ある聖獣の生き方
今日、無礼な若者が厩舎にやってきた。
無礼だけれど、どこか懐かしくも感じる若者だった。
彼はわたくしのことを、そのへんの騎獣へ接するのと同じように話しかけてくるので、気に入らなくて睨みつけてやったわ。調教師などは、わたくしのこのひと睨みに怯んでしまうのだけれど、この若者は意外と芯があるのか動じてはいなかった。
将来が楽しみね。
できれば、仕事のできない貴族の男どもと同じような、下品でお腹の出た男にはならないでほしいもの。
ところで、この無礼な若者には供がいて、それがまたどうしようもない騎獣の仔だった。
騎獣ならもう少し躾をきちんとすべきよ。でないと、希少獣についてよく知らない者たちからは、ただの獣と同じように思われてしまうわ。
正直、このおチビちゃんと同じ生き物だと思われるのは、わたくし許せないわね。
仕方ありません。
わたくしが、少しおチビちゃんを躾けてあげましょう。
……別に、ずっと不満に思っていたことを若者が解決してくれたから、ではないわ。このままだとおチビちゃんがバカにされてしまうからよ。
遊びと称して軽く教えてあげたけれど、おチビちゃんは素直だったわ。
それが存外楽しかったのか、教えるという久しぶりの感覚に、遠い過去のことを思い出してしまった。
わたくしが生まれたのは、もう何十年も前のこと。
卵石を拾った人が誰かは知らないけれど、聖獣の卵石だと判明したのですぐさま王宮へ献上されたとか。
当時、王族のひとりでもあったエレオノーラが魔力過多症で死にかけていたことから、彼女を慰めるものとして卵石が譲渡されたらしかった。
生まれた瞬間のことは、今でもよく覚えているわ。
熱のせいで頬を赤くしたエレオノーラが、わたくしを見つめてにっこり微笑んでくれた。とても幸せな瞬間で、ああ、わたくしは求められてこの世界へ生まれてきたのだ! そう本能的に悟ったものだった。
弱々しい彼女のためにと、わたくしは早くおとなになろうと努力した。
ちょうどエレオノーラもマナーを覚える時期であったから、共に習い覚えたものよ。
成獣となってからも常に彼女を守護したく、人型で過ごしてエレオノーラと共にあった。
ただ、共にあるためには淑女であらねばならず、彼女の瑕にならないよう常に「高貴な女性」として過ごしてきたわ。
ドレスも着こなして、ダンスも踊ったわね。
美しく髪を整え、宝石も纏ったけれど、本心では獣の本性が恋しいときもあった。
そんな時はエレオノーラがこっそりと離宮へ連れて行ってくれた。
ふたりだけで過ごす離宮で、わたくしはスレイプニルとして本性のままに過ごしたものだった。
エレオノーラもまた、わたくしのそうした姿をとても喜んでくれた。
おとなになっても体の弱かった彼女は、お転婆な性質だったのにあまり羽目を外すこともできず、わたくしに乗ることだけが楽しみのようでもあった。
わたくしも、彼女を乗せることがとても幸せだった。
離宮での暮らしは、本当に本当に幸せだった。
エレオノーラは王族の女性としては珍しく、生涯、婚姻することはなかった。
度々、体を壊して離宮暮らしとなったけれど、普段は王宮にて家族と過ごしていた。
きょうだいが独立していくのを最後まで残って見送っていたわね。悲しそうな、それでいて嬉しそうな目で見ていたことをよく覚えているわ。
若い頃はお転婆だった彼女も、年を経ると落ち着いてきて同じ王族の若い女性達にマナーを教えるまでになっていた。
わたくしもまた、秘書のように側に立ち、教えて回ったものです。
王宮では誰もがわたくしを人間のように扱ってくれ、わたくしもまたエレオノーラのためと思って人間のように過ごしていた。
そんな日々がずっと続くわけもなく、エレオノーラはまだまだ若い身空で病の床に伏し、あっという間に亡くなってしまったの。
元々、治癒魔法を使ったり、高価な薬剤で彼女の命は保たれていた。
本当はこれほど長く生きられる運命になかったの。彼女もそれをよく分かっていたわ。自分の命の長さを知っていて、受け入れていた。
ただ、わたくしを残していくことだけを、心配してくれていた。
エレオノーラの遺言で、わたくしはその後も王宮でマナーを教える仕事をしながら過ごした。
しかし、わたくしが一番馴染んでいた者達を見送って、更に代替わりしていく王族の中で居心地が悪くなかったと言えば嘘になるわね。
それならば、どこにいても同じかもしれないと考え始めた頃、大貴族のひとりに恩賞として聖獣を下賜するという話が耳に入ったの。
当時、他に良い年周りの聖獣がおらず、まだ若い仔を下賜するのは可哀想だとも思って、わたくしが名乗りを上げた。
それに、ドルフガレン侯爵と言えば押しも押されぬ大貴族であったし、王宮と代わりはないとも考えたのよ。
結局それが後々まで引きずる事件のきっかけとなったのだけれど。
そもそも、わたくしはエレオノーラを失い、彼女の親やきょうだい達とも死に別れてしまって気持ちが沈んでいた。
代替わりしていく王族とも付き合いはあっても、当時ほどに親しくはなれなかった。
かなり、やる気がなかったことは確かね。
それに、下賜される際には聖獣であることを示すために本性であらねばならない。
当然わたくしも、スレイプニルの姿で王の間に佇んでいた。
首長竜の皮で作られた細工模様の騎乗帯を付け、頭部には銀細工の鎖でできたレースに金剛石を嵌め込んだものをあしらい、鬣のあちこちに真珠を編み込んだ姿は自分でもうっとりするほど素敵だと思ったものだった。
わたくしの姿を見たドルフガレン侯爵も、息を呑んで感動を表していたわ。
王へ、感謝する言葉に嘘はなかったし、わたくしを引き受けることを誉れとも言ってくれた。
わたくしはすっかり、住む場所が変わるだけで今までと変わりない生活が待っているものだと思っていた。
けれど、待っていたのは厩舎だった。
もちろん、厩舎が嫌いというわけではないの。本性は獣なので、むしろどこかホッとする部分もあったわ。
そうね、誰も見ていない気楽な私室、という感じかしら。
だけれど、王族と共に過ごしてきたわたくしとしては、あまりにもマナー知らずの騎獣達が周りにいる状況が許せなくなってきたの。
新鮮な気持ちも最初のうちだけで、ドレスが着られないこともなんとなく釈然としなかった。
確かに最初は、これこそ聖獣の本来の姿と思ったわ。
庭を走り回れる爽快さや、騎獣達の尊敬の眼差し、自分が本性のままでいられることの気持ちよさは味わったことのない自由だった。
でもそれも限度があるの。
調教師達はわたくしの言葉をしっかり聞こうとはしないし、しかも他の騎獣達と同じ扱い。いいえ、騎獣よりもひどいわね。
騎獣に対してだって、普通の獣と同じような扱いでびっくりしたわ。もしかして、希少獣が賢いことを知らないのかしらと思ってしまったもの。
彼等に悪気がないことは後に分かったのだけれど、まさかこのわたくしに対して、幼児語を使われるとは思っていなくてすっかり気分を害していたわたくしは、口など利いてやるものかと意地になってしまった。
それから、無礼な若者がやってくるまで、わたくしは気難しいスレイプニルとして過ごしてきた。
けれど、この若者が存外わたくしの言葉を理解しているようだし、少しだけ向き合っても良いかと思ってしまったの。
……おチビちゃんがめげずに突進してきたのも、なんだか新鮮だったのね。
無下にされても全く気にせず、オバちゃん遊んで、とまとわりついてくるのはなかなか衝撃的な体験だったわ。
そういえば、周囲の騎獣達の方がおろおろしていたわね。
翌日、急遽整えられたと思しき部屋に通されて、少し古い様子のドレスが用意されているのを見て、今まで意地を張っていた自分が馬鹿らしく思えてしまった。
ドルフガレン侯爵が現れた時にはすでに完璧な淑女姿であったのだけれど、彼はとても驚いた顔をしてから、慌てて膝をついて王族に対する礼を取ってくれた。
「リデル様、今までのご無礼をどうかお許し下さい」
いろいろ言いたいことはあっただろうに、彼は言い訳など一切せずに謝ってくれた。そこに嘘はなかった。
わたくしも意地を張っていたのだから、お互い様だと思って、頷いて彼の謝罪を受け入れた。
「人型にならずにいたのは、わたくしですから。気付かなかったのも致し方ありません」
「いいえ。もっと、知るべきでした。リデル様がどのようにお過ごしになってきたのかを、わたしどもはもっと知っておくべきでした」
人間のように過ごしてきた聖獣がいるなど、普通は知らないものなのだ。
そのことを、わたくしもここに来て知った。
「……わたくし達はお互いに、歩み寄る努力が足りませんでしたわね」
「リデル様。いいえ、いいえ。わたしが、わたしこそが、いけなかったのです。この期に及んでもなお寛大なお言葉を賜り、我が身の至らなさが余計に恥ずかしく思うばかりです。今後は心を入れ替えてお仕えするつもりでございますが、リデル様もどうぞ、心置きなくお過ごしくだされますようお願い申し上げます」
「……ええ。あなたの、ご厚情に感謝いたしますわ。それと、聖獣としての務めも果たすつもりでおります」
「リデル様」
「わたくし、エレオノーラ様の聖獣でしたが、秘書としてマナーをお教えするお仕事しかしたことがございませんの。ですが、本性は聖獣ですわ。仰っていただけたら、聖獣としての働きもできると思います」
わたしくも謙虚にあらねばならないと、思い至りました。
ドルフガレン侯爵は驚いた顔をして、それから、ふと小さく微笑まれた。大貴族の男と思えない風情に、わたくしは内心で驚いたものです。
「……では、今後はどうか、我が家の者にマナーをお教えいただけますでしょうか。調教師にも、騎獣への接し方などを。お客人を招く場合は間違いがないか見張っていただけると助かります」
彼が、敢えてわたくしに仕事を与えてくれたのだということはわかった。
度量の大きな人間なのだ。
「よろしいでしょう。お受けいたします。それと――」
「はい」
「……おチビちゃん、そう、あの小さなフェーレースの仔。あの仔にもマナーをお教えして差し上げたいと思っておりますの。よろしいでしょうか」
「ふふ、そうですか。ええ、もちろんです。リデル様のよろしいように、なさってください」
彼は笑顔で了承し、部屋を出ていった。
その後、日に日にドレスが増えていき、やがて誂えてもらった聖獣専用のドレスが大量にクローゼットへと収まった。
わたくしはドルフガレン家で、王族の古式ゆかしい淑女のマナーを知る者として、その腕を振るうことになった。
もちろん、おチビちゃんにもビシビシとマナーを教えてあげました。
たった一日で教えるには時間が圧倒的に足りなかったのだけれど、あの若者が一緒なのだから大丈夫でしょう。
少々騎獣に甘い若者でしたが、愛情だけは今まで見た誰よりも多く注いでいるように見えた、彼ならば。
最初に会ったときから不思議な気持ちになった、あの若者。
最後に会った時に、その理由にわたくしは気付いた。
彼は、エレオノーラにどことなく似ていたの。
彼女のように弱々しい体でもないのに、どういうわけか、わたくしにはそう感じられた。
ふとした瞬間に翳るおとなめいた視線のせいだろうか。
まだまだ若いのに、時折老成して見える横顔が、そう思わせるのかもしれない。
晩年の、床に伏したエレオノーラにどことなく雰囲気が似ていた。
だから懐かしいような気持ちになって、一緒にいるおチビちゃんをもっとしっかり躾けねばと思ったのかもしれない。
だって、エレオノーラと同じ主なら、その供につくものはしっかりしていなくてはならないでしょう?
そう、わたしくのように。
おチビちゃん、あなたはもっと主のために頑張らなくてはならないのよ。
あなたは置いていかれるわけではないけれど、別れはいつかやってくるのだから。
その時、後悔しないように。
残されるもののためにも。
わたくしにはその気持ちが痛いほどよく分かっているから。
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