ハイコントラスト
森越苹果
新章
運の悪い日
「キスができれば、愛なんだ?」
僅かに離した唇から真実を吹き込んで、微笑みを浮かべた。
ローズピンクの紅を汚して、見開いた焦げ茶色の双眸に深く、強く、刻みつける。
絶望の淵へと堕ちる、愚鈍な様を嘲笑うように、艶やかに。
愛は、救いのない宗教だ。
運の悪い日
田原美恵の日常は、平凡だ。
実家を出て徒歩十分の駅に辿り着けば、電車に乗って学校の最寄り駅まで到着する。学生の多いその駅では、色恋、友情、勉強に運動と弾けんばかりのエネルギーが渦巻き、ざわざわと歌になりきらない音を奏でて美恵を待っている。
駅から坂を登って、歩くこと五分。見えてくる校門には時折教師が立ち、主に女子高生の制服チェックを行うこともあるが、本日その姿はなく、屯するままの男子学生達が出入り口を塞いでいる。
フェンスの隙間から溢れるように咲く野花を黒目で見送って、美恵は無表情のまま群れの横を通りすぎた。
そうして始まる一日を、彼女は特別だと意識したことはない。意識することもない。
学校とは、彼女の最も卑下する愛が、最も有利な場所だから。
「田原さん、おはよう」
「おはよう」
五月を過ぎると異様な匂いを纏わせ始める靴箱の前で、美恵はクラスメイトに声をかけられた。ポニーテールが特徴の溌剌とした彼女は、朝の練習を終えたばかりか体操着のまま、ナースシューズに履き替える。
「またあとでね」
「あとで」
にこり、ひらり。効果音が付くものならそんな音になりそうな笑顔と手の動きで、彼女は颯爽と更衣室へと走っていく。制汗剤特有のきつい
陽和高校は、丘の中腹にある公立高校だ。名門鳩和学園の理事長が設立させた姉妹校であり、成績を残しておけば大抵のことは目を瞑ってもらえる風潮を受け継いでいて、ゆるい校則と真面目な親を納得させる程には国立と有名大学への卒業生を残していることから、親子ともにそれなりの人気がある。女子はセーラー、男子は学ランと古めかしい制服セットであるものの、厳しくない校則が故にセーターや靴下、タイツなど思い思いのお洒落のために、いっそ新しさすら感じられる。
制服検査の時だけは、美恵も下ろしたセミロングをポニーテールにするが、それ以外は基本的に髪を結ばずとも問題がない。お洒落をするつもりもない美恵には、非常に都合のいい環境が整っていた。
朝だというのに騒がしさの収まらない玄関を抜けて、廊下を進む。美恵は一年C組なので、まだ人の少ない教室の方が空間的には落ち着いた。
「美恵! おはよう」
「……おはよう、
彼女は、部活動を終えてすぐに着替えてきたのだろう。薄手になったばかりのセーラーにほのかに汗を残して、眼鏡の奥に嬉しさを滲ませる。
電車に遅れることさえなければ、美恵はいつも八時十分に高校に来る。陸上部の朝練は七時半から八時までだそうで、朝のメニューさえ済ませば終わりの練習を毎日こなして、合わせたように声を掛けにくる。
ショートヘアーの似合う、素朴な彼女の名前は
「ねえねえ、今日の宿題やってきた?数学の」
石鹸の香りを漂わせて、鼓実が隣に並ぶ。他人との距離が近いことを拒む美恵に優しい、不快ではない、拳二つ分は開けた距離。長い手足に、美恵が上目遣いにならねば目線の合わない長身、筋肉と骨ばかりではと疑うほどの引き締まった健康的な肌と肉付き。
正反対にすら見える己と彼女は、友人という形で仲を維持している。
「ええ、もちろん」
「いっこわかんなくて。見せてもらってもいい?」
「いいわよ。貴方はいつもそうね」
女子高生らしい会話をしながら、二人並んで教室の扉をくぐる。
恋話に話を咲かせる女子のグループ、朝からじゃれ合う男子数名に、井戸端会議のように立ち話を繰り広げる男女数組。美恵がそうしたいようにじっと読書をする人も何人か居て、この教室の中はそれで調和を保っている。和の端に紛れるように、それぞれの席に鞄を置いた。窓際から一列内側の、後方二席。そこが二人の席で、美恵が振り返れば鼓実は片手を出して待っている。
「はい。授業前には返して」
「ありがと」
こんなやりとりを何度も繰り返しているから、仲が良いよね、と不思議な言葉を掛けられるのだと思う。
他人の人間関係に仲が良いと形容する不可解も、だからなんだと返す無粋もどちらも高校では必要悪だ。美恵や鼓実と関係を持つきっかけとするならまだしも、ただただ、クラスメイトに声を掛けるというそれだけのために形容され、その度に鼓実は口の端を引きつらせる。
どちらも両成敗だが、四年の付き合いをするくらいには鼓実を信頼している分、美恵は鼓実の肩を持っていた。
さて、と時計を見れば時間は八時十九分。二十分から朝の読書が始まるから、丁度良い時間に席に着いたと言える。時間を気にする人はぱらぱらと自席に戻り始めるし、気にしない人だけが特定の誰かの席に集まって、席と席の間が通りやすくなる。
「おはようございまーす!」
だからか、決まってこの時間に駆け込んでくる女子生徒が居る。馬鹿に大きな声を出して入室する割に、それ以外の時間は真面目に話を聞くこともなければクラスメイトとつるむこともない。同郷らしい後ろの席の男子生徒以外に話しかける人は一人もおらず、時折、交流のない上の学年が訪れては連れ去っていく。
「あ、ごっめーん」
自席の側ですればいいものを、歩きながらそうするから鞄の底が美恵の机にあたり、筆箱が床に落ちる。こんなつまらない、どうでもいい出来事に対応するのも面倒で、美恵はチャイムに紛れて何も言わずに筆箱を拾った。
「ちょっと。謝ってんじゃん、聞こえてないわけ?」
顔を上げればくだらないことを喚く彼女の顔が見えて、皮膚一枚下で辟易とした表情をする。鈍い表情筋をそのままに、吐息を一つ。
「……別に、気にしてないわ」
「あっそ」
「お前ら、席につけ」
いつもより遅くやってきた担任が蜘蛛の子を散らすように大声を出したおかげで、会話はそれ以上続くこともなく終わった。
けばけばしい顔に、強すぎる香水の香りで、気分が悪くて仕方なかった。
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