ベランダの君へ

つづれ しういち

ベランダの君へ


 美弥子みやこはいつも、あのベランダから僕に手を振ってくれる。


 だから僕は、毎朝バスに乗って出勤するとき、それを見越して早めにバス停へ行くようにしている。そうすれば比較的かんたんに、僕らの住むマンションが見える側のいちばん後ろの席に座れるからだ。

 いつもいつもそうだから、やがて周りの人たちも僕のためにその席を空けてくれるまでになってしまった。それがほんのちょっと、恥ずかしい。

 だけど、やっぱり美弥子が手を振ってくれるのには、僕は手を振り返したかったのだ。


 雨の日も、風の日も。

 少し小高い山の手にある僕らのマンションには、下界では降っていないときでもちらほらと白いものが舞ったりする。だけれど、そんなときですらもパジャマの上からもこもこの長いカーディガンを羽織って、美弥子は僕に手を振ってくれるのだ。


 彼女と結婚して、五年がたつ。

 社会人になって数年ぐらいした頃に、お互いの友達が企画した合コンで偶然出会って、なんとなくお互いが気になるようになって。

 それで、数年後には結婚していた。

 なんだか不思議なぐらいに、そこまでが当たり前のように進んでいった。


 べつに僕は、イケメンでもなんでもない、ただの普通の男に過ぎない。

 風采だって地味なぐらいだし、スポーツだって勉強だって、中の上以上になれたことは一度もない。中学でも高校でも、別に女の子から告白されたこともなければ、義理チョコ以外のものをもらったような経験もなかった。

 派手な見た目の友人たちにいじられながら、テーブルの隅でちびちびビールを飲んでいただけの冴えない僕を、彼女もやっぱり、にぎやかにしゃべる友達の女の子の影からそっと見ていたのだと、あとから知ったぐらいだった。


 でも、美弥子はちゃんと美人だ。

 どんな人を美しいと思うかなんて人それぞれだというのはわかっているし、少しおっとりしたところはあるけれど、ちゃんと美人だと思う。

 派手なところはあまりないし、薄い色に髪を染めたりきらきら光るような衣服やアクセサリーなどもほとんど身につけなくて、いつも長い黒髪を自然にまとめているような、楚々としたタイプの女だった。

「なんとなーく、神社の巫女さんとか、そういうの似合いそうだよなあ?」

 笑いながらそんなことを言う友人もいたが、まさにそんな感じだった。



「メルアド、教えてもらえませんか」

 ほとんど聞こえないぐらいの震える声で初めて彼女にそう聞かれたときは、ほんとうに僕は、心臓が口から飛び出るのではないかと思った。

 はじめのうちは、彼女に何を言われたのかもすぐには理解できなかったぐらいだった。

 あとで聞いたら、

「あれは本当に、清水の舞台から飛びおりるような気持ちだったの」

 と、少し頬を赤らめて教えてくれた。


 彼女がこんな僕の、どこに惹かれたのかなんて皆目かいもくわからない。

 でも僕たちは、お互いの両親や友達にじゅうぶんに祝福されて、そして幸せな結婚生活を始めたのだ。


 今日も僕は、バスの窓から彼女に手を振る。

 五月の空はほんとうにきれいに晴れ上がっていて、「さあ、これから頑張るぞ」と言わんばかりの山の緑が真っ青な空に対抗するようにしてきらきらと陽光をはねかえしている。

 美弥子が嬉しそうにベランダから手を振っている。

 黒くて長い髪が、さらさらと風になびいている。

 遠すぎて表情まではわからないけれど、きっとまたにこにこと優しい笑顔を浮かべているに違いない。


「行ってきます、美弥子」


 口の中だけで小さくそう言って、彼女の姿が見えなくなるまで僕も手を振り返す。



 僕はそうして毎朝会社に行って、一日をほとんど休む間もなくばたばたと過ごし、ちょっと疲れて家路につく。

 行きのバスの中よりも、空気がどんよりと重い気がするのは、やっぱりみんなも同じように疲れているからなんだろうなと思う。


「……ただいま」


 玄関を開けて、ポーチで靴を脱ぐ。

 部屋の中にはだれもおらず、明かりもついていなくて真っ暗だ。

 カーテンも窓も締めきってあり、空気もなんだか湿って重たいような気がする。

 僕は下界で買ってきた牛丼のパックを開き、冷蔵庫から出した缶ビールを開けてひと息ついた。

 そうしてちらりと、薄暗い和室のほうを見る。


「ただいま、美弥子」


 最近は、マンションの部屋にふさわしいようにと、小さく作られたおしゃれな仏壇が多いことをこの年になって初めて知った。

 いま、僕の美弥子はそこにいる。

 ゆったりとした半円を描いたやわらかい色目のデザインのその場所に。

 ソファから立ち上がってそちらに向かい、そっと線香に火をつけた。

 そうして静かに手を合わせる。


 美弥子は半年前、とつぜん帰らぬ人になった。

 前の日まで本当に元気で、毎日にこにこ笑ったり、ちょっとしたことで喧嘩をしてしまってふくれっつらになったりと、それこそ本当にいつもどおりだったはずなのに。


 その朝、なぜか美弥子は起きてこなかった。

 ……そう、永遠に。


 とても信じられなくて、救急車を呼んだり、医者からの説明を聞いたり、美弥子のお父さんとお母さんに連絡を入れたりしている間もずっと、僕はどこかで「これは夢なんじゃないか」なんて、ぼんやり、ふわふわとそう思っていた。

 目の前で起こっていることのすべてが、とても現実のことだなんて思えなかった。

 だって彼女は、本当に眠っているようにしか見えなかったから。



 きれいな美弥子。

 優しい美弥子。

 僕みたいな冴えない男がもてるはずなんてないのに、会社で飲み会があってちょっと遅くなったりした日には、なんだかさびしそうな目をして僕をなじってくれた美弥子。

 あの日からもうずっと、君には触れられないままになった。


(……でも。)


 でも、僕は見たのだ。

 不思議なことに、忌引きが明けてまだ呆然としながらもいつものバスに乗った僕は、本当にそのとき見たのだ。

 僕らのマンションのベランダから、いつものようにあの美弥子が、嬉しそうに僕に手を振ってくれる、その姿を。


 気持ちわるいとか、怖いとか、そんなことは少しも思わなかった。

 僕は必死で美弥子に手を振って、それから次の停留所でバスから降りて。

 全速力でこのマンションに戻って来たのだ。


 でも、美弥子はいなかった。

 どこをどう探しても、彼女の姿は部屋にはなかった。

 僕はお義母さんに電話して、「なにを言い出すの、あなた……」と絶句され、号泣されて、お義父さんにひどくしかられてしまった。

 僕はしばらく呆然として、切れてしまった受話器を持ったまま、ぼうっとそこに立ち尽くしていた。





 それから。

 僕はこうして、毎日美弥子に手を振っている。

 もしかしたら、彼女も自分がどうなってしまったのか、分からないでいるのかも知れないと思う。

 それはわからなくもないと思った。

 だって突然、本当に突然に、この世の人でなくなってしまったら、誰だって自分がほんとうはどちらの住人かだなんて分からなくなってしまうに違いない。


 だから、いいのだ。


 こうやって、僕は美弥子と暮らしてゆく。

 そうしていつか、僕も彼女のいる場所にゆく。

 だれだってゆくその場所を、いまさら怖いともなんとも思わない。

 だってそこには、美弥子がいるのだ。


 それでいい。



「愛してるよ……美弥子」



 今朝、またバスの窓から彼女に手を振って、

 僕はゆるやかに微笑みながら、

 口の中でそう、つぶやいた。


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