言葉に残念な様子はみじんもない。
「でも、手が小さいこととピアノを弾かないことは結びつかないよね? わたしはピアノが好きだから弾いてる。たしかに指が長くなれば楽にできることがあるかもしれないけど、ないものねだりする暇があったら、わたしは一曲でも多く弾きたいかな」
「……なあ、由利。手の大きさ、比べてもいいか」
うなずいた由利を見て、俺は彼女の右手に自分の左手を合わせる。
俺のほうが大きかった。男友達のなかでは断トツで小さい自分の手のひらより、由利のほうが1センチちょっと短い。
こんな小さな手で、細い指で、あんなにも圧倒的な演奏をするのか。
「やっぱり、由利はすごいな」
「さっきからそればっかり。他に言うことないの?」
なんだか全力で打ちのめされたようなすがすがしさで、俺は笑うことしかできなかった。
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