幕間 竜の夢、王の夢
──夢の中で、彼は他の誰かになっていた。
両掌を目の前に広げ、彼は困惑した。毎日見る皺だらけの己が掌とはまるで異なる、張りのある肌に包まれた力感溢れる両掌だ。視線の高さもまるで違う。こんな高さから世界を見つめたことなどない。
夢に違いない、とは思う。誰かの夢の中であることはわかる。しかし、これは誰の夢なのだ?
呼ばれて彼は振り向く。それは自分の名ではない。だが、今のこの身体の名であることはわかる。
振り向いた──彼の眼前で、何もかもが燃えていた。文字通り何もかもが。彼のよく知る人もよく知る物も。
夜空を切り裂いて何十機、何百機もの自爆ドローンが飛来する。手近な建物に窓から飛び込むと、一瞬遅れて大音響と共に紅蓮の炎があらゆる開口部から吹き出す。よろめきながら、燃えながら出てくる襤褸布のような人々を、続く飛来物が今度こそ跡形もなく吹き飛ばした。
天を焦がすほどの熱風と、初めて訪れたはずの異国の看板を見るまでもなくわかった──ここは沖縄だ。
浮遊材を用いた数キロ四方の海上プラットフォーム、その至る所が燃え盛っていた。周辺には機銃を搭載した警備ボートが紹介し、武装した警備員が詰め所に控えていたが、それがどうしようもない惨状だった。空に向けて悲鳴のように機銃を乱射していたボートが次々と燃え上がり、真二つに割れて沈んでいく。
嵌められたんだ……「偽装核」は運び出された後だ。
そう虫の息で告げた仲間が、数十もの銃火を浴びて崩れ落ちるのを見た。瀕死寸前のゴミ処理インフラを支えていた処理車が、火の玉になりながらも交差点を走り抜けるのを見た。
「この身体」の悲哀を我がことのように感じる。どうしてだ!? 俺たちは何を間違った!?
黒いヘルメットに黒いボディアーマーの、人間大の昆虫のような兵士たちが、至るところで殺戮を繰り広げていた。一言も発することなく
彼を止めたのは、黒い兵士の一人が轟音と共に真横へ吹き飛んだからだった。
龍一、また眉間にシワが寄ってねえか?
にやついた男が、まだ煙を砲口から上げている擲弾筒付き自動小銃を構えて立っていた。ずたずたにちぎれた極彩色のアロハシャツは、倒した兵士から剥ぎ取ったらしいボディアーマーと同じぐらい場違いに見えた。下半身が近所へ買い物にでも行くような短パンにサンダル履きとあっては尚更だ。
自分は、この身体の持ち主は、この男を知っている。
ジンさん、皆が……。
知っている、と男は少し表情を改めた。
……ここを切り抜けられれば幾らでも調べる時間はあるか。
わかってるじゃねえか、と仁は笑い、ホルスターから山刀を放って寄越した。んじゃ、野蛮人の時間を始めようか。
ほぼ同時に2人は動いた。霞んだようにしか見えない速さだった。
龍一の目を通してでさえ、彼は信じられなかった──仁が腕を一振りしただけで、黒い兵士の首に鉄パイプが深々と突き刺さっていた。瞬く間に数メートル離れた別の兵士の首を掴み、真後ろにへし折っている。
龍一もまた凄まじい速さで動いていた。ボディアーマーの隙間から山刀で心臓を貫き通し、血を奮って別の兵士の足を薙ぎ払う。
何という殺しの
轟音がそれを断ち切った。ああくそ、という仁の小さな罵声。
彼の脇腹が拳一つ分、大きく抉り取られていた。大口径ライフルによる狙撃だった。
仁さん!
……99人の敵を倒しても、残りの1人に倒されちゃ意味はねえわな。
首に鉄パイプを突き刺された兵士が、頭をヘルメットごと叩き割られた兵士が、そして首を切り落とされた兵士が、悪趣味な操り人形のようにぎごちなく起き上がる。ヘルメットの割れ目から、兵士の目が見える──金色の光を放つ、縦に割れた瞳孔が。
その程度ではあれは死なない。私がそのように設計したのだから。
仁さん、傷が……。
慌てるなよ。だいぶ楽しくなってきたじゃねえか。
何か言おうとした龍一に、聞け、と仁は低く言った。
ミマナへ行け。あの街には全ての犯罪が集まる。
顔は見えないのに、彼は仁が笑っていることがわかっていた。ようやく世界が俺たちに関心を持ってきたんだぞ──今まで泣こうが怒鳴ろうが、振り向きもしなかった世界が。
遺言みたいな言い方するなよ!
遺言だよ。いいか。お前が一人で行くんだ。一人でも、行くんだ。
言いながら仁は龍一をひょいと後ろへ放り投げた。頭二つ分は上背のある龍一をボールのように。
唐突すぎて海に落ちたことさえわからなかった。必死で水を掻き、水面に顔を出した瞬間──業火と轟音が顔面を叩いた。
叫んでいることにすぐには気づかなかった。その叫びを圧して衝撃波が全身を叩いた。世界が割れて砕けるような轟音。
視界の中で、雑多な住宅を載せるだけ載せた海上プラットフォームが、爆圧に耐えかねて真っ二つに割れた。海辺に作られた砂の城のように、あるいは熱湯を浴びせられた砂糖菓子のように、ぼろぼろと全体が崩れていく。沈んでいく。人も物も何もかもが。
泳がなければ。溺れている場合ではない──だが、もがけばもがくほど重く冷たい海水は全身に絡みついていくようだった。
殺す。
薄れゆく意識の中で、鈍い囁きがどす黒いマグマのように彼の全身へ染み入ってきた。それが相良龍一のものであると、彼は確信していた。
──お前がどこの誰だろうと、地の果てまでも追い詰めて殺す。
荒い息を吐いて、彼は暗闇の中で目を見開いた。
両掌を目の前に広げてみる。荒れた、皺だらけの、いつも通りの自分の両掌だ。
あれはただの夢だったのか? それにしては生々しすぎる夢だった──
「魘されていたようだね」
気づけば、一人の青年がそこに立っていた。気づけば、としか言い様がない。本当に直前まで何の兆しもなかったのだ──人が夢に落ちる瞬間を知覚できないように。
全身が白の装い。仕立ての良いスーツは染み一つなく白、上等な革靴も白。ただ髪と瞳のみが茶色い。
驚きはしたが、畏れはしなかった。この青年の素性を考えれば力の差どころの騒ぎではないのだが──だからと言って這いつくばる必要もない。少なくとも彼はそう思っている。
「夢を……観ていた」
「どんな?」
「私がこれから殺す男の夢だ」
彼か、青年は納得したように頷く。「夢にまで見るなんて、まるで恋焦がれるようじゃないか」
そんなことはない、言おうとして彼はやめた。「ある意味、そうなのかも知れない──彼の者について考えるだけで、私は半生を費やしたからな」
「しかし、天蓋付きとまではいかないが……君の身分ならもう少し豪奢な寝床に寝てもいいんじゃないかい? その粗末な鉄のベッド、偏屈な修道僧みたいだよ。君は曲がりなりにも〈犯罪者たちの王〉なんだろう?」
「そんなことを気にするのは、君ぐらいだ」
「ヨハネス」
「何だ?」
青年は微笑した。「その調子だ」
その言葉を最後に、青年は消えた。現れた時と同じように光も音も発せず。
「……途中経過を観察しに寝床までやってくるとはな。勤勉な悪魔だ」
頼まれるまでもない、と暗闇の中で彼は息を吐く。「地獄に落ちる前に、彼の者を殺すとも」
──夢の中で、彼は他の誰かになっていた。
両掌を目の前に広げ、彼は困惑した。毎日見る大きな──自分でも大きすぎると思わなくもない己が掌とはまるで異なる、向こうが透けて見えそうなほと痩せ衰えた両掌だ。視線の高さもまるで違う。こんな低い姿勢から世界を眺めたことなどない。
夢に違いない、とは思う。誰かの夢の中であることはわかる。しかし、これは誰の夢なのだ?
暗く、狭く、そして寒い部屋だった。空の胃が縮み上がる感触と同じくらい、骨の髄まで滲みそうな湿った寒さが彼の全身を苛んだ。天井から吊り下げられた裸電球が、骨と皮ばかりの彼の手足と、調度どころか人間味を感じさせるものの何一つない室内を照らしていた。電球の他には、石造りの床に開いた排水口が一つ。他には何もない。いや、もう一つあった。彼の手足を戒める重い金属の枷だ。
誰も彼に笑い方を教えなかった。誰も彼に泣き方を教えなかった。
差し入れられる食事は一日一回。水と、干からびたパンか肉のみ──さほど彼に生きてほしいと思っていない代物だった。あるいは、じわじわと殺すという程度の関心さえなかったのかも知れない。
気づけば、一人の青年がそこに立っていた。気づけば、としか言い様がない。本当に直前まで何の兆しもなかったのだ──人が夢に落ちる瞬間を知覚できないように。
全身が白の装い。仕立ての良いスーツは染み一つなく白、上等な革靴も白。ただ髪と瞳のみが茶色い。
死にたいかね。
彼は困惑した。青年の言葉の内容ではなく、自分に語りかける者がいること自体理解できなかったのだ。自分を見下ろしてくる穏やかな茶色の瞳を見返しながら、彼は首を振った。なぜ頷かなかったのかは──自分でもわからない。
君に決めた。君こそが
何一つわからなかった。彼が何者で、なぜそんなことを言うのか──だが、彼が自分に何事かを切実に期待していることだけは見て取れた。
なら、そこから出たまえ。
彼はまた困惑しなければならなかった。この青年は何者で、なぜそんなことを言うのか。
出られるよ、と青年は静かに言った。君を戒めるものはもう何もない──君がそうあれかしと望めば。
しかし、と彼は自分の腕を上げようとして、そして鈍い音を聞いた。鎖は見る影もなく赤錆びて床に落ちていた。
異様な音が部屋中に響き渡った。それが自分の喉から発せられていることに気づくまで、やや時間がかかった。生まれて初めて、彼は腹の底から笑っていた。こんなもので自分を戒められると思っていた者たち全てを──そして、そこから逃げることさえ考えつかなかった自分を。
廃墟のように静まり返った「自宅」を彼は歩いた。灰色の牢獄に比べれば目も眩むような色彩の中を。想像もしなかった繊細な装飾を施された燭台を見た。本物の薪が燃える暖炉を見た。顔が映るほどに磨き上げられた食器棚と、中に収められた芸術品のような無数の皿を見た。
探していたものはすぐに見つかった。意外な、意外すぎる姿で。
豪奢な食卓の上に、小さな、小さすぎる生き物が這っていた。一撃で叩き潰せそうな脆弱な生物──2匹の蝸牛だった。それがかつて自分の「両親」であったことが、なぜかわかった。
どうする?
問われる前に、拳を振り上げていた。振り下ろそうとして──やめた。
何もしないのかい。
青年が不思議そうに問うた。言葉の代わりに、彼は首を振った。殺す必要はない。自分に両親などいないし、これはただの蝸牛だ。
それだけで通じたようだった。青年は微笑した。嬉しそうな笑顔だった。
行きなさい。世界が君を待っている。
彼は頷き、かつての「両親」に永遠に背を向けて、戸口へと歩き出した。
荒い息を吐いて、龍一は暗闇の中で目を見開いた。
両掌を目の前に広げてみる。荒れた、張りのある肌に覆われた、いつも通りの自分の両掌だ。
あれはただの夢だったのか? それにしては生々しすぎる夢だった──
どうかしたの、と傍で寝ていた夏姫が眠そうに言う。
「夢を見ていたんだ」
「どんな夢?」
「俺がこれから殺す男の夢だ」
ふぅん、と夏姫はやはり眠そうに呟いてから寝返りを打った。大して興味もなかったのだろう。
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