狂った妖怪は人としてむしろ正常

七篠透

邂逅編

第1話:襲来

 恋愛感情の中には、いつも若干の狂気が潜んでいる。

 とは言っても、狂気の中にもまた、いつも若干の理性が潜んでいるものである

 ニーチェ


 俺にとって、人の世というものは非常に住み難いものだった。


 人というものは自分と自分の周りが幸福なら、いや、自分の目に映る光景が自分の幸福にとって不足なければそれでよい自分勝手な生き物であり、見えないところで誰が嘆き苦しんでいようがそんなものは気にしない。


 そのくせ、愚かにも道徳などという理想を現実に持ち込めというどだい無理なことを子供に教える。そこに、少しばかり目端の利く子供がいればどうなるか。


 自分さえよければいいと腹の底で考えているのが見え透いている連中が、人を思いやれと自分に説く訳である。欺瞞。全て欺瞞。仁義忠孝礼智信悌、全て偽りの幻。あるのはただ、己が快楽を貪る外道と、それらが着飾る欺瞞のみ。


 そんな、腐りきった世界が見えてしまう。


 では、その目で自分を省みればどうなるか。


 周りの外道となんら変わらぬ外道が一匹、己の首の下に生えているだけである。


 もとより、ただ少しばかり目端の利く子供だった、ただそれだけなのだから。


 それを知ってなお欺瞞と享楽に身を委ねることもできず、ついに周囲に馴染むことを諦めた俺は、人里から少し離れた森の中に一軒家を構えて隠遁生活を送っていた。


 だから、俺は人里を妙な霧が覆っていることに気付くのが遅れた。


 森にもその霧が広がるまでに、一月ほどの時間差があっただろうか。数日の間立ち込める霧を奇妙だと思い、洗濯物が乾かぬことに不快こそ感じていたが、俺はさして気にしていなかった。人里に、下りるまでは。


 森が霧に覆われて一週間ほど経ったある日、俺は人里まで買い出しに出かけた。しかし、そこに普段の人里はなかった。


 あったのは、誰もが理性をかなぐり捨て、欲望のままに快楽を貪る地獄絵図。ある者は一心不乱に食い物を貪り、またある者は酒樽に上半身を突っ込んで溺れていた。中には往来の真ん中で人目もはばからずに交わる男女もいた。


 何が原因なのかはわからない。だが、少なくとも今の人里でまともな商いをしている店はないということくらいは、すぐに分かった。


 買出しを諦めて自宅に戻ると、俺は年端も行かぬ少女が家の前で行き倒れているのを目にした。俺に助けを求めに来た里の女童か、さもなくば里とは無関係の、森で迷った旅人か。いずれにせよ、立ち去ってもらわぬことには家の出入りが不便である。


「おい」


 軽く横腹を蹴ってみるも、反応はない。意識はないのか。


 生死を確認すべく屈み込んだところで、その少女は緩やかに首をめぐらせ、俺を見上げた。その目は、先ほど見たばかりの嫌な光景を思い出させるには、十分だった。


 間合いを取ろうと地面を蹴るが、地を蹴った足を掴まれ、転倒してしまう。強かに背中を打ち、ごく僅かな時間、呼吸が止まった。


「ん……はぁっ……」


 呼吸を取り戻した俺にのしかかり、少女は情欲を孕んだ瞳で俺を見下ろす。俺の気のせいなどでは断じてなく、その息は荒く頬は上気している。


 そのうっとりとした表情を見た瞬間、俺は拳を握った。が。


「お願い……抱いて……くだ……さ……い?」


 拳を振り抜く前に、少女の様子が変わった。言葉の間に目が焦点を取り戻し、表情はごく普通の、困惑している時のそれへと変わる。


「断る」


 理由はやはり分からないものの、目が覚めたのなら気付け代わりに殴る必要はもうあるまい。拳を開き、少女を押しのけて俺は立ち上がった。


「済みません。まさかこの霧が私にまで影響のある物だと思っていなくて、油断していました」


 後ろで立ち上がった少女の言葉は、俺に現状を理解させるには十分だった。何故少女が、この霧が自分に影響しないと思っていたのかは、分からないが。


「成程、この霧が里の乱痴気騒ぎの原因か。どうやら俺には直接的な影響はないらしいな」


 とはいえ、育てた野菜に森で取れた果物山菜、狩った獣の肉を里で売る事で生計を立てている以上、間接的な影響は否定できない。


「あなたも、人間ではないのですか?」


 その質問は、少女が自分に霧の影響がないと踏んでいた理由を俺に知らしめるには、十分だった。


「人間だ。少なくとも、生まれつきは」


 少女は、いささか驚いたように質問を重ねる。


「では、何か霧に対抗する方法でも?」


 人間がこの霧の中で平然としているのはおかしい、とでも言いたいらしい。


「いや、長く続くだけのただの霧だと思っていた」


 もしかしたら俺は何かの間違いで人間でなくなっているのかも知れない。


「そうですか。しかし、あなたに触れることで正気を取り戻せたことは事実です」


 論点のはっきりしない少女の言葉に、俺は苛立ちを抑え切れなかった。


「……何が言いたい?」


 意外にも、訊ねれば少女はすぐに答えた。


「この霧の原因を、私は知っています。しかし一人でその原因を追っていては、また先ほどのようになってしまいます。ですから、あなたに協力して欲しいのです」


 少女はこの霧を払うため、俺の力を借りたいという。原因も知っているとなれば、さしたる困難はあるまい。俺は少しばかり考え込んだ。人助けなど趣味ではないが、しかし。


「……いいだろう」


 霧を放っておけば、俺の生活にも支障は出る。事実今回、俺は買出しを諦めた。自分自身の都合のため、というのは、俺にとっても分かりやすい理由だ。


「それでは、これからしばらくの間よろしくお願いいたします」


「不本意だが」


 断る理由の方が遥かに多いことに気付いたのは、とうに了承してしまった後だった。


「また霧に飲まれてしまわないように、できればずっと傍に置いて、危うくなればまた触れてほしいのですが」


「止むを得ん」


 何のための隠遁か。それが、こんな奇妙な女と共同生活を送る羽目になるとは。


「心地よい声ですね。私の好きな音です」


「気色悪い」


 後悔先に立たずとは、よく言ったものである。

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