あしあと
春田康吏
第1話
全身がだるい。全身が脱力感に包まれている。体が宙に浮いているようにも感じるし、地についているようにも感じる。
どっちが上でどっちが下なのか、生きているのか死んでいるのかさえも分からない。
真っ暗な世界の中で意識をはっきりさせようと、懸命に力を入れてみる。
一度ではうまくいかず何回目かでようやく遠くの方から、誰かの名前を呼ぶ声が聞こえ始めた。
「ヨシヒト、ヨシヒト、ヨシヒト」ヨシヒト?
「よしひと、起きてって。聞こえる?よしひと……」よしひと?いや、良ヒト?分からない。
疲れたのでまた眠りにつこうと思ったとき、またその名が繰り返された。
はっ!目を開けた。その鼻の先には、見覚えのある女性がいて叫んでいた。
「先生、先生、良仁が、良仁が……」どうやら僕は、どこかのベッドで横になっているようだった。
体がずっしりと重い。
さっきの脱力感はまだ続いているようだった。
頭もぼんやりしていて、すべてにおいて中途半端な感じがした。
高校二年だった僕は、夏休みだということもあってかバイトに明け暮れていた。
もともと金に困っているわけでもなかったのだが、みんなやってるから。と言う理由で始める事にした。
コンビニで情報誌を買ってきて、適当にこれだと思うところに電話をかけてみると、十分程度の面接で「それじゃ、いつからにする?」と言われ、即決まった。
そういうことで、バイトに明け暮れていた。
夏休み中は、ずっとバイトづくしの日々なんだろうな。と思っていた。
月曜日。
僕は、いつものように白いご飯と味噌汁に卵焼きもついた日本の朝ごはんを済ませ、
二階の自分の部屋でテキストとノートを交互に見比べながら、
必死に汗を流していた。
バイトに明け暮れるとはいえ、宿題もあるし進学校でないにしろ、
進学も考えていたので勉強をしなくちゃならない。
本棚から何冊か参考書も取り出してきて、ようやく微分積分がすらすらと解けるようになった頃、
前に置いてある時計を見ると十一時近くになっていた。
もう行く時間だ。
「良仁、夕飯はどうするの?」靴にはきかえていると、向こうからおふくろが叫ぶ。
「あとで連絡する」一言だけそう言うと、勢いよく家を飛び出した。
車庫のすみっこに止めてある赤いマウンテンバイクに乗って、
グッとペダルを踏み込んだ。
最近の出かける時の相棒は大体こいつだ。
坂を下って行く時、向こうの方に入道雲が見えた。
午後からは雨が降るかもしれないな。と思いつつ、
メイン道路に出ると、立ち乗りになって先を急いだ。
体に当たる風が、Tシャツの中をすり抜ける。
今日は猛暑も猛暑ですごく暑かったので、風が当たって心地良かった。
しかし、そんな心地良さも束の間で、踏み切りを越えて十分ほどで、
道路わきに「満腹亭」と書かれた小さな看板の裏に回っていった。
止まった瞬間、体中から一気に汗が噴き出る。
それと同時に、今度は鼻の中にカレーの匂いが入ってきた。
すぐ目の前にある裏口の戸を開けて、かけてあったエプロンを手に取ると、急いで後ろで結んだ。
そして目の前にいる全く気がつかない源さんの背中に向かって、
「よろしくお願いします」と大きな声で言った。
すると、ようやく源さんは気がついて振り向いた。
「おう、良仁か。今日も頼むよ」源さんと言うのは、主人の愛称。
ここは、よく町に数軒くらいはある小さな定食屋だ。
夫婦で切り盛りしている。
日替わりランチがあって、月曜日の今日は、カレーライスセットだった。
「じゃ、お前はサラダを作ってくれ」額に汗を浮かべた源さんは言った。
「はい」僕は、冷蔵庫から必要な野菜を取り出してきて、
源さんのとなりでサラダを作る。
厨房にクーラーなんてものはなく、カレー鍋の熱も伝わってか、
汗がじわーっと出てきた。
あとは、ドレッシングを作るだけというところで裏口から文恵さんが入ってきた。
「こんにちは」
「あら良仁君、いつも悪いわね。勉強も大変なんでしょ。受験とか」
「ええ、まあ……」僕が苦笑いしていると、
「おい、母さん。良仁には金を払って来てもらってるんだ。そんな事言う必要はないぞ」横から、源さんが口をはさんだ。
文恵さんは、全くこれだからね。と言うような笑みを浮かべて、
他のメニューの準備に取りかかった。
途中でもう一人のウエイターをやってくれてる女の子もやってきて、
いよいよ開店になった。
開店と言っても扉を開けた瞬間、一斉に客が入ってくるような事はまずない。
十分後、まず始めに入ってきたのは、
近所に住む自称・一人暮らしで孤独な老人だった。
定休日以外の昼は、いつもここで昼食をとるらしく毎日来る。
「いらっしゃいませ」
「源さん、今日も暑いね」老人は、ゆっくり杖をつきながら、厨房に一番近いいつもの席に座った。
「そうですね」適当に、しかし愛着がある返事で源さんは返す。
「ご注文は?何にしますか」ウエイターの女の子が聞きにいく。
「あー、じゃあ今日は日替わりでいいよ」
「はい、かしこまりました」そう言うと彼女は大きな、しかも甲高い声で、
「日替わり、一つ入りまーす」と言った。
一瞬、店内が静かになったものの、
「ユウちゃん、聞こえてるよ」と源さんがボソっと言うと、
店内は一気に笑い声に変わった。
しばらくして笑いがおさまった頃、ふと彼女を見ると、すごく真っ赤な顔をしてうつむいていた。
「さあ、そろそろ笑ってもいられなくなるぞ」源さんの掛け声と共に、ぞろぞろと客が入ってきた。
大体は、近くの会社の昼休みとかに利用される。
さっきの老人はと言うと、もう消えていた。
テーブルの上には、きれいに食べ終えたばかりのカレーライスの皿、
すっかり空っぽになったサラダの器、お金が置いてあった。
ちょうど奥さんの文恵さんが、片付けているところだ。
あまり他の客と一緒には食べたくないらしい。
「おい、良仁、そろそろ唐揚げも作ってくれんか」
「はい」唐揚げは、僕の十八番と言ってもいいほど自慢じゃないけど旨く作れる。
一番旨い唐揚げと言うのは、外がサクっとしているもの。
中の肉がジューシーであれば、なおさら良い。
最近では、僕が作った唐揚げを食べる客を厨房のかげから見るのが、
密かな楽しみにさえなっている。
何の表情もない客も、おいしそうな顔をする客も、
ちょっとまずそうに食べる客でさえ見てて面白い。
その時だった。
駆け足で入ってきた眼鏡の若い男がいた。
彼もまたさっきの老人ほどではないにせよ、常連客の一人だ。
「源さん、雨、雨。雨が降ってきたよ」彼は持っていたハンカチで頭と腕をぬぐうと、そそくさと空いている席に座った。
眼鏡にも水滴がついたらしく、丁寧に拭いている。
「良仁、悪いが看板をしまっといてくれんか」
唐揚げもだいぶん出来上がったので終わりにし、客席を通って表に出た。
確かに、今の男が慌てるほど雨は思った以上に強く、
アスファルトを打ちつけていた。
いつもの干からびた灰色から、雨を濡らした真っ黒な色に変わっている。
上を向くと、今にも落ちてきそうな重たい真っ黒な雲が、
空全体に立ち込めていた。
ふいに僕は、何か嫌な予感がした。
胸の中に今見ている真っ黒な雲があるような気がした。
さっさと片付けようと思い、ゴシック体で書かれた小さな看板を中に入れた。
「すごく降ってますよ」厨房に戻ると一応、源さんに報告しておいた。
雨が降り出してからというもの、客足も徐々に少なくなり店内は、客のにぎやかな話し声から雨が響くだけの寂しい音に変わっていった。
天井を見ると、ところどころめくれているところがある。
この随分と古い店の雰囲気も、余計に寂しくさせているのかもしれない。
そして、またさっきの嫌な予感が襲ってきた。
今度は、背中の下の方から上ってくるような感じだった。
風邪かな。確かに最近、疲れているような気はしていた。
そんな様子に気がついたのか、イスに座って天井から吊るしてあるテレビを見ていた文恵さんが、
「良仁君、何か顔色悪いような気がするわよ。ねえ、お父さん」と言った。
源さんは、換気扇の下で丸イスに座りながらタバコを吸っていた。
一息、吸うと
「そう言えば、そうだな。大丈夫か」と言いながら、タバコをもみ消した。
「大丈夫です。一時的なものだと思うんで少し休めば良くなると思います」
「そんな感じには見えないんだけどね。ねえ、ユウちゃんもそう思わない?」
いきなり文恵さんに聞かれてびっくりしたのか、彼女は、
「そ、そうですね。先輩、顔色悪いですよ」と少しうわずった声で、
最初に文恵さんが言った事と同じ事を言った。
そして源さんは、おもむろに立ち上がると、
「良仁、もう少し雨がおさまってきたら今日は帰れ」
「いや、やれますよ」
「無理しちゃいかん。何かあったら、こっちも親御さんに申し訳が立たん」
「そうよ。夕方には息子も帰ってくるから、手伝ってもらえば何とかなるし」
僕は、言葉に甘える事にした。
イスとイスをくっつけて作ってくれた簡易ベッドの上で、横になった。
雨の音が頭に響く。
天井がぼやけて見え、次第に意識が遠ざかっていった。
はっと気がついたとき、僕の上にはタオルケットがかけてあった。
もう何時間も経ったような気がしたが掛け時計を見ると、
まだ三十分しか経っていない事が分かった。
しかし僕は、こんなに短い時間しか寝ていないのに、随分とすっきりした気分だった。
何だったのだろう。
耳をすませると、さっきよりも雨足が小さくなってきている事が分かった。
起き上がってぼおっとしていると、文恵さんがこれ使って。と言って、レインコートを持ってきてくれた。
「大丈夫?」三人は、心配そうな顔をして異口同音に言った。
「そんなに心配しないで下さい。ちゃんと明日も来ますから」
僕は、出来るだけの笑顔を作って言った。
「いや、そういう事を聞いとるわけじゃないんだが……」源さんが言った。
来たときのように裏口の戸を開けて、小雨が降る外に出ると、みんな見送ってくれるらしくついてきた。
「じゃ、また明日来ます」と言い終わるか言い終わらないかのうちに、携帯電話が鳴った。
僕が出ると、三人は軽い会釈をして中に入っていった。
電話の主は、亜佐美だった。
「あっ、良仁?今、いい?今日のデートの事なんだけどね、あたし、あそこのお店行きたいな、それでね……」一気にまくしたてそうな亜佐美の声をさえぎって、僕は言った。
「ごめん。俺、体調悪くなっちゃってバイト早退したんだ。それで今から帰るところ。だから……」
「そうなんだ。じゃあ今日は駄目だね」今度は僕の言葉をさえぎって、亜佐美は残念そうに返してきた。
「うん、ごめん。また今度」何か優しい言葉でもかけたかったけど、何も出てこなかった。
亜佐美と初めて話したのは、高校に入ってからすぐだった。
それが入学式だったから、文字通り高校に入ってからすぐと言うのだろう。
まだ寒さが残る季節と体育館特有のおそろしい寒さの中、
僕はかすかに震えていた。
そこでは、全く顔も知らない連中が、
規則正しく並べられたパイプ椅子の上に座って、真面目に先生方の話を聞いている。
式は思っていたより長く、あくびが出そうになった頃、小声で話しかけてきた奴がいた。
「何か、つまんないね」それが亜佐美だった。
初め、空耳かと思ったので、僕はそのまま無視して、今始まったばかりの生徒指導の先生の話を聞くふりをした。
だが、しばらくしてから
「ねえ、シカトしないでよ」と聞こえた。
同じ中学校の奴でもいたっけな。と思ったが、聞いたことのない声。
自分に向けられた言葉ではないなと確信した瞬間、今度は肩をつつかれた。
ドキッとして横を見ると、全く知らない女の子が軽く笑っていた。
「やっと気がついた」その子は小声でそう言うと、また声を立てずに笑った。
どうかしてる。
当時、人とコミュニケーションを取ることが苦手だった僕は、おそらく普通の人の何十倍もそう思ったに違いない。
これが、亜佐美と初めて話した記憶である。
いや正確には、亜佐美に初めて話しかけられた記憶なのかもしれない。
そして僕は、電話を切った。
また自転車に乗り、こぎ始める。
道路は来た時とは打って変わって、びしょびしょに濡れていた。
スリップしないように、減速しつつ走っていたが、
また背中がゾクッとした。
やっぱり風邪か。
来る時は何ともなかったのに、人間なんて数時間で変わるようだ。
熱も測ればあるのかもしれない。
早く家に帰ってじっと寝ていよう。
明日もバイトだし。なんてことを僕は考えながら、知らず知らずのうちに速度を上げていた。
踏み切りを越えて、あともう少しで着くというところで、
急に頭と体がふわっとした。おかしいな。
これも風邪の症状かと思ったが、違っていた。
周りの景色がくるくる変わっていく。
水を帯びて、いかにも生きたねずみと化したコンクリートが上から降ってきて、僕はそのまま頭をぶつけた。
そして急速に意識が遠のいていった。
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