ブックカフェにて

カミノアタリ

第1話 いい加減ドアの開き修理すればいいのに

仕事帰り、自宅の最寄り駅に着いた私は改札を出て普段と違う方向に進んだ。休日に買い物をしていて偶然見つけた看板を目指す。休みでないことを祈りながら最後の角を曲がった。

そこはブックカフェだった。テレビの情報番組だったか、それとも地域の広報誌だったか、その手のもので存在を知ったのはもう何ヶ月も前のことだ。それほど読書好きというわけでもない。しかし、なんとなく惹かれた。飲み物を脇に置いて、誰にじゃまされることもなく過す。そんな空間、時間に憧れを感じたのだと思う。ならば、ただのカフェでもいいはずだが、そうなると飲物の終りと共に自由な時間が終わってしまうような気がする。何時間も、とは思わないが、そこそこ時間は掛けてみたい。

さあ、着いた。店の前に柊の木の鉢植えが置かれ、木製のプレートが吊るされている。それが看板。窓に明かり、そして、お客さんらしい人影も見える。

ドアの取っ手に手を掛けて引いた。開かない。押すの?開かない。もしかして何かのグループの貸切なのかしら、と思いつつ、無意識に1、2歩下がった時、ドアが開けれらた。やっぱり引くでよかったようだ。開いた隙間から若い男の人が半身乗り出して手招きしている。

「いい加減ドアの開き修理すればいいのに。また、お客さん逃すところだったよ。」

いたずらっぽく笑いかけるその男の人のつぶやきに、どんな反応をしてよいものか戸惑って、私は軽くお礼の会釈をしながら店の中に入った。静かではあるが意に反して込み合っている。カウンターに進もうか。躊躇している私に、またさっきの男の人が声を掛けてきた。

「よかったら、ここ、どうぞ。僕、もう帰り支度中なんで。」

この人もお客さんだったのだ。常連さんなのだろうか。それなら、座る席もだいたい決まっていて、私のような新参者が開けにくいドアに四苦八苦しているのを何度も見ている人かもしれない。

「本探すんでしたら、今のうちにどうぞ。僕、席とってますから。」

「あ、ありがとうございます。じゃあ、すぐ決めてきますから。」

私はマガジンラックから、美しい写真が表紙になった旅雑誌を手に取った。中身は確かめる必要もないだろう。今日は何もかもお試しだ。荷物を置いた席に戻ると、元の席の主は立ち上がってバッグを肩に掛けた。そして、読んでいたであろう文庫本をバッグの外ポケットに突っ込んだ。意味なくではあるが、手元をじっと見てしまっていた私に気付いたその人は、バッグを一つたたいて、

「あ、これ、私物ですから。ここの本テイクアウトはできませんからね、念のため。でも、静かにりしてゃ何しても大丈夫ですよ。絵を描こうが自習しようが。…コーヒー1杯たのみさえすれば。」

ささやきを残して店を出た。

コーヒー、そうだ、飲み物を頼まなければ。誰に声を掛ければいいのだろう。首を伸ばして頭を左右に動かしていると、

「マスター、お客さん。」

どこからだか声がした。と思ったら、カウンターの向うに座っていたらしい老紳士が、お盆におしぼりと小さなコップに入った水を持ってこちらに向かってきた。

「いらしゃいませ。」

「ホットコーヒーを。」

「かしこまりました。」

ややあって、香り高いコーヒーが運ばれてきて私のくつろぎの時間が始まった。そばで何度か人の出入りを感じ、コーヒーの香りが薄れていき、やがて雑誌の裏表紙を閉じるときが来た。さて、今晩はここで区切りをつけようか。

荷物を抱え、雑誌をまずラックに戻し、そして、カウンターのレジらしい角に進んだ。

「ごちそうさまでした。」

カウンターの向こうで分厚い小説に目を落としていたマスター(のはず)が顔を上げた。私は財布から500円硬貨を出した。

「お暇なときにはまたいつでもどうぞ。うちが開いてたらですけどね。」

お釣りを差し出しながらマスターは言った。

「ええ、雰囲気いいから、時間を作って来たいと思います。」

「時間を作って…か、」

マスターは、ふっと笑った。何か変なこと言ったかなと思わせる。

「いや、そういう場所じゃないですよね。どちらかと言うと、時間をもてあましている時にふらっと…が気楽でいいですけど。ま、どっちでもいいか。」

マスターは、ハハハと小声で笑った。


一週間後、私はまたあのブックカフェにいた。コーヒーと旅雑誌、私の前には先週と同じものがあった。毎週通おうかと思っている。当分は旅雑誌を端から攻めて行こう。先週マスターから言われたことには反するが、私はこのやり方にしようと思う。そもそも、私がなぜここに来ようと思ったかだ。


先月のことだった。

「残業の日が増えると思うんだ、これから。」

遅く帰宅した夫が食事をしながらそんなことを言った。

「今日みたいな感じ?」

「そうだな…うん、このくらいの時間には帰れるようにするよ。めしは家で食うから。」

翌週から、だいたい週の前半は会話通りの生活時間になった。私も仕事があるから、ただ夫の帰りを待つだけではないし、事前にわかっているならそれなりの時間配分も考える。しかし、なんでまたそんなことになったのだろう。いらぬ詮索もしてしまう。

つまり、浮気?いやいや。笑いがこみ上げる。こんなわかりやすい始まりがあるわけない。

でもな…それならそれで、私も『昼顔』しちゃおうかな?などというのは頭に浮かぶだけ。ああいうことは意を決して始めるものではない。気付いたら始まっているものだ。つまり、私には縁がない。なくていい。

そこで思い浮かんだのが、ブックカフェだった。本と触れ合うのも悪くない。今まで知らなかった情報を得ることになれば、夫との会話も豊かになるかもしれないし。夫との会話にプラスになるようになんて、私って良妻だ。やっぱり昼顔失格だ。

ばさっ!

眺めていた雑誌のページを2枚一度にめくってしまったことに気づいた時、店内のどこからか厚い本を落としたような音がした。この店は小さいながら、カウンターを中心にコの字型にテーブルが配してあり、所々に背の高い観葉植物が置いてあるので死角が多い。音の聞こえた方向に向かって顔を上げると、茂った観葉植物の葉の向こうに上下する影が見えた。その席の人が音源だったのだろう。



※不倫の代名詞としてドラマ、映画のタイトル「昼顔」を使用しました。

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