第10話 甘露の如く降りてくる

 恋だったのかはわからない。

 あれを見てから前とは変わってしまったのは事実だった。


「ダンテくん、大丈夫?」

「……ああ」


 練習していると、またエーリッヒに声をかけられる。

 無意味だとわかっているのに、敵意がくすぶった。以前のように無邪気に返せない。

 前奏を終えた数日後、しめって冷ややかな夜で、伊達は静かに嘆息する。


 あの日以来、伊達はリーダーのルシィを除き、《オーリム》のメンバーに敬語を使わなくなった。

 それは彼の望みでもあったはずなのに、暗い顔をした伊達にエーリッヒは戸惑い、何かと誘いをかけてくる。


 酒でも飲みに行くか。一緒に演奏しないか。娼館にでも行くか。


 それらすべてを「気分が乗らない」「二回目の演奏会に備えたいから」と断ってしまっていた。

 新人であるのに随分な態度だとは伊達自身も思う。彼の厚意に甘えている自覚もあった。


――あれは酒の勢いで酔っただけ?


 ベアトリーチェもエーリッヒも平常通りで、二人の間にあるのは仲間だという気安い空気だ。

 甘い香りではない。

 気のせいかスキットルのせいかと思いたかった。

 しかし実際にエーリッヒはザルといっていい程度には酒に強く、幻というには脈絡もなくはっきりと見えすぎた。


「うぅん」


 ギターに触れ、弾き方に悩むように見せかけて唸る。

 たとえ心にもやがあっても弾く。

 音色は最初の溺れるかはじけ飛ぶかの勢いを失い、しっとりと落ちる雨粒のようになっていた。

 これは自分の音色ではない、とは思わない。だがいつもの伊達の音色でもなかろう。


――そんなこと考えてる時じゃない。せっかく認めてもらえたのに。


 唇をかみしめる。

 その肩に誰かが手を乗せた。男の硬い手ではない。

 女性の柔らかで細い指。しかしその指は世の令嬢に比べ、長く丈夫なつくりをしていた。

 ころころと軽やかな笑い声が鼓膜を転がる。


「ダーンテくん」

「あ、ルシィさん。すみま、ごめん」

「いいよぉ別に。元気ないね、その音色も満更悪くないけれど……リロイ」


 呼ばれて、練習場所の片づけをしていたリロイが振り向く。


「いいかな?」

「ふむ」


 たった一言で何が伝わったのか。

 彼は伊達とルシィを見比べ頷いた。


「エーリッヒ、ベアトリーチェ。飲みに行くぞ」


 エーリッヒが伊達の方を見、ベアトリーチェが何事か言おうとする。

 しかし有無をいわせず先に外へ追い出す。そのまま身をひるがえし、二人を連れて先に帰ってしまった。


「またね、ダンテ!」


 背中を押されながらも、エーリッヒは白い相貌を伊達へ向けようと後ろを向いた。

 伊達は手だけふって、口では何も言わなかった。


「よぅし。それじゃあ、伊達くん。ぼくの家においでよ。ゆっくりお話ししよ」


 随分気を遣われてしまった。

 いくらリーダーとはいえ、こんな少女に配慮されるとはつくづく自分が情けなくなる。

 喜代にも励まされた夜が懐かしい。


「いえ、お気遣いなく。本当につまらないことなので、すぐ終わりますよ」


 まさかエーリッヒとベアトリーチェのせいだとは言えなかった。

 嘘をつくのもためらわれる。

 罪悪感もあった。何より、ルシィの瞳だ。

 伊達のごまかし方は下手だ。自覚がある。

 ルシィの水晶体まで見えるような澄んだ黒曜石の瞳を見ていると、脳みそが奇跡的な回転を果たしても、見透かされるような気がした。

 いや、今も。見抜かれている。


「心配させてしまったみたいですみません、練習の邪魔にならないように気を付けますから――!?」


 謝罪を口にする前に、腕に彼女のそれが絡みつく。


「あ、あの!?」

「いいからおいでってば」


 ぴったりとくっつかれ、ルシィの見た目以上に小さな頭を意識してしまう。

 伊達、と本名で呼ばれていることに気づいたのは導かれるまま薄暗い道に踏み出した後だった。ちゃんと知っていたらしい。

 わざと間違った名前で呼んでいたのかと、ほんの少し憤慨の気持ちを覚えた伊達と反対にルシィは楽しそうだ。


 伊達の腕をひっぱるちからは、身体の大きさに見合った弱い力だった。

 しかし、触れた箇所からほどけてしまうような体温と肉の柔さが理性を揺さぶる。

 伊達は、男であれば――もしかすると同性でさえも――逆らえない、見えない力に動かされた。

 ぐいぐいとルシィに導かれるまま、歩きだしてしまう。

 夜の風が流れる家外へ躍り出て、ルシィは華奢な二本の脚で整備された道を行く。


「こういう街はいいよね、夜も、酒瓶で作った火炎瓶をぶちまけたみたいに明るい。世界がひっくりかえるような酔っ払いの夜は、こういう街にこそ相応しいと思わないか」


 ほんの前まで夜の灯りは提灯で、とばりの内側をつややかに照らしていた。

 十年? 百年? 大した時間もかけずに、この島国は激変した。

 既に街は文明の開化を重ね、昼の白い光を夜に取り入れようとしている。

 月が沈めば目覚め、太陽が昇れば起きる田舎で生まれた伊達にとっては錯乱したような発想だ。


「どこへ行くんです?」

「ぼくのところさ」


 ルシィは、伊達が知っていてあえて通らなかった、暗く細い、薄汚れた道を進む。

 足元にさんらんするごみや有象無象のちりあくたには、みじんも手間取られず。


――やはり彼女は猫のようだ。目の前を華麗に横切って、気まぐれに触れさせる黒猫。


 たまらなく可愛らしい。なのに、少し怖い。

 このままついていったら、とんでもないところへ連れて行かれる気がした。

 道理に逆らう奇妙な高揚が背筋を撫ぜる。

 確かにルシィのいうとおり、あでやかなものがあるかもしれない。


 手に手を取り合って歩くうち、いろんなものを過ぎ去っていた。

 ぼろぼろで生きているかもわからない浮浪者。

 梅毒で鼻のかけた元娼婦を思わしき女。

 垢と血を見まがえる凶相を張り付けた若い男。

 病と飢えの恐怖に苛まれ、光のない目玉で男を見つめる少女。


 伊達は少女にちらりと見やられ、一瞬気を取られる。こんな少女がいる場所で、いったい何をやっているんだ?

 立ち止まりかけた伊達の頬をルシィがつまむ。


「よそ見しないで、ね?」


 道端で客を誘う夜の華に目をやり、ルシィは微笑む。

 水たまりに溺れるありを微笑ましげに見守るような表情だった。

 見下してはいない。そもそも生き物とすら思っていない。そんな顔に伊達はぞっとしない。


 きっと少女を生き物と思っていない理由がわかってしまったからだ。

 少女が命の音を奏でられないものだから、どうでもいいのだと察したからだ。

 壊れて、なおしがいもない楽器は、ごみですらない。


――ルシィにそう見られたら、俺は生きていけない。


 音楽家としての伊達が、恐怖におののく。

 宵路横丁はまるで深夜のように暗い。肉が腐った悪臭と獣めいた浮浪者のささやきは、本当にこの世のものだろうか。


「ほら、こっちこっち」


 混迷した道を我がもの顔で進むルシィに必死でついていく。

 足元すらも見えない宵の道では、彼女だけが頼りだ。

 ぐねぐねと曲がりくねった通路を通るうち、ぐるぐると目が回ってきた。

 酩酊したときのようにはっきりしない頭で、伊達はおとぎ話のヘンゼルとグレーテルを思い出す。

 決して出られない迷いの森をさまよう、迷子の気分になっていた。

 どこを歩いている? 迷っているのは現実の道か、伊達の脳なのか?


「おいで、おいで。こっちへおいで」


 そういって指をとられる。ひんやりとした指に産毛がくすぐったくなった。

 優しく触れるさまはまるで年上じみた余裕がある。ふと、この少女がどんな人生を過ごしてきたのか気になった。


「ほら、家についたよ」


 ギィと痛々しい音を当てながら室内に招かれる。

 電気がまともに通っていないここでは家の輪郭をとらえるのすらやっとだった。

 ルシィに「ここだ」といわれて、ようやくルシィの家にたどり着いたのだと理解したほどだ。

 伊達は、ずっとそこにあったはずなのに、突然家が暗闇のなかから浮き上がってきたように思った。


「まっくらだ」


 誰もいない家は闇がぎゅうぎゅうに詰まっている。

 扉から入り込んだ月明かりで人形が照らされ、心のなかで悲鳴をあげる。


「ぼくね、きみの音が好きだよ。この間のギター、とてもよかったね。誰かに向けた音なのには驚いたけれど、ああ、こういう音が入ってもいい」


 突然の褒め言葉に照れる。

 頬が赤くなるのを抑えきれない。暗さで見えなければいいと祈る。

 前を歩いているはずなのに、ルシィのかすれるような囁きは耳もとでささやかれていると錯覚しそうだった。

 それほどに甘い。

 ほの暗く、人目を避ける、あまりに甘い色香だ。


 ドアノブを回す音がする。

 行き先は二つしかない。先日招かれたときにみた、奥にある二つの部屋。

 手をひかれた先は、二つのうちいずれかであるはずだ。


 伊達はピアノを弾くのかと思った。

 あの音楽のしもべの如き少女だから、当然そうだと思った。

 だが部屋に踏み込んだ途端、以前覗いた部屋とは違う、という勘が働く。


「あの、」


 念のため問おうとした時、突然後ろから思いっきり突き飛ばされた。

 場所としてはルシィ以外にいない。

 たまらず倒れる。彼女には魔法の指があるのだ。


 冷たくささかれた床を警戒していたが、予想に反し柔らかな布の肌触りが伊達を抱きしめた。

 脳裏で予感が閃く。それを認めたくなくて、すぐに身を起こそうとした。


 反抗は無為に終わる。

 柔らかい人差し指で胸をつかれ、ベッドに押し戻されてしまう。

 ルシィの指だ。


「え、え」

「どうしたの? 別に初めてというわけじゃあないでしょ」


 恐ろしく素早い身のこなしだった。

 闇に目が慣れるにつれ、自分の体勢と状態を把握する。

 恐る恐る目線を自らに向ければ、腹のうえで黒曜石の瞳の少女が悪戯っぽく微笑んでいた。

 ベストのボタンをひとつひとつ外すさまを伊達に見せつけている。

 何故ルシィがこんなことをするのかわからない。

 とりあえず彼女をどかさなければ。そうしようとした伊達を、容赦なく追いつめる。


「ベアトリーチェのことでなにかあったの? なんてね、ふふ、エーリッヒ、可哀想に」


 息をのむ。

 知らないふりをして、本当は知っている。そう思ってしまう発言だった。

 ルシィはいつだって伊達に容赦がない。そう知っているはずなのに、耳を塞げない。


「慰めてあげようか」


 リーダーの責任感にしては、その提案は蜂蜜のように甘すぎる。

 胸板に触れられて、どうしようもないさがをかきたてられながら、理性をかき集めようと試みた。その抵抗のひとつに言葉を紡ぐ。

 かつて彼女がなんといったのか、すっかり忘れて。


「いや、いや。どうしてそんなことを?」

「聞きたい?」


 くすりともったいぶった笑い声をもらす。


「いったでしょう、この間の。前奏がよかったらきみをメンバーに迎えるって。いい音を奏でたでしょう? ぼくはね、音が好き。音楽が好き。あの時きみの音に恋できたから、合格なの」

「リ、リロイさんは」

「リロイ? ああ、気にしないで。今日は帰ってくるなっていったから」

「そうじゃなくて、あなたとリロイさんの仲とか、その」

「恋と愛は別だよ。ぼくにとって音楽は恋するもので、人は愛するものだ」


 ルシィの整った顔が近づいてくる。

 純粋で、明るくて、幼くて、何かを通り過ぎてしまったような顔立ちを改めて認識する。


「道理と倫理は人間のもの。音楽には法律はいらない。理想を追うことばかりが美じゃないさ、もっともっと、沢山を詰め込もうよ。そこから選んで、よくばりに頬張って、心があふれるぐらいに満たすんだ」

――だからこれは、そのための儀式。


 音楽以外のことにとらわれるな。すべてのことをそこに捧げろ。

 そう言っていたことを思い出す。

 言葉で語りたいなら詩人になれといったことを思い出す。

 だから彼女の言いたいことを理解した。

 今の彼女が伊達に求め、恋しているのは、伊達という人間ではないのだ。


「きみは楽器。ぼくの楽器。音楽家」

「……楽器」

「そう。失った恋の音色だってきみの音。悪い音じゃなかったよ? きみという楽器だけに積み重なったものの音だもの。その点は喜んで、ね。だから、もっと重ねよう」


 もっといい音色のために。

 柔らかなものが吐息を奪う。

 ほんの少し空いた唇の隙間から何かを落とされる感覚がした。

 頭がくらくらするほど甘ったるく、どろつく何か。小さなかたまりが喉を滑り落ちる。


「ふぅ」


 満足げなルシィの重い吐息が鼓膜を震わす。

 ちからを抜かしていく伊達に、また笑う。


「そんな罪悪感にまみれた顔しなくたっていいじゃないか。いいことを教えてあげようか。ぼくね、昔は娼婦だったんだ。こんな小娘が寒村をでて世界を旅するためには多少のことは仕方がないさ」


 その一瞬だけ遠い目をする。どこを見たのだろう。なんとなく、そこには黒い肌の男の影がある気がした。どうしてかはわからない。


「仕方がない。ぼくは出会っちゃったんだ。本当なら原始的なだけで終わるはずのあの村で、音楽に出会ってしまった。あれは、甘美だ」


 己の衣服に手をつけられた。酒でも飲まされたのだろうか。頭が熱い。


「楽しい音のために、あらゆる愉しいことをするのは当たり前のことだよ」


 少しずつ少しずつ、ルシィは伊達の人間としての牙城を崩していく。


「楽しいことをしよう。それを音にしよう。今晩だけは、ぼくがきみの楽器になってあげる。うまく弾くんだ、音楽だけを愛して、余計なものは忘れて、音楽家になるんだ」


 人としての伊達はそれを拒絶する。

 しかし、音楽家としての伊達は、《オーリム》のダンテは、彼女の誘いを受け入れた。


――すべては、音楽のために。

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