第59話 目を閉じて。夢から覚めたいなー、みたいな感じで心に思ってみて
物語は記号化されたリアルで、最もリアルに近いと思われる映画でも、視覚・聴覚以外の情報は削られており、管理されている。おれがこの、神社の冷たい石段に腰をかけ、冷たくはない程度にあたたかい飲料を持ち、おふくろの話を聞いているとき、もしこれが映画だったとしたら、見ている人間は映画館の赤いクッションの中途半端な硬さや、自宅の青いクッションのふわふわすぎる柔らかさを感じながら、映画の中の主人公が感じる寒さを雑に解釈するだろう。
寒い映画(話の内容が寒いというわけじゃなくて)の筆頭と思われる『八甲田山』は、1902年(明治35年)1月に起きた八甲田雪中行軍遭難事件を題材にしたものだが、劇場では1977年6月から夏にかけて公開された。今も昔も、多分冬の寒さよりも夏の冷房が効きすぎているほうが、天は我を見放した、みたいな気分になると思うんでしょうが、どうなんですかね。
「そろそろナオくんは戻ったほうがいいね」と、おふくろは言った。
「私からの贈り物は、その手袋です。ほらー、この私の王女様の服のえりのところなんて、触るともふもふ」
「それもいいんだけど、どちらかというと履くと背が高く見えるヒールが欲しかったな」
「これは外反母趾になる呪いの靴なんだけど、ヒトの世界でも普通に売ってる」
ホテルのある海岸まで、また秒速2500メートルで飛ばされるのは堪忍してもらいたかったけど、あれは霊獣のビジュアル・エフェクトを意識した演出なので、特にそういうのは必要ないんだそうだ。
「ここは、ヒトの世界に似せて作った、ニセの世界なのね。ナオくんもたまには君にとってのリアルの世界で神社に遊びに来てよ。お父さんなんてしょっちゅう来てて、帰りに駅前の立ち食いそば屋に寄ってる」
そういうことは全然知らなかったが、この町にはどうも親父は、小学校時代からの友だちがいるらしい。
「それでは、目を閉じて。夢から覚めたいなー、みたいな感じで心に思ってみて」と、おふくろは言った。
言われたとおりにすると、頭をなにか硬いもので軽く叩かれて(多分王笏なんじゃないかと思う)、気がつくとホテルのベッドで、おれの隣のベッドではハチバンが、思いのほか熟睡していた。
おれが感じていた寒さはただの幻覚だったようで、今までの出来事もほぼ夢だと思っても問題はないようだが、確かにおれはなにか、以前には感じることがなかったような気がするものが感じられた。
おれは、用心しながらハチバンのベッドに行って、ハチバンの背中に手を当てた。それは暖かくて、柔らかくて、生きているヒトの命、いつか失われるはかなさと、リアルなものでなければ生み出し得ない力強さがあった。
うーん、といきなりハチバンは寝返りを打って、おれを抱きまくらみたいに抱きかかえるポーズになったので、おれはあせった。ハチバンはにやにやしながら、楽しい夢(多分山盛りの食い物とか何かの夢)を見ているらしい。
おれはしばらく、ハチバンの暖かさと柔らかさを確認していたが、そっとその手を離して、自分のベッドに戻った。
ヒトはどうも、おれにとっては力強すぎるものなのかもしれない。
*
夜明け前、おれが目覚めてみると隣のベッドにハチバンはいなかった。
おれとハチバンのベッドの上と下、浴室とトイレ、クローゼットと机の引き出しまで探したけど、ハチバンは影も形もない。
「ひょっとして…ハチバンって、おれの頭の中だけにいたキャラクター…エア友だちだったのか?」
おれはすこし涙が出たけど、念のために大浴場に行ったら、ちゃんとハチバンはそこにいた。
別に死体で露天風呂に浮かんでるとかじゃなくて、普通に湯船につかって朝日が出てくるのを待っていた。
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