はるまち
せりざわ。
第1話 風習
教室に戻ると、彼女はほんの少し前のめりになって空を見上げていた。
ひどく熱心に、そして不安げに、何度も何度も瞬きする。ちょうど目蓋にかかる長さの前髪が瞬きのたびに揺れていた。
彼女を夢中にさせているものは、夕闇に紛れて細々とその姿を垣間見せている。
「……あ、雪だ」
十二月の空はぶ厚い雲に覆われ、その合間からすべり落ちるように雪が降っていた。
彼女――今井さんは弾かれたようにおれを振り返る。
「さ、桜井くん。もう補習終わっってたの? 戻って来ていたなら声かけてくれれば良かったのに」
今井さんの声とともに、教室内には白い息が広がっていく。暖房の切れた放課後の教室は、冷えきっている。
「ごめん」
だってさ、あんなに真剣な顔まだ見たことなかったから。おれが近付いていることにも気付かないくらい。
「ずいぶん熱心だったから、邪魔したらいけないと思って。……雪、積もるかな」
「ん……どうかなぁ。初雪だから少し舞っているだけだと思うよ。はい鞄。進路指導室での補習、お疲れサマでした」
預かってもらっていた荷物を受け取りながら、帰ろうか、と彼女を促す。
「前も云ったけど、こんな時間まで待っていなくてもいいのに」
気を遣ったつもりだったが、となりを歩く今井さんは、なぜか不機嫌そうな顔になった。
「彼女なんだから、一緒に帰るのは当たり前でしょう。きょうの補習はどうだったとか、この町に転校してきてもうすぐ一ヶ月になるけどもう慣れたとか、いろいろ」
今井さんはお喋りだ。ころころと表情が変わる。だから飽きないし可愛いと思う。
寝具メーカーに勤める平社員の父が、いきなり副支店長に抜擢されたとかでこの
「きょう担任の先生にも町には慣れたかって訊かれたよ。だから転校してきて一週間後に彼女ができたって伝えておいた」
今井さんはおれの厭味に苦笑いしつつ「だって、気になっちゃったんだもの」と、きっぱりと言い切った。
告白されたときもそうだった。
転入した翌週の放課後、補習から戻ったところを同じ台詞で彼女に告白されたのだ。
一方のおれは、人生初めての告白に浮かれて「ええと、じゃあ、よろしく」なんて間抜けな返事をしてしまった。
「授業、進むのが早くて大変でしょう」
進学熱が高いとの理由で、高校の授業は三学期に習う部分も含めてすべて二学期までに終わらせるという。当初はあまりの授業の開きに愕然とした。
「連日の補習のお陰でだいぶ教科書も進んだよ。それにみんな、わからなかったら訊けよって声をかけてくれるし。まぁ本音を言うと少しだけお節介だと思うけど」
「転入生には慣れているからね」
「父さんも母さんも、この町に来て良かったって毎日そればっかりだよ。町の人はみんな優しいし、高価な羽毛蒲団も飛ぶように売れて給料も上がったし……ってこれは母さんの言葉だけど。以前は安月給だって喧嘩ばかりしていたのに」
「――桜井くんは、どう?」
長い睫毛を瞬かせて、今井さんがおれを見上げる。こんな子がおれの彼女だなんて、未だに信じられない。
誰かに自慢したくて仕方なくて、かつての級友たちに彼女ができたことをメールしたけど誰からも返信はなかった。
その程度の付き合いだったのかと少し淋しくもあったけれど、「きっと驚いて言葉が出ないんだね」と微笑んでくれた今井さんの存在と同級生の心遣いがそれを埋めてくれて、いまは少しも淋しくない。
「おれも、良かったと思ってるよ」
「嬉しい」
彼女につられて、おれも笑った。
靴を履き替えて昇降口から外へ出ると、既に雪はやんでいた。
羽留町は広大な山々に囲まれた過疎地だ。目立って高いビルもない、典型的な田舎町。広大な山々の稜線を辿る中で、ひときわ高い山に冠雪が見てとれた。
「残念。積もらなかったか」
「桜井くん、雪好きなの?」
「スノボが好きだから新雪が積もれば嬉しいよ。もし良かったら、今度一緒に――」
云いかけて、やめた。
今井さん笑っていない。こっちを見てもいない。マフラーやダウンジャケットで覆っても小柄だと分かる小さな体を、さらに小さくしてうつむいている。
「ええと、まぁ、雪なんて降らないほうがいいよな。おれ寒いの苦手だし」
横目でちらりと今井さんを盗み見る。
今井さんの瞳はこちらを見ていなかったけど、そのかわり小さな指先がおれの右手を捉えた。互いに手袋の上からではあるけど、やわらかくてあたたかいのはわかる。
「わたしも苦手なんだ。一緒だね」
ぎゅっと強くなる彼女の指先。それに応えようと自らの指先に力を入れたとき、前方から息を切らせて駆けてくる人影が見えた。
同級生だった。おれの前の席に座る背の高い男で、
こちらの姿に気付いた丘野はゆっくりと立ち止まった。
「よう、桜井と遥。いま帰りか?」
丘野は寒さなどものともしない薄着で、傍らには大型の白い犬を連れている。
「そうなの。瞬くんは日課のランニング? そんな薄着で大丈夫なの?」
過疎の地だけあり同級生は全員幼なじみで、ふたりは当然のように名前で呼び合う。
「走れば体温が上がるから、これくらいでちょうどいいんだよ」
「いつも思うけど、寒がりなわたしから見たら瞬くんってバカみたい」
気の置けない幼なじみらしい会話だった。間に入れないおれはひとり、尻尾を振っている犬の頭を撫でてやる。真っ白な毛並みは艶やかで、首輪には、迷子札がきちんと付けられている。大事にされているのだろう。
「あ、悪い。邪魔したな。おれ行くわ。きょうはこいつを施設に預けに行くんだった」
「施設に預ける?」
思わず聞き返してしまった。こんなに元気そうなのに、病気か何かだろうか。
「さっき初雪が降っただろう。あれ合図みたいなもんだからさ、早めに預けておくことにしたんだ」
「そっか。瞬くんの家はいつも早いもんね」
「そういうこと」
今井さんは腰をかがめ、尻尾を振る犬の頭を撫でた。
「シロ、春になったらまた一緒に遊ぼうね」
今井さんが犬とじゃれあっている間、丘野がおれの方を見た。
「桜井は初めてだから不安もあるだろう。でも、保存会の人たちがちゃんとフォローしてくれるからな」
「なんの、フォロー?」
「聞いてるだろ。この町の風習のこと」
ここに越してくる前、羽留町に伝わる風習について説明されたことを思い出した。
でも、正直よく憶えていない。さして興味もなかったので携帯をいじっていて、役場の人の話を聞いていなかった。用意された書面に署名しろと云うので、説明文もろくに読まずに自署した。
「じゃあな」
丘野は犬を連れて再び走り出す。向かう先には、山の麓に佇む大きな白い建物が見える。
「あの白い建物、動物病院か何か?」
「ううん。国立の研究施設だよ。あそこでペットを預かってくれるの。他にもいろいろと。町に入る前に寄らなかった?」
「あぁ、この腕時計を渡された」
手首に巻いた大振りな腕時計を差し出す。
一見すると普通のデジタル時計だが、青く光る文字盤をよく見れば、心拍数や血圧などが計測できるようになっているのがわかる。
彼女の左手首にも同じ腕時計が巻かれている。ひとまわり小さいが、つくりは同じだ。
同級生全員が同じ腕時計をつけていることには、もうとっくに気付いていた。先生や町の住民もそうだ。
「この時計ってさ、何なの? 夜になると、電波みたいなピピピって音をさせるけど」
「――なにも、聞いてないの?」
文字盤から顔を上げると、青ざめている今井さんと目が合った。頬がこんなにも白いのは寒さのせいじゃないだろう。
「聞いてないって、なにを」
「だから、あの建物が何かとかこの町の風習とか、保存会のこととか」
「えーと、『ちょっと変わった風習』のことだろう。一応説明は受けたよ。でも部外者のおれにはあんまり関係ない、し」
云えば云うほど、彼女の表情は強張っていく。凍りついていく。
どうしてだろう。わからない。
わからないけれど、思う。
こんな今井さんを見ていたくないな。いつもの、ころころとよく変わる今井さんの顔を見たいな。
「……じゃあ、わたしから説明するけど」
凍りついた今井さんの唇がぎこちなく動く。白い息だけがなめらかに吐き出される。
「あ、いいよいいよ。気にしてないし。今井さんがそんな顔しなくても」
そんな顔して欲しくない。
おれたちの間に割って入るようにして、五時を告げる町内放送が響き渡った。
山や建物に反響してひどい不協和音だけど、おれにとっては救いの音色だった。
「じゃあ帰る。送っていけなくてごめん。授業の復習しておきたいんだ」
脱兎のごとく、とはまさにこのことだろう。おれは今井さんに背を向けて走り出していた。
結局、風習のことは聞きそびれた。
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