愚かになれ、と悪魔が囁いた。
別家伝家
第1話 愚かになれ
ぞっとして腰を浮かしたとき、銃弾がレイジーの頬を削った。頭の中は混乱をきたし、体も十分にいうことがきかなくなっていた。ここは現実ではない、きっと夢の中なのだとレイジーは思った。「残念だが、その期待を裏切ることが起きているようだな。ここは夢の中ではないぜ」と悪魔が囁いた。「ここは間違いなく現実だぜ、お嬢ちゃん。一度きりしか味わえない痛み、快感、苦悩・・・そのすべてが詰まったどうしようもない世界。肉体の世界だ」
レイジーは追手から逃げ延びようと、緊張と疲れでパンパンに張った太腿を叱咤して足をグルグルと動かし続けた。「おい! 赤信号だぜ?」道路は空っぽだった。「悪魔が赤信号渡るなと言うつもり? 今日一で面白い冗談ね! 笑えるわ」レイジーは引き攣った笑みを浮かべ、後ろを振り返った。街灯の光りがレイジーの目を突き刺し、ほかは闇に隠れて見えなかった。
「本当にここは現実なの? 私が今感じているのはたったひとつの恐怖なの。それ以外の五感がすべて遮断されたみたい。足をいくら動かしても、呼吸をどれだけ荒げても、恐怖がすべてを塗り替えていくようだわ」もしかしたらこの瞬間、感じとれている痛み以上の生々しい傷が私の体に刻まれているかもしれない。怖いという感情しか湧いてこないので、そう思わざるを得なかった。「悪魔さん?」返事はなかった。赤信号を無視し、歩道橋を渡りきると、なだらかな坂道がずっと続いていた。口の中に血の味が広がるのを感じ、ぞくっとして全身の力が抜ける感覚を覚えた。「悪魔さん? 私を独りにしないでよ!」追手が来ているのは分かっていたが、膝ががくがくするので走ることができない。そのとき、清潔感あふれる年若い男性が声をかけてきた。「おい! 嬢ちゃん。こっちだ。さあ、僕の手をとって!」そばには若い女性を連れていた。
レイジーは言った。「あなた達も追われているの? すごくいい人そうなのに」年若い男性はレイジーが恐怖にすくみ足になっていることに気づき、なりふり構わず抱きかかえた。男性は笑って言った。「僕はアンガー。隣のお姉さんはアロガンっていうんだけど、君は・・・」
「レイジー。だらしないって意味なの。昔は怠惰って呼ばれていたけど、それは分かりにくいからどんどん意味が崩れていったの」きっと男性は“短気”で女性は“自信過剰”という意味だろうとレイジーは思った。「でもアンガーとアロガンなら知ってることなんだよね?」アンガーは呼吸を荒げて返事ができる状態ではなかったし、女性も息を荒げて絶えず後ろの追手を気にしていた。
悪魔がレイジーの脳内に帰ってきて、言った。「昔の古い情報は、今の社会にとって害悪だという判断が下され、閲覧禁止になっている。善良な一般市民であるなら閲覧禁止をくらった古い情報を知っているはずがない。お前たち三人を含めた計七人はその政府の決まり事を破ってしまったんだぜ。それがきっかけでお前たちは追われる身となったわけだが・・・」
「私は何もしていない。やっていたことと言えばゲームだけだよ。大人たちが勧めてきたゲームしかやっていないんだよ?」
アンガーは何度もレイジーを落としそうになるたびに、立ち止まって持ち上げた。彼は体力がなさすぎる。とりあえずすぐそばに見えていた大型店舗の敷地に足を踏み入れようと、アロガンは言った。そこで追手をまいて隠れようというのだ。本当にうまくいくのだろうかとレイジーは思った。もう拳に力が入る程に快復していた。「ありがとう。足がすくんだところを政府の追手に狙われていたら、きっと酷い目にあっていたわ」アンガーはレイジーを地面に下して言った。「どうってことないさ。これくらい。僕たちは命を狙われている者同士だ。助け合いの精神がもっとも求められている。彼らに立ち向かう為、僕たち二人だけだと心細い。そう考えるのが当然だとレイジーも思うだろう?」レイジーは声を低めて言った。「二人より三人がいい?」
「当然だろう? レイジー、君は戦力になる人間なんだ」レイジーは思わず微笑んだ。本当にいい人。レイジーは虚空に目を向けた。
「どうして政府に命を狙われないといけないの?」レイジーは悪魔に聞いた。「ずっといい子を演じ続けたのに!」
「あたしたちは社会の危険分子に指定されてるの」とアロガン。「ごめんなさい。一体だれに話してるのかと思った。もしかしてあたしはお呼びじゃなかった? でも、怖がる必要はないのよ。あたしもレイジーの仲間だから」レイジーは彼女を嫌っているわけではなかったし、意識しないうちに彼女を避けていたことに今気づいた。「もし無事に逃げきれたら、一緒にゲームをしましょう。きっと楽しいわ」アンガロは月の光に輝くロングヘアをポニーテールに変えながら、「また走ることになるかも・・・」と駐車場をざっと観察した。「アロガンもゲームをするの?」レイジーは短くカットした自分の髪を残念に思い、あかりの消えた書店に入った。止まったエスカレーターを指さし、上にフードコートがある。そこでざっと周辺を確認しようとアンガーが言った。アロガンは笑みを見せなかった。とても冷たい人だな、とレイジーは思った。
「ええ。みんなしている。それとあれはゲーム機と呼ぶのは間違いよ。催眠機械と呼ぶべきだわ」すかさずアンガーが口を挟んだ。「そこまで言う必要はないだろう? 催眠機械はあんまりな表現だろう? あれは人を楽しませる為に作られた立派なエンターテインメントだぞ!」
「昔はね」とアロガン。「昔は娯楽だった。けど今は違う。あれは人を愚かにさせる機械装置よ。はやく目を覚ましたらどうなの? アンガー。あたしたちはあの催眠機械のせいで可笑しくなっていたの。ずっと思考と意思を操られていた。人を操るのに特別な技術なんて必要ない。まだ心が、決まった形を持っていない幼い頃に外界から何らかの刺激を与えてやれば、いとも簡単にあたしたちの心の形は変えられてしまう。かつての多くのエンターテインメントには人の心を掴み、魅了する力があった。それを悪い目的のために利用するやつらが、この社会を牛耳ってしまった」
「分かってるさ。だが、まだ信じられないよ。政府がそれをするなんて・・・」アロガンは言った。「政府ではないと思うの。きっと危険な思想を持った集団によるクーデターがあったのよ。秘密裡に。でも、すでに娯楽にどっぷりと支配されていたあたしたちは事件に気づかず。また彼らも政権が変わったことを報告しなかった」
「いや、違うな」アンガーは叫ぶように言った。「単に科学技術の進歩に人類がついていけなくなっただけだ。僕たちは道具を使っているつもりで逆に道具に使われていたんだ。現代社会にとって意味ある機能はすべてテクノロジーに委託し、残るは無意味なもの。それだけとなった。今や人類は空っぽの人形だ。何もはいっちゃいない。僕たちは何も特別なんかじゃないんだ。あらゆることが普通に変わってしまった。くだらない。この社会のリーダーこそ愚かな人間そのものだよ」
「みんな愚かさ」と悪魔が言った。「どこが愚かだと言うの? 悪魔さん」とレイジーは答えた。「この世に天才も凡才もいやしないってことさ。みんな愚かな人類だ。何の価値も持たない空っぽの人形が頑張って魚みたいに飛び跳ねているようなものさ」
「どういうこと?」悪魔は答えた。「じっと黙っていたら、死んでるのかと勘違いするぜ。魚でさえ飛び跳ねて最後まで抵抗するんだ。しかし、愚かな人類よ。お前たちがいくら飛び跳ねようと、もはや愚かなことに変わりはない。ならばいっそ動かない判断を下すか? もし動かなくなったら俺たちはお前たち人間の魂を食べにくる。レイジー? わかるか? 人間に魂があるのかどうかと、下手な質問すると後悔するぜ」レイジーは慎重に言葉を選んだ。
「そうか・・・命があるって叫んでいるんだね。空っぽの人形じゃない。私にはちゃんと命があるって!」
「それがわかったら上出来さ、お嬢ちゃん」悪魔はレイジーの手に何かを残していった。切っ先の鋭いナイフだった。その時、アンガーが叫んだ。「おい! 追っ手がすぐ下にいるぞ! あいつらここに僕たちがいることをなぜ把握しているんだ?」アロガンは鼻で笑いながら、目じりに涙を浮かべていた。「さあね。あたしたちを楽しませる為に玩具をたくさん用意してきたんだろう。例えば壁を透視する装置なんてどう? もしかしたら人類はついに千里眼能力を手に入れるための装置を開発したのかも」
アンガーは言った。「まとめて言うと犯罪者追跡装置だな」
「それってひどく笑えない冗談だね」とレイジー。何故だろう。とても気分がよかった。レイジーはにかっと笑みを溢さずにはいられなかった。アロガンがふふっと微笑んだ。「あたしたち年上なのに、本当に情けない」アロガンはアンガーの肩を引っぱたいた。「少しは男らしいところを見せたら?」
「しかし、あいつら銃を持ってるんだぜ? 一体どうしろというんだ?」
「怖いの?」下の駐車場にわらわらと集まっていた追っ手はすでにいなくなっていた。店舗内のどこか遠くから靴音が響いてきたようにレイジーは感じた。「腰を抜かして動けないというなら、あたしが負ぶって行ってあげる」アンガーは恐怖と怒りに震えていた。アロガンの胸倉をつかんで言った。「これはゲームじゃないんだ。本当の命を失うんだ。わかっているのか?」
「わかってるわ。でも、理解はできない。あたしたちは大人たちの勧めてくるゲームをしても、彼らの望む人間に育たなかった。だから彼らは怒ってしまってあたしたちがきっと将来この社会の害虫になると信じて疑わず、殺そうとして追っかけてきている。あたしたちは彼らの失敗作。彼らが予想しなかった人間が現れて、困ってしまって、対処のしようがないから殺すことに決めた。あたしたちが一体何をしたっていうの? 親の言う通りにいい子になろうと頑張って、結局ダメだったから殺されるの? ・・・もう、ずっと逃げてきた。だから、本当の命を失う怖さなんて捨ててしまったの」そのとき、レイジーは背後に人の気配を感じて振り向いた。銃口をこちらに向けてゆっくりと近づいてくる人影が瞳に映った。次に耳をつんざく爆音がはじけ飛ぶと、アロガンの体がどさりと膝をついて、そのまま倒れた。後頭部を見事に撃ち抜かれ、小さな噴水のように血があふれ出していた。強烈な鉄の臭いが鼻をついたので、レイジーは銃口から目を背けることができなくなった。後ろを振り向いてはだめだと、強く思った。アロガンが死んだのだ。それを理解すると人を殺した銃器の口から、いつもう一度あの死をもたらす銃弾が発射されるのかと恐ろしくなった。恐怖に全身の筋肉が固まってしまった。再び同じ音が響いた。「もう何も聞きたくない! 人が倒れる音も銃弾の飛び出る音も。何もかも聞くに堪えないよ」すると悪魔がレイジーの横にぬるりと寄ってきた。「魂を食べに来たの?」レイジーは頭ではなく、体を動かした。手に持ったナイフを目の前の追っ手に突き立てようと無我夢中だった。ナイフは追っ手の体数センチ手前で止まってしまった。そこに見えない壁があったのだ。これ以上進めば目の前の人の心臓の鼓動を止めてしまうとレイジーはとっさに考えた。悪魔が囁いた。「壁なんかないぜ。どうした? あと一歩前に進めば、やつの心臓にそのナイフが突き刺さる。悪魔が付き添っていても、それができないか?」
「できないよ。どうして?」悪魔は嘆息してレイジーの体の中に入り込んだ。「これがお嬢ちゃんの魂か…」目の前の追っ手はレイジーの眉間に銃口を突き付けて、言った。「だらしない日々を送るうち、考えてはいけない余計なことを君は考えた。それが君の犯した罪だ。いまここで社会の秩序を保つ為に君を処刑するが、心の準備はいいかな?」レイジーは悪魔に答えてほしかった。「どうして動けないの? どうして刺せないの? ねえ! わからない。わからないの。だから、私の魂を食べないでよ。…見捨てないでよ」追っ手はつぶやいた。「…狂ってる」追っ手はきちがいになったレイジーを可哀想だと思ったが、情け容赦なく脳天を撃った。レイジーはその場に音を立てて倒れた。「ひどく不味い魂だ」と悪魔は言った。
愚かになれ、と悪魔が囁いた。 別家伝家 @van_voct
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