焔燻

之々

―1―

 うだるような暑さが残る九月末。とある政令指定都市にある小さな会社で俺は働いている。それほど稼ぎは多くないが、人員の多い賑やかなオフィスに満足している。昼休憩も終わった頃、滅多なことでは鳴らない課長のデスクで、けたたしく内線が鳴る。連日の真夏日と節電による控えめな冷房のためか、課長も暑さに負けてしまいそうになっているようであり、広くなってしまった額に汗をにじませて時折ぼうっと遠くを見ている。毎年四月には、新入社員に対してオフィスが揺れるほどの怒号をする課長だが、今はまるで真夏の白熊のようである。課長は受話器を取るなりぞんざいに話していたが、すぐに溶けてしまいそうに項垂れていた彼の姿勢が突然整い、そしてこちらを見て声を荒げる。

「広瀬、お前に電話だ」

 不意に名前を呼ばれ、一瞬銃口を突き付けられたかのように身体が硬直したが、すぐに課長の方へ向き直り答える。

「どのような用件でしょうか」

「いいから、さっさと取れ」

 課長が軽く眉間にしわを寄せ、右手に持った受話器を揺らして催促する。額ににじむ汗が流れるのが見えた。名指しで電話がかかってくる用件に心あたりのない俺は、受話器を受け取りいぶかしげに答える。

「お電話代わりました。広瀬です」

「あっ、広瀬さんの息子さんで間違いないでしょうか。私、A市立総合病院の看護師の宮崎と申します。お電話させていただいたのは……」

 それは突然の訃報だった。細かい内容ははっきりとは思い出せないが、父が急性の心筋梗塞となり、発見が遅れたために命を落としたという。死んだ、と聞いた途端に目の前がまっくらになったような、船に揺られているような錯覚に陥った。ここ三年ほどまともに連絡を取っていなかったとはいえ、やはり近しい者の死というのは大きな衝撃だ。

「もう今日は帰っていいから、親父さんのところに行ってやれ」

 普段はしかめっ面でぶっきらぼうな課長が、俺の顔を心配そうに覗き込み小声で言った。

「はい、申し訳ありません」

「なんで謝るんだ。忌引きだぞ。緊急事態だ」

 声量は落としたまま、課長ははっきりと強く言い放ち続ける。

「その、なんとかって病院はどこにあるんだ。遠いのか?」

「父の住まいの近くですが、それ自体も少々遠いところにありまして……」

「なら尚更急いで行くんだ。通夜も葬式もあるだろうから、忌引き休暇を超えても気にするな。長引きそうならインフルエンザか何かだって言っとくから。幸い人手は足りてるんだ、こういう時は素直に甘えておくんだよ」

「ええっ! そんな、お気遣いいただかなくても」

 日ごろの課長の姿からは想像もできないほど優しい気遣いに背中を押され、俺は退勤した。そういえば以前、課長は仕事を優先してしまい弟の葬式に参列できなかったと零していたことがあったっけ、と車の中で思い返していた。



 会社を出て数時間が経ち、周囲の景色に自然が多く入り混じってきた。そろそろだ、と思っていた矢先にA市と書かれた真新しい道路標識が目に入った。父が青春時代を過ごした市――当時は町だったが――には数度きただけだった。俺がここへ来るのは父がこの市へ引っ越すのを手伝った時と、その後の正月に三回。もう三年経っているが、市区町村の統合以前の当時の面影が随所に残ったままの変わらない町並みを懐かしく感じた。


 病院につく頃には日が落ちていた。がらんどうのロビーで父の名前を伝え、五分ほど待たされた後、宮崎と名乗る気の強そうな面持ちの看護師がそそくさと出迎えてくれた。

「お待たせして申し訳ありません。広瀬です」

「いえ、お気になさらずに。お父さまはこちらです」

 市の高齢化が進んでいて家族の迎えに時間がかかるのはそう珍しくない、と話す宮崎に案内されて入ったのは、救急外来横の幅のやや狭い廊下の先にある特別面会室と書かれた部屋だった。ひんやりとした空気が流れるその部屋の中央にはベッドがあり、その周囲に簡素なソファが並んでいる。中央のベッドに横たわっているのは、白い当て布を被せられた父だ。すっかり冷たくなってしまっているが、その顔は死化粧を施されており、ぱっちりと目を開けて起きてくるのではないかと思うほど綺麗に整えられていた。当て布を外し、すっかりしわが増えてしまっている顔をしばらく眺めていても、訃報を受けた時ほどの衝撃はなかった。



「お世話になりました」

 葬儀会社の担当者にお辞儀をする。特に信仰している宗教もないし、父は早々に仕事を辞めてほぼ隠居状態だったし、友人の話もあまり聞いたことがない。携帯電話の履歴を遡ってみても、ここ二、三年はあまり密に過ごした人物はいないようだったので、最もシンプルに、小規模に葬式を執り行った。父の口からこの土地についての特別な思い入れも伝えられていなかったが、わざわざ仕事を辞めてここに住むくらいだから、きっとこの土地に大切な何かがあるのだろうと思い、納骨は近くの寺院墓地にお願いした。


 納骨後、父の住まいへと足を運んだ。町の少し小高い丘の上、林の中に静かに佇む二階建ての一軒家が父の家だ。豪華ではないが、整えられたアプローチや植木、簡素な花壇、少しひび割れているが修繕の跡のあるクリーム色の外壁が、父のこの家への思い入れを物語っている。先ほど自らの手で納骨したというのに、玄関の扉を開けて父がひょっこり顔を出すんじゃないかという幻想を抱いてしまう。


――おかえり。


 玄関で靴を脱ぎ前を向くと、そう声をかけられたような気がした。もちろん家には俺以外誰もいないのだが、その言葉を感じると頬につうっと涙が流れた。歩を進め、父の香り残るリビングのソファに腰かけた時、父の携帯電話が鳴った。歳の割には明るくポップな、おそらくアニメか何かの主題歌であろう曲が流れる。画面には遠野と表示されている。葬儀に参列してくれていた、俺と父の数少ない共通の知人だ。

「もしもし、遠野さんですか。祐介ゆうすけです」

「ああ、祐介君? よかった繋がって。私、祐介君の連絡先知らなかったから広瀬君の携帯にかけたら繋がるかなあって思ったのよ」

 遠野さんの優しい、お転婆な雰囲気の明るい声が聞こえる。

「ああ、それで。何かありましたか?」

「何かっていうほどじゃないんだけどね。ほら、広瀬君の家広いじゃない? もう誰も住む人いないし、祐介君も仕事があるから長くは滞在できないだろうし、片付けどうするのかなあって気になっちゃって」

「なるほど。上司の計らいであと一週間は滞在できる予定ですが、それなりに広い家なので一人では大変ですね。遠野さんさえよければ、お手伝い願いたいのですが」

「なによお、改まっちゃって。久しぶりに会ったからって、別に気を使わなくてもいいのよ。旦那は出張中だし、子どもも二人とも自立してるから暇なのよ」

「そうですか。ありがとうございます」

 最後に遠野さんにあったのは四年前。あの時はまだ下の子は大学生だったっけ。お兄ちゃん、お兄ちゃんと人懐こい子だったことを覚えている。父とは高校からの付き合いらしいが、高校時代の話は聞いた覚えがない。ましてや、二人から共通の友人の話題が出ることもなかった。そこまで思い返して、俺は父のことは何も知らなかったんだと、寂しさを感じた。


 ほどなく遠野さんと合流した。父と同じく少しばかり皺が増えているが、以前会った時となんら変わらない、明るい笑顔の似合う人だ。ゆったりとした白いワンピースにデニムパンツの若々しい姿だが、年相応の経験もあるのだろう、葬儀を円滑に進めることができたのは、遠野さんの手助けもあったからだ。

「それじゃあ、どこから手をつけようか。広瀬君のことだから、掃除は行き届いてるだろうし……とりあえず服とか書類でも片付けようか」

 遠野さんの提案で、箪笥やクローゼットから順番に服を出して仕分けしていく。俺と父は頭一つ分程度の身長差があるため、父の服はそのほとんどを段ボールに詰めてボランティア団体へ寄付することになった。遠野さんに服を持って帰るか聞いたが、旦那はメタボだから、と一言答えるのみだった。

 書類は父の手で用途毎に仕分けられており、手の入れようがない状態だった。それを見て遠野さんと二人して、父らしいと笑った。家具も粗大ごみにしてしまうのは勿体ないと思うほど手入れされており、リサイクル業者へ見積もり依頼を出した。


「そういえば、父と遠野さんって高校からの付き合いなんですよね」

「そう。懐かしいね」

 片付けが一段落したので、父のお気にいりの紅茶を淹れて休憩する。部屋に甘くて上品な香りが広がる。今まで知らなかった、何故か知ろうとも思わなかった父の過去について、遠野さんに尋ねてみる。

「父は、昔はどんな感じだったんですか? 父から昔話なんて聞いたことがなくって……」

「そうねえ、本人が話してないことを私が勝手に話していいのかわかんないんだけど、広瀬君は周りをよく見てた人だったわ。今ほどまめな人じゃなくって、あの時はもっと面倒くさがりというか、消極的というか……」

「内向的だったんですか。落ち着いた人だとは思ってましたけど」

「自分からあれこれ提案したり誘ってくる人じゃあなかったね」

 学生時代の友人関係は希薄だったというわけか。それで昔話をすることがなかったのだろうか。

「あ、でも友達がいなかったわけじゃないんだよ!」

 俺の考察を知ってか知らずか、遠野さんが続けて言った。人差し指がぴんと立っている。

「私もよく遊んでたし、他にも何人か親しい友達が……」

 そこまで言って遠野さんの口が止まった。進学や就職で友人と疎遠になることはよくあることだし、俺も実際そうだった。だが遠野さんの様子はそれと違う内容が続きそうな、何とも言えない胸騒ぎと不可思議さがあった。

「何かあったんですか?」

 遠野さんは机に両肘をつき、両手を合わせ口元に置いたまま黙り込んでしまった。

「うーん……」

 言い淀んでいる遠野さんの目をじっと見つめて、俺は右手を顎に当てて親指で顎を掻いた。数秒の沈黙の末、遠野さんと目があった。

「あ! その癖、広瀬君と同じ」

「えっ、あっ……無意識にやってました」

「ふふふ」

 遠野さんが目をあわせたままにっこり微笑んだのを見て、少し体温が上がったような、そんな気がした。じゃあそろそろ続きをしましょうか、と言わんばかりに立ち上がる遠野さんを目で追って、慌てて俺も立ち上がった。


 ある程度片付けの目星がついたところで、日が既に落ちていることに気付いた。俺は遠野さんに礼を言い、玄関先まで見送った。

「さっきの話なんだけどね」

 靴を履いた遠野さんが、ドアノブに手をかけて振り向きざまに言った。ワンピースの裾がひらりと舞う。

「広瀬君の友達の話。広瀬君本人が君に話してないのなら、やっぱり私が言っちゃいけないことだと思う」

「はあ」

 作業に夢中ですっかり忘れてしまっていたことだったので、つい生返事となってしまった。

「でも几帳面な広瀬君のことだから、きっと何か残してるんじゃあないかな」

「何か、ですか」

「何か。私にはわかんない。なんとなくそんな気がする……感じ?」

 それじゃあまた、と手を振って遠野さんが帰っていった。父の几帳面で丁寧な性格を考えると、大切なものはきちんと残しているだろう、と。捨ててしまってもいい過去なら遠野さんのあの言い方にはならないはずであり、この家のどこかにヒントが残されているのだろうか。粗方あらかた片付けたとは思うがそれでもまだ出てきていないとするならば、さながら宝探しだな、と思わずにやけてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

焔燻 之々 @Kore-ore

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る