第1部最終話 未真名市の一番長い日(中編)

〈月の裏側〉の第一撃は、4月29日──GW初日の明け方から始まった。


【4月29日 午前4時 〈ミーメットワーク〉未真名支社】

「攻撃だ! 我が社が攻撃を受けている!」

 白と鮮やかなブルーの2色に塗り分けられた塵一つ落ちていない廊下を、逞しい長身の男が闊歩しながら大声を上げる。24時間、365日に渡り国内外の情報を統御する〈ミーメットワーク〉社に昼夜の別はない。3交代制で作業に当たっていたエンジニアやオペレーターたちが、驚いて顔を上げる。

「保安部長!? お疲れ様です、このようなところに……」

 一際警戒厳重なサーバールームのゲート前で立番をしていた警備員たちが驚いて詰所から出てくる。

敵性分子による破壊活動コードレッドが進行中だ! 直ちに迎撃体制に入れ!」

「は……しかし、お言葉ですが攻撃とは……?」

「こちらでは一切の異常を検知してはいませんが……?」

 反射的に行く手を塞ぎはしたが、警備員たちにできたのはそこまでだった。何しろ彼らにとっては雲上人である。ましてや、理由こそわからないが奇妙な興奮状態にあるらしい。

 だがそのジレンマこそ、彼にとっては付け入る隙そのものだった。

「攻撃だ!」

 保安部長は右腕を一閃させた──それだけで警備員の一人がV型に喉笛を切り裂かれる。驚愕に全身を硬直させるもう一人の心臓を、肋骨と肋骨の間を寸分の狂いもなく通り抜けた刃物が深々と貫く。

「攻撃だ! 我が社が攻撃を受けている! 全員、迎撃体制に入れ!」

 短剣スティレットに付着した鮮血を腕の一振りで飛ばし、彼は大声を発しながらサーバールームに足を踏み入れる。敵の攻撃に備えなければならない──

 彼は入社する遥か以前から〈ヒュプノス〉の端末であり、またその自覚を持っていなかった。


 同じ頃、市内に潜伏中の何百、何千、あるいは何万いるとも知れない、潜伏〈ヒュプノス〉も一斉に動き出していた。

 彼ら彼女らの狙いはやはり無数に存在するマルス幹部・構成員の抹殺だった。その連携は寸分の狂いもなく同時に始まり、同時に終わった。汚職警官は同僚に、麻薬の売人は客に、IT企業家は雇いのメイドに、投資家はすれ違った清掃員に、ワイヤーで首を締められ、刃物で心臓を一突きされ、あるいは物陰に引きずり込まれて苦痛すら感じる暇もなく首の骨を折られた。

 攻撃開始後数十分と経たず、犯罪企業複合体マルスは指揮系統を寸断され、各個撃破され、その巨体を食い荒らされつつあった。


 それに呼応し、未真名市内外と〈のらくらの国〉を問わず、別種の攻撃が開始されていた。

聖戦ジハード! 聖戦ジハード! 聖戦ジハード!」

 朝の赤光を待つことなく、手に手にSMGとアサルトライフルを構えた〈ヴィヴィアン・ガールズ〉の突撃部隊は市内十数箇所に点在する〈鏑木会〉の詰所、オフィスビル、ナイトクラブ、自動車解体施設、物資集積所などを襲撃した。

聖戦ジハード! 聖戦ジハード! 聖戦ジハード!」

 襲撃を受けた側も暴力を生業にする者たちである以上、用心はしていた──だが、殺到してくる怒り狂った少女たちの対応など、彼らの予想を遥かに越えていた。

聖戦ジハード! 聖戦ジハード! 聖戦ジハード!」

 何より、彼女たちの装備も練度も対抗組織や腕自慢の素人を凌駕していた。ほぼ何の抵抗もできないまま、彼らは銃弾で引き裂かれ、手榴弾で吹き飛ばされ、ロケット砲やグレネードランチャーで車ごと粉砕された。

聖戦ジハード! 聖戦ジハード! 聖戦ジハード!」

 彼女たちの目的はマルス重要拠点の襲撃だけではなかった。市内に混乱を巻き起こし、警察・ミリセクを含む各治安機関の対応能力を飽和させることもその目的の一つだった。

聖戦ジハード! 聖戦ジハード! 聖戦ジハード!」


【同刻 メイド喫茶〈ハリウッド・クレムリン〉職員専用エリア】

 未真名市の表でも裏でもない地域、光はあるが音も熱もない電子空間サイバースペース──そこでもまた、新しい戦いが始まろうとしていた。

「本当にいいのか、ソーネチカ?」

「何か言いたげね、アーリャ」

「そりゃ私らは言わば報酬次第でどこにでも雇われる電子の壊し屋だけど、それでも〈月の裏側〉そのものへの肩入れには慎重だったじゃないか。まして今回の敵は〈犯罪者たちの王〉──下手をすれば〈のらくらの国〉自体が吹っ飛びかねない案件だ。どういう心境の変化があったのか、聞かせてくれてもいいんじゃないのか?」

「高塔百合子からは悪くない額を提示された。オーナーの許可も取っている。これだけじゃ不満?」

「大いに不満だね。それとも、偽善者を突き詰めて失業者になりたくなったのかい? 君ってそんなに熱い女だったっけ?」

「決着をつけたくなったの。いろんなものにね」

「気の合う仲間と気に入っている職場を失くす覚悟で?」

「気の合う仲間と気に入っている職場を失くす覚悟でよ」

「わかったよ。ただし、始めたからには徹底的にやってくれよ」

「もちろんそのつもりよ」ソーネチカ──ソーニャは固唾を飲んでアーニャとの会話に聞き入っていた同僚や後輩たちを睥睨し、宣言した。「これより〈ハリウッド・クレムリン〉は〈犯罪者たちの王〉への全面攻撃を開始する。主目標はマルス──〈犯罪者たちの王〉の日本最大拠点、その犯罪産業複合体の各資産である! 狙うものは幾らでもある……政治家への裏金、お偉いさんのご子息をカジノで遊ばせるためのリベート、政府高官と重役秘書の密会場面と音声録画データ、〈濡れ仕事ウェットジョブ〉のターゲットリスト! 存分に荒らし、壊し、奪い、のち逃げよ! 初め!」


【同日 午前5時 未真名市内〈西海シーハイジーンテクニカ〉企業城下街】

 犯罪ビジネスは法律を味方につける必要がある、マルス経営陣はその鉄則を知り尽くしていた。したがって彼らが収益を上げる施設の大半は、クリーンな経歴の社員たちによるクリーンな目的の合法的な企業施設の顔を装う。

 血相を変えて一人の研究員が飛び込んできたこの実験室ラボもまた、表向きは人間の脳構造を模倣した生体コンピュータの研究開発ということにはなっていた。

「施設の放棄が決まった! 今すぐ素体を全部破棄して撤収しろ!」

「正気か!? ここがどれだけ重要だと思ってるんだ!」

「人も設備も後でどうとでもなる、撤収を最優先しろ!」

「わ……わかった!」

『……それは困るなー。この研究所自体が興味深い証拠物件なのに。あなたたちには悪いけど建物ごと差し押さえさせてもらうよ』

 若い女の声に、研究員たちがぎょっとして天井を見上げる。声は天井の排気ダクトから漏れ聞こえていた。

『やっぱりここが拠点だったかー。ロシアとの共同研究だったんだね、「生きた」コンピューターによる量子通信を応用した資金洗浄システムって』

 女の声に応え、天井から大量の粘液が排気ダクトを吹き飛ばさんばかりの勢いで雪崩れ落ちてきた。研究員たちに逃げる隙も与えず、手足に絡みつき動きを封じてしまう。

 一塊になって落ちてきた半透明の触手が解けると、そこに立っていたのはぼさぼさした頭髪にピンク色の眼鏡、オーバーオールをだらしなく着ただらしない顔つきの若い女だ。

「んもー、群衆操作クラウドコントロールなんてもっとガタイのいい男の人に任せてほしいよ。テシクさんとか龍一さんとか」

 もがいている研究員を半透明の巨大な目玉がきょろり、と見つめた。

「……蛸?」

「可愛いでしょ? 耐熱・耐圧・耐酸性、超高圧度の深海や絶対零度の宇宙空間でも難なく動ける『生きた』生体ゲルロボットだよ。頭もすごくいいんだよ、『お手』だってできるし」

 ドアを開けて現れるのは全身一体型のボディアーマーに、自動小銃と電撃銃テーザー複合銃コンビネーションガンで武装した警備員たちだ。非致死性の電撃銃ではなく、殺意も露わに5.56ミリ自動小銃の照準を向けてくる。

「誰かを殺したり痛めつけたりするんだったら、私はそこらへんのごろつきやマフィア以下。でも……」

 唸りを上げて飛来した銃弾は、しかし蛸がひょいと上げた透ける触手に次々とめり込み止まってしまう。当然、女は無傷だ。

「身を守ったり、相手を殺さず無力化したりするんなら、私は他の人たちよりは上手いよ?」

 半透明の触手が銃弾に倍する速度で振り回され、完全武装の警備員たちを玩具のように弾き飛ばした。目を回している隙に触手が絡みつき、たちまちその自由を奪う。

「もしもし、〈先生ティーチャー〉? こちら〈触手テンタクルズ〉、制圧完了したよー」

【お疲れさん。すぐに人と車をやる。悪いが、しばらく全員押さえつけててくれないか】

「それなら簡単だよー。できれば今日はこれ以上動きたくないしね」


【同日同刻 〈ホテル・エスタンシア〉最上階VIPルーム】

「今のところ、進捗は順調です。抵抗は予想範囲内に留まっています」

「抵抗の薄さが気にかかりますね」

「素人相手の暴力集団です。この段階で手間取っていたら先が思いやられる。本当に強固な抵抗があるとすれば、ここからかと」

 今や作戦司令部と化したVIPルームでは、百合子と崇が進捗を見守っていた。崇の報告を受けた百合子は軽く頷いたが、心から納得している顔ではなかった。

「……〈六本木動乱〉の時にこれだけの戦力があれば、メアリ・バーキンズを失うこともなかったでしょうに」

「あれは……あれはやむを得ないでしょう。本人もそう長生きするつもりもなかったようですし。それをあの小娘たちに言っても、まあ、納得はしないでしょうが」

「わかっています。わかっているつもりです」

 崇は一瞬、わかってねえじゃねえか、と言いそうになったが結局は我慢した。「たとえ空からの増援があっても、今なら充分に対処可能です」

「〈砦〉の構築はどうですか?」

「占拠地域からのアップロードは全体の63%まで到達しました。ファイヤウォールの突破に手こずっていますが、何しろこちらには〈神託〉の支援を受けた〈ハリウッド・クレムリン〉の電子戦部隊がついています。陥落は時間の問題です」

「アップロード完了次第、マルスそのものの解体を開始します。構成員への攻撃だけでなく指揮系統・資金洗浄・薬物調達・情報収集、そしてそれらを防衛するシステム自体を解析もしくは奪取し、組織としての体を為さなくなるまで攻撃を行います。同時に報道各社へ連絡、同グループと取引を行なった者全てのリストを公表してください。圧力があろうと無視できないほど徹底して、です」

 崇は頷いた。「今日こそを『マルス最後の日』にしたいもんですね」

「油断はできません。〈犯罪者たちの王〉の栄華、それが落日となるまで。……それから」

「何か?」

「……いえ。何でもありません」

 百合子にしては歯切れの悪い物言いだった。彼女がこういう口調になるのはが絡む時のみだ。甘ちゃんが、と崇は思ったがやはり口には出さなかった。


 巨大な組織がそうであるように、個々の判断で反撃に転じたセクションもなかったわけではない。


【同日 午前5時30分 さきがけ市と〈のらくらの国〉境界近辺】

 朽ちかけた自動車とコンテナが山を成す自動車解体現場を、物々しいシルエットの車列が行く。先導車となる防弾仕様のRV車が2台。ピックアップトラックを改造し、後部の荷台に機銃を搭載した簡易戦闘車両テクニカルが2台。そして甲虫にも似たシルエットを持つ市街戦用の軽戦闘車が1台。マルスの切り札、偽装戦闘車部隊が成す車列だった。

 車内に詰め込まれている戦闘員たちも無線内蔵の防弾ヘルメットとボディアーマー、アサルトライフルにSMGなど、対テロ部隊と比べても遜色ない重装備だ。

 犯罪組織の『常備軍』化は莫大な資金と人員を消費する。偽装戦闘車部隊の乗員たちには元軍人や傭兵も多く、現役時代とほぼ変わらない厳しい訓練でその練度を維持していた。当然、プライドも高い。

 ……のだが、車内の彼らは一様に不機嫌だった。

「それで? 俺たちが粉砕するべき〈敵〉とやらはどこにいるんだ?」

「仕方ないだろう。相手はせいぜい軽火器しか持ってない小娘なんだ。わっと集まってわっと逃げられちまったら、〈のらくらの国〉じゃ探しようがない。それとも、往来に向かって機銃でも乱射するか?」

「さっきの鏑木会の奴らの顔、『今頃来やがって』と言わんばかりだったぜ」

「てめえらの事務所が灰にされちまって頭に来るのはわかるが、こっちに当たり散らされてもな……」

〈ヴィヴィアン・ガールズ〉の「女の子の海から出て、女の子の海に隠れる」戦術に、彼らは後手後手に回らざるを得なかった。普段着同然の格好でAKと手榴弾を手に破壊の限りを尽くし、弾薬が尽きたらたちまち逃げる彼女たちを彼らの重装備では補足しようがない。通行人の身体検査などする権限は彼らにはなく、したところでこの界隈ではもっと剣呑な反応を引き起こしかねない。重装備と練度、そして高いプライドを持て余し、空振り続きの彼らは徐々にフラストレーションを溜めつつあった。

 まるでその隙を狙い澄ましたように──実際狙い澄ましたのかも知れない──襲撃は唐突に始まった。

「待て。何だ、あれは?」

 市街地に入る直前、先頭車両の運転手が不審なものを目撃する。人と比べても明らかに大きなそのシルエットは、

「……騎兵?」

 運転手だけではなく、テクニカルの機銃座に取り付いた射手までもが困惑する。実際、それは跨る馬までも甲冑に包まれた騎兵にしか見えなかった。長大な槍を右手に構え、左手で手綱を握りつつ、優雅でさえある態度で佇んでいる。だがそんなものがなぜここに、しかも車列の行手を阻んでいるのか……。

 彼らの逡巡は、しかし短かった。

「どうします?」

「撃った後で確かめろ」

「了解」

 マルスの濡れ仕事部隊ブラックオペレーションズの行手に立ちはだかる方が悪い──射手が機銃の狙いを定めた時、その視界が不意の白煙で遮られた。

「何だ!?」

 傍らの路面に転がり落ちた缶のような円筒状の物体が、もうもうと白煙を噴き出し周囲を覆い隠していく。

「落ち着け! 無闇に撃つなよ、赤外線暗視装置サーモビジョンを装着!」

 気を取り直した戦闘員たちが、ヘルメットに装着したゴーグルを眼前に下ろそうとした瞬間、彼らの全身を猛烈な衝撃が襲った。

 風が微かに吹き、立ち込める白煙をほんの少しだけ散らす。振り向いた機銃座の射手は絶句した。後方の軽戦闘車、その側面に取り付いた巨大な金属の塊が、2本の巨大な腕を軽戦闘車のタイヤの下に差し入れている。

 おそらくは大型重機の類なのだろう──2本の金属製のアームを持ち、しかもセンサーやカメラを兼ねた顔面らしきものが見て取れる重機があれば、の話だが。

 射手は思わず反射的に機銃を発砲してしまった。薄い金属なら容易に貫通する12.7ミリ弾はそいつの表面に当たって派手な火花を上げたが、貫通はしなかった。それどころか周囲の車両に向けて弾き返され、幾つかは穴を開けた。悲鳴が上がる。

「ば、馬鹿野郎! 撃つな!」

「何だこいつ!?」

 別に質問したわけではなかったのに、そいつは妙に気弱そうな青年の声で喋った。頭を下げている様子まで目に浮かびそうな声だ。【すいません……当然の疑問ですよね、これは『戦闘車両をひっくり返すことに特化したマシン』なんです……】

「そんなものあるか!?」

 思わず叫んでしまった射手の目の前で、軽戦闘車はタイヤを空回りさせながら完全に横転してしまった。緊急脱出用のハッチから乗員や戦闘員たちが這々の体で転がり出てくる。

【すいません……潰しますね】

「待て!」

 振り下ろされたアームがアルミ缶のようにテクニカルを押し潰し、運転手も射手も必死の形相で逃げ出した。

「怯むな! 迎撃体勢を取れ!」

突撃ーーーーーーーーーーーーーーっチャーーーーーーーーーーーーーーージ!」

 浮き足立った戦闘員たちに向け、今度こそあの〈騎兵〉が突進してきた。発砲するどころか逃げ惑うのがやっとの戦闘員たちを文字通り蹴散らし、乗り捨てられていたRV車をそのままの勢いで横転させる。

「お疲れ様でした。じゃ、しばらく寝ててください」

 息を吐く間も与えず、全身鏡面仕上げが美しいマクシミリアン甲冑の騎士がぬっと物陰から現れ、剣の柄でヘルメットの上から殴りつけて次々と戦闘員たちを気絶させていった。

「ふぅ……ざっとこんなものですわね。お疲れ様、〈戦車タンク〉さん」

【は、はい……〈騎士ナイツ〉さんも〈騎兵キャバルリー〉さんもお疲れ様でした。すいません……もう少し上手くやれたのに、僕の手際が悪くて……】

「えっと、手際が悪くって……」〈騎士〉が半壊した車両群と、半死半生の体で呻いている戦闘員たちを見回しながら困惑気味に呟く。「それ、ギャグで言ってます?」

【い、いえ、そんなつもりは全然ないんですが……すいません……】

「謝ってほしいわけではありません。これだけのことを成したのですもの、もう少し自信たっぷりになさったら?」〈騎兵〉は憤然となる。「あなたの手際を責める人なんてここにはおりません。責めてほしかったら、あなたを責めたい人のところへ伺ったらどうですの?」

【は……い、いえ、そんなつもりじゃ……すいません……】

「またそうやってすぐ謝る……」

「そ、それはともかく、これでマルス側の戦力は予備も含めてほぼ潰したみたいですよね?」

「おそらくそうでしょうね……向かってくるような気概のある方は、これで最後のようですし」

「〈ミーメットワーク〉や〈蒼星〉の方に回った皆さんは大丈夫かな……? マフィア子飼いの壊し屋と違ってあっちは本物の企業『軍』やミリセクですよ。小手先であしらえる相手じゃないのに」

「まあ……大丈夫じゃありませんの? あの人たちの方がもっと只者ではありませんし」


【同日 午前6時 〈ミーメットワーク〉未真名支社 最重要サーバールーム】

 突入したセキュリティ部隊員たちが目にしたのは、自らの血溜まりの中に伏した警備員たちと、血まみれでこちらを向いてにやりと笑う保安部長と、窓の外に音もなく浮かぶ、

「……光学迷彩ステルスヘリ!?」

 もはや言葉はいらない。銃口を向けるセキュリティ部隊員に、警備員の死体が枕か何かのように投げつけられる。バランスを取り直す間もなく、払い退けた腕の下から短剣が数度突き込まれ、たちまち3人が絶命する。

 だが抵抗もそこまでだった。仲間に息があるかどうかも確かめず撃ち込まれた銃弾が保安部長の足を止め、止めた隙にライフル弾と散弾の連射がとどめを刺す。

「あとは……頼んだぞ……同胞」

 彼が顔を上げたのはステルスヘリの中の「同胞」を見るためか。いずれにせよ、彼の心臓が停止すると同時に立て続けに爆発が起こり、書棚ほどもあるサーバーの固定ボルトと外界に面した窓、それらが粉々に砕け散った。


【同日同刻 〈ミーメットワーク〉未真名支社 上空数百メートル】

 パワーウィンチが唸りを上げてワイヤーを巻き上げ、大型のサーバーをビルから引きずり出す。ワイヤーとサーバーの重量で揺れるヘリを、しかしテシクは見事な操縦で安定させた。遠ざかるビルの中、セキュリティ部隊の一斉射撃でずたずたに引き裂かれて崩れ落ちる保安部長の姿が一瞬だけ見えた。

「祈らないのか?」

「まさか。彼も本望でしょう」副操縦席のアレクセイは朗らかに言う。朗らかすぎる口調が余計におぞましいな、と思った。「それに、ご自分のことを心配した方がいいんじゃありませんか? さすが〈ダヴィデの盾マゲン・ダヴィッド〉が誇る企業セキュリティ、そうやすやすと逃がしてはくれなさそうですよ」

 テシクの目が後方から迫る、黒々とした異形の影を捉える。「……来たか」


「地上班が泣きついてくるなんてよっぽどの相手だな。まあ、確かにサーバーをするなんて、だいぶ毛色の変わった相手ではあるが……」

「違約金を払って撤退した方がダメージは少ないと判断したんだろう。警備会社が機を見るのに敏すぎるのも良し悪しだな……まあ、いい。仕事をするぞ」

 前部座席砲手ガンナーの苦笑に、後部座席の操縦手パイロットが応える。嘴に似た機首大型機銃と、二重回転翼。蝙蝠の翼にも似た大型のウェポンベイには、対戦車ミサイルだけではなく地上掃討用の自爆ドローンまで搭載されている。

 識別名〈カリュプディス〉。〈ミーメットワーク〉から委託を受けた〈ダヴィデの盾〉が都市部に投入できる戦力としては最大規模の、異形の戦闘ヘリだ。

「上も気前がいいこった。仮にも市街地上空で火器の無制限使用許可オールウェポンズフリーだとよ」

企業敷地内での治外法権エクストラテリトリアリティを発動するそうだ。仕留めれば今期のボーナスは堅いな」

 パイロットは操縦桿を前方に倒す。ローターに加えて2基のジェットエンジンまでもが火を噴き、蹴飛ばされたように戦闘ヘリが加速する。ヘルメット一体化ディスプレイの中で目標のヘリが見る見る接近していく。

「エンジン回りは強化しているようだが、所詮は余計な重りをぶら下げた民間機だ……」

「ミサイルなんか使ったら経理に怒られそうだ。機銃弾で充分だろ」

 楽な仕事だ、と呟きながらガンナーが兵装選択スティックのトリガーに指をかける。狙いを定め──ようとしたその視界を、予想もしていなかった黒い影が猛烈なスピードで横切った。

「何だ!?」

所属不明機アンノウン! レーダー圏外からいきなり現れた!」

 馬鹿な、と表示データに目を走らせたパイロットは絶句する。「鳥に出せる速度じゃない……飛行機やヘリでもない。第一こいつは……!」

「……ま、当然そう考えるよね。プライドが山ほど高いキミたちが、自分たちの本社ビル上空をぶんぶん飛ばれて黙ってられるはずがないって」

 白々と明るくなっていく空に、少年のように歯切れの良い笑い声が響く。

 乗員2人の視界で、急速に大きくなってきた黒点が目を見張る速度で旋回する。空気抵抗を減らすためのとんがり帽子、目の防護を兼ねた多目的ゴーグル、エンジンとジェットノズルを考えられる限りごてごてと搭載した金属製の箒。スチームパンク風味の魔女といった風情の少女が彼らに笑いかけてきた。

「それを邪魔するのが、ボクの役目ってわけさ!」

「空戦用エアバイクだと……」ガンナーとパイロットが二人して驚愕する。「あんなもの、設計段階で廃棄されたゲテモノじゃないか……実際に作られたなんて聞いてないぞ」

「相棒。あのハロウィンもどきが何であるかを追求するより、あいつをに思いを馳せた方が建設的だぜ」

「違いない。……自爆ドローンを出せ。企業敷地内に不法侵入した以上、手加減はなしだ。素性なんか撃った後で確かめればいい」

 ウェポンベイ搭載下の自爆ドローンたちが切り離された。一瞬落下した後、飛ぶと言うよりは滑るような姿勢で〈魔女〉に殺到する。

 一列に並んだね、と〈魔女〉は笑う。「それじゃ行くよ!」

 次の瞬間、ヘリの乗員たちは目を疑った。箒に跨っていた〈魔女〉が、速度をそのままに身を躍らせたのだ。

「何を考えているんだ?」

 箒の推進力がなくなれば、後は推力を失って落ちるだけだ。だがそこで乗員たちは確かに見た── 箒の柄が外れ、細く、薄く、長い「何か」が滑り出る微かなきらめきを。

「あれは……あれは、剣の鞘か!」

 細く、薄く、長く、しなやかでそして折れず切れない、形状記憶合金の刃が鞘走る。

 今にも殺到しようとしていた自爆ドローンの群れが、鮮やかな断面を見せて一瞬のうちに切り裂かれた。自爆機能ごと断ち切られたのか、爆発すら許されず細かな部品を撒き散らして石のように落下していく。

「うっわ怖かった! よく自分でも落ちなかったなって感心するよ! ねーねーおじさんたち、今の見てた? スゴかったでしょ!」

 再び箒に跨り直して上昇していく〈魔女〉の姿に、パイロットが低い声を出す。

「……ミサイルも使え。ここからが本当の無制限使用許可だ。お前の言う通りだ……あいつが何だろうと、ここで潰す」

「そう言うと思ってな、相棒、安全装置セフティは外しといたぜ」

 視線こそ交わせなかったが、2人は同時に頷く。サーバーを吊り下げてふらふら飛んでいるヘリなど後回しだ。

 ロケットエンジンが咆哮し、〈魔女〉を空中で跳ね飛ばさんばかりの勢いで突進する。

「一騎打ちってわけ? いいよ、そういうの大好きさ!」

 破顔する〈魔女〉に向け、機種下の12.7ミリ機銃弾が殺到した。が、

「当たらない!?」

「くそ、どうなってやがるんだ、あれだけ高速で飛び回れば回避行動もパターン化を免れないはずだ!」

 歯噛みする戦闘ヘリの乗員たちとは対照的に、〈魔女〉は「ほっ」と掛け声とともに機銃弾を避ける余裕を見せつけている。

「さすが〈オラクル〉謹製の弾道予測プログラム。これならダンスゲームの方がよっぽど難しいや」

 だが、ガンナーは完全に冷静さを失ったわけではなかった。機銃弾を無作為にばら撒くように見せかけながら、〈魔女〉の回避を先読みし、

「もらった……!」

 一直線に対戦車ミサイルが放たれる。かろうじて躱した彼女は、しかし時間差で発射されたもう一発のミサイルに目を見開く。

「ドローンの動きは読めても、人間の悪意までは読めなかったな……!」

 だが〈魔女〉はなおも不敵に笑う。「そう来なくちゃ!」

 箒から飛び降りてミサイルの上を、轟音とともに迫るもう一発のミサイルへ刃を一閃させる。まるで果実のようにミサイルが切り裂かれた。

 踏み台のようにミサイルを跳躍する。背後で二発のミサイルが同時に爆発、その爆風でさらに跳躍を伸ばした。行き着く先はヘリの、

「真上を取られた……」

 だがどうする気だ、とパイロット。「むざむざローターで切り刻まれるつもりか?」

 そんなわけないじゃん、〈魔女〉は笑う。「確かにボク、空を飛ぶのは大好きだけど──」

 箒を掴んだ右手が一閃する。「のはもっと好きなんだ!」

 兜割り。強靭だが柳の枝のようによくしなる形状記憶合金の刃は、機銃弾にさえ耐えうる戦闘ヘリの装甲相手では容易に跳ね返されるはずだった──

 落下のスピード、プラス、ヘリとの相対速度を与えられた刃は、ヘリの最大の弱点であるテイルローターを根本から切り落とした。

 ガンナーとパイロットは一瞬だけ沈黙し、そして声をそろえた。

「「嘘だろ!?」」


「めちゃくちゃですね」テイルローターを失った戦闘ヘリがどうにか高度を維持しながら敷地内へ引き返していくのを見て、アレクセイは珍しく呆れ顔をしている。「ご存知ですか? あの〈スキュラ〉、一機2000万ドルですよ。あんな曲芸で落とされたらたまったもんじゃないでしょう」

「曲芸だろうが手品だろうが、撃墜は撃墜だ」テシクが取り付く島もないのは、サーバーの重量でヘリのバランスを保つのに忙しいからだ。「それにあの〈刃〉だって、お前ら〈ヒュプノス〉からの技術提供だろう」

「僕たちが差し上げたのは基幹技術だけですよ。それをエアバイクに『組み込む』なんて風邪引いた時の悪夢みたいな代物に仕立てたのは、あなたたちでしょう」

「使いこなせたのはあの娘っこだけだ。俺たち全員にできると思われても困る」

「……ですがまあ、おっしゃる通り。どんな奇抜な手だろうと成功は成功です。それにあの施設はあなたたちだけではなく、僕たちにとっても目障りでね」

「それでお前らがやけに協力的だったのか」

「量子通信〈ヒュプノス〉が再現できるなんて、おこがましいし的外れだ……とは言え〈ヒュプノス〉の手がかりぐらいへは指をかけていた。芽のうちに摘んでおく必要があったんです」

「あそこでは〈ヒュプノス〉のリバースエンジニアリングを試みていたってことか? つまり、お前らの五感共有は量子通信ってことだな?」

「おっと、これ以上は言えませんね……あなたが〈ヒュプノス〉の一員となってくれるんならもう少し詳しい話をしてもいいですが」

「断る」

「ねーテシクさん、そろそろ引き上げてよー」ワイヤーで吊り下げられたサーバーにしがみついた〈魔女〉の声がヘリのコクピットまで切れ切れに聞こえてくる。「もう燃料がないからそこまで昇れないんだよー。それに寒いし、さっきから落ちそうで怖いよー」

「無茶言うな。こちらもバランスを保つので精一杯なんだ。お前がそのワイヤーで登ってくればいいだろう」

「そんなあ! 意地悪言わないでよー!」

 アレクセイは苦笑する。「……まさか本気で言ってないでしょう? 彼女が助けに来なかったら僕もあなたも、今頃は空の塵ですよ」

 お前に言われるまでもない、と仏頂面でテシク。「あと5分もしたら引き上げてやるさ……この際、代わりにお前が飛び降りたらどうだ?」

「ひどいなあ」


【同日同刻 〈ホテル・エスタンシア〉最上階VIPルーム】

 どうも妙だな、と崇は呟く。「敵の抵抗がやけに。マフィア子飼いの暴力屋だの違法企業の傭兵だの、二線三線級の奴らばっかりだ」

「何かの罠とも考えにくいですね」と百合子。「予備戦力も繰り出されてはいますが、いずれもこちらの想定内です。それに、何かの罠なり戦術なりがあれば、既に繰り出されているはずです。出し惜しみする必要もありませんから」

「ええ」崇は頷いた。「順調すぎて気に入らない」

 未真名市全土を表示する3Dマップを見ても、〈マルス〉側はろくに連携も取れないままに各個撃破されているとしか思えなかった。それならそれで構うものか、とは思う。多少の反撃があっても修復不可能なほどに〈砦〉を完成させちまえばいい。

 だがその一方で、崇は胸中でざわめく不安も消し切れないでいた。空調完備のはずの室内で首筋が妙にぬるぬるとしている。順調だ。今のところは何もかも順調のはずだ。だったら何だってんだ、このとてつもなく嫌な予感は?


 そして同じ頃──正午を待たずして、マルス最後の一角〈蒼星〉未真名支社に対し、〈月の裏側〉最大規模の攻勢が始まろうとしていた。


【同日 午前7時 〈蒼星医療公司〉未真名支社最上階 大会議室】

 オフィスよりは古代遺跡を思わせる御影石造りの廊下を、その初老の男は王族のような足取りで歩く。背後には護衛だろう、無個性なスーツを着た若い男女が一対。

 生体認証及び火器感知センサーが一瞬で全身をスキャン、承認。分厚い防爆ドアが音もなく開いた。

【最高経営責任者が到着されました。ご一同、ご起立願います】

 ホストAIの合成音声に合わせ、座っていた重役たちが糸で引かれたように一斉に起立する。彼は鷹揚に頷き、手で着席するように促した。

 全員が着席し、やがて呼吸音が聞き取れるほどの静寂が訪れる。

「では、諸君」

 彼は重々しく頷き、口を開いた。「

 ひび割れた革のような無表情を保っていたCEOが一転、破顔した。笑いながら顔面に薄く貼り付けた生体認証突破用の欺瞞マスクを剥ぎ取る。

 背後の護衛たちもマスクを剥ぎ取り、それぞれ〈豊穣の角〉〈火落〉の若々しい顔を露わにする。

 顔にこびりついたマスクの残滓を擦りながら、〈火落〉が感慨深げに言う。「〈蒼星〉の首脳陣をほぼ全員〈ヒュプノス〉に入れ替えておくなんて、どれだけ周到なのかしら」

 CEO以下〈ヒュプノス〉に入れ替わられた〈蒼星〉経営陣の生体情報は全て本物である。無論、それ自体は厳重なセキュリティの施されたデータベースで管理されてはいるが──それを管理しているのも〈神託〉なら、〈ミーメットワーク〉社から文字通り「強奪」されたサーバーへ何事もないかのように欺瞞情報を送り続けているのも〈神託〉だ。

「すげえな。経営陣がこっちの味方なら、重火器でも何でも持ち込み放題かよ」

「家主が手引きをしているんだ。考えてみればこれほど手堅い強盗もないな──そら、荷物が着いたぞ」

 核シェルターに匹敵する分厚さを誇る天窓が全て開放され、テシクの操るステルスヘリがワイヤーで吊り下げた金属塊を慎重に降ろしていく。

 それは先刻〈ミーメットワーク〉から強奪されたサーバーなのだが、それに複数のバッテリーや機械部品、通信アンテナが増設されて似ても似つかないグロテスクな物体と化している。

「テシクは大活躍だな。〈ミーメットワーク〉からあれを盗んで、合流地点で給油を済ませたらまた配達、あとはヘリから地上の指揮を取るって?」

「なんせ私らのうちでヘリの操縦に一番長けているのが彼だからなあ……」

 ステルスヘリは手を振っている〈豊穣の角〉と〈火落〉に向け、挨拶がわりにテイルローターを大きく振ると、また飛び去っていった。

「こいつが文字通りの『爆弾』というわけかね?」

「そ。これを定刻通りまで守り切れば、俺たちの勝ち。守り切れなかったら負け。シンプルだろ? ……〈火落〉、そこのデスクに情報端末用の接続ポートがあるだろ。直結してくれ」

〈火落〉が機械と接続ポートを即座に繋ぐ。「でも、幾ら増設はしていても処理速度は足りるの?」

「そのための〈ヒュプノス〉だ。並列して処理速度を上げてくれるってさ」

 奇妙なほど滑らかな動きでマルス経営陣に扮した〈ヒュプノス〉たちが金属塊から突出したチューブを自らの動脈に突き刺していく。

「〈蒼星〉経営陣全員の生体認証をキーに、経営者権限で本国も含めた〈蒼星〉の全資産を凍結する。何しろ生体情報そのものは本人の本物なんだ。下がおかしいと思っても、ボスからの指令じゃ従うしかない」

「事実上、〈蒼星〉の……いえ、マルス最後の日となるわけね」心なしか、〈火落〉は感慨深い顔をしている。

「それにしても血を燃料にして動くハッキングマシーンとは、またグロテスクな……」

「〈倉庫〉の趣味さ。本当ならこんなゴテゴテした見た目にする必要もないんだ、8割ぐらいがハッタリだからな」

 チューブの中を赤黒い粘液が逆流し、やがて機械と彼ら彼女らの間を循環し始める。

「人間増設回路か……まるでSFだね」

「せめてサイバーパンクって言ってくれよ、お爺ちゃん」

「……脳波か何かを読み取らせるんじゃないの?」

「『この方がいい』だそうだ」

「つまり、君たち〈ヒュプノス〉の人格共有は……血を媒介に行われるのかね?」

 なかなかいいご指摘です、と〈ヒュプノス〉の一人が朗らかすぎる笑顔を向ける。「ですが、それ以上の詮索はなしにしていただきましょうか。もちろん、我らが一員になるおつもりなら話は別ですが……」

〈豊穣の角〉も〈冥土の使者〉も〈火落〉も、みな無言で首を振った。


【同日同刻 某所】

「〈聖母の嘆き作戦オペレーション・スターバトマーテル〉の戦訓に、さらに一捻り、か。なるほど、確かにメアリ・バーキンズの二の舞は演じたくなかろうよ」〈犯罪者たちの王〉は呟く。「この半年、君たちも私に対抗すべく準備したのだろう。過去の戦訓を研究し、力を蓄えたのだろう。……始めろ」

 はい、と手術台のような長椅子に横たわる彼女──アンジェリカは頷く。彼女が装着するヘッドギアはゴーグルとほぼ一体化しており、彼女の白く小さな顔をほとんど覆い隠している。「〈荊冠スローン〉起動」

「だがそこで思い至ってほしくはあるな ──そう、君たち同様、君たちの敵もまた強大化したのだ」

 周囲の機械群が甲高い作動音を上げ、共振を響かせる。まるで悲鳴のように。

「マルスなどただの道具だ。欲しければくれてやる──だがその代わり、君たちからそれ以外の全てを貰うよ」


【同日同刻 〈ホテル・エスタンシア〉最上階VIPルーム】

「何だ?」

 崇は自分の声に自分で驚いた。よほどおかしな顔だったのか、訝しげに百合子が覗き込んでくる。

「望月さん、どうかしましたか?」

 崇は口ごもった。自分でも上手くそれを説明できなかったのだ。「何か……変だ」


【同日同刻 〈ハリウッド・クレムリン〉職員専用エリア】

「腐っても〈王国〉の防衛システムだね……下手打つと軍事基地並みのスピードで逆探知かけられる!」

デコイを忘れるな! いざとなったらクラウドごと落とす!」

 電子の戦場とは対照的に〈ハリウッド・クレムリン〉のオフィス(口さがない者は『ハッキング・ルーム』と呼ぶ)は喧騒に包まれていた。ただでさえ喧しい十代、二十代の娘たちのお喋りが、本当に戦争状態にあるのだから無理もない。

 その喧騒が、不意に止んだ。欧米人なら「天使が通った」と形容するだろう、あの静寂だ。

「みんな……どうしたの?」

「あたしにもよくわかんねえ。わかんねえけど……なんか超絶嫌な予感がした」


【同日 午前8時 〈蒼星医療公司〉未真名支社最上階 大会議室】

「……おい、どうした!?」

〈豊穣の角〉は絶句した。並列処理中の〈ヒュプノス〉たちがいきなり全身を床に激しく打ちつけ、血の混じった泡を口の端から噴き出して痙攣し始めたのだ。

〈火落〉がリボルバーを構え直した。「……何か、来る」


【同日同刻 未真名市上空数百メートル】 

「……アレクセイさん! どうしたんですか!?」

〈魔女〉が悲鳴を上げるまでもなく、テシクは異変に気づいていた。傍らのアレクセイが目尻を張り裂けんばかりに見開き、小刻みに痙攣している。シートベルトがなければ座席から転がり落ちんばかりだった。

「どうした!」

「わ……わかりません」アレクセイは言葉を絞り出したが、それもかろうじてという調子だった。「〈ヒュプノス〉間の……たちとの交信が……途絶した……」

「そんなことがあるのか? 『傍受も妨害も不可能』とやらがお前たちの売りじゃなかったのか?」

「本当にわかりません……でもそうとしか言いようがない……〈ヒュプノス〉間の人格共有ネットワーク自体が、攻撃を受けているとしか……」

「テシクさん、あれ! 地上が……」

 再びの〈魔女〉の悲鳴に振り向いたテシクは目を疑った。「何だ、あれは……!?」

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