第81話 そして、ワルツは終わりを告げて
「人々は見たいものしか見ない。世界がどういう悲惨に覆われているか、気にもしない。
見れば自分が無力感に襲われるだけだし、あるいは本当に無力な人間が、自分は無力だと居直って怠惰の言い訳をするだけだ。
だが、それでもそこはわたしが育った世界だ。スターバックスに行き、アマゾンで買い物をし、見たいものだけを見て暮らす。わたしはそんな堕落した世界を愛しているし、そこに生きる人々を大切に思う。
文明は……良心は、もろく、壊れやすいものだ。文明は概してより他者の幸せを願う方向に進んでいるが、まだじゅうぶんじゃない。本気で、世界中の悲惨をなくそうと決意するほどには」
出典:伊藤計劃「虐殺器官」
▽ ▽ ▽
炎は遠くあった。煙はどこかへ消えているように思える。悲鳴も、泣き声も、今は現実感も湧かないほどに削ぎ落とされたように感じる。
そんなことはないはずだ。危機は未だに去っていない、ここはまだ災禍の収まらぬ街だ。それでも、なにもかもが遥か遠い。
今はただ、目の前の青年が、――カゲイ・ソウジだけが、彼女の相対する唯一の現実。
「やあ、エクセルさん。お怪我はありませんでしたか――まあ、その分だと目立った怪我はないようで良かったです」
血まみれで、横たわったまま、青年はいつもと変わらない口調で語りかける。彼女の前で行った惨劇も、あれほどの死闘も、そんなものは大して語るほどのことでもないというように。
「ソウジ……沢山、人が死んだよ……みんな……死んでしまった……ロエルゴさんも、ケルビンも、リムシーさんも、エリザさんも、この街の人達が、沢山死んだ……ねぇ、ソウジ」
死者の頂に、自分は今立っている。カゲイ・ソウジが作り上げた、死者の山頂で、彼女は真実を見ることができた。
ゆえに、そう思う。そう思ってしまう。
「私が、お前に願ったから、そうなってしまったの……? 私が、お前に何も願わなければ」
カゲイ・ソウジは答えない。沈黙のまま、目を閉じたままエクセルの声を静かに聞くだけだ。
「もし私が、真実を知りたいなんて、願わなければ」
エクセルはわかっている。そんな問いに意味は無い。もしも、という例えを考えるには、もう現実はあまりに多くのものを失ってしまった。
カゲイ・ソウジがいなければ、エクセルは真実にたどり着くことは無かっただろう。そして事件を追いかけることもできず、記者の夢を諦めて帰郷する決意を固めていた。
ロエルゴは薬物をバラまいた部隊の撤収の際に消される、もしかしたら家族ごとそうなっていたかもしれない。
あの空を飛ぶ紳士との戦闘も起こらず、街は燃えなかった。
今よりは多数の人間がまだ生きている可能性はあっただろう。
その多数の人間の命が、ソウジがえぐり出した真実の値段だ。
「これが真実なら……真実のための無くさなければいけないものだったなら……あたしは……真実なんていらなかった……!」
正しいと、思えることを伝えることがしたいから、記者となった。真実こそ正しさがあると思っていた。だからこそ、真実を求めた。
そして、多くの犠牲の上に掴んだ真実は、エクセルが傷つくものでしかなかった。
握りしめる彼女の手のひらに、血が滲む。ロエルゴを殺したソウジが許せない。そして何も気づけなかった自分も許せない。
そして何よりも許せないものは、それでもソウジを憎むことができないということ。
「いらなかった、こんなものは……!」
この狂ったものたちが踊り狂う街で、エクセルが生き延びてこれた理由は、カゲイ・ソウジがダンスパートナーだったからだ。
だがその夜会ももう終わる。参加者達は次々と舞台を降りていった。今残っている者は、彼女と勇者しかいない。最後のステップを刻もう。
「ごめんなさい、エクセルさん。僕の見せた真実は、あなたの望む形の物ではなかったのでしょう」
勇者は、ただ瞳を閉じてゆっくりと言葉を続ける。
「あなたが偽りの無い真実を望むというなら、僕はそれをあなたに見せなければいけないと思いました。僕はあなたが、本当に勇気のある人なのだと思ったからです」
「勇、気……なにを」
「真実は、見る人間によって違うものです。それぞれの脳が認識したものを、それぞれの真実として認識しているに過ぎません。
同じ青空を見ても、僕の見えている青と、エクセルさんの見えている青と、ロエルゴさんの見ている青が、全て同じように見えている保証などどこにもないのです。
誰かの真実が、自分の真実と同じものとは限らないんですよ。生まれてから一度も色を見たことがない人に赤色を理解してもらうことができないように、他人に自分の真実を本当に理解してもらうことはできないんです」
ソウジの言葉がエクセルの胸に響く。エクセルはロエルゴを正義の人だと思っていた。正しさのために強くあれる人間だと思っていた。
そう思っていたエクセルの真実は、ロエルゴの現実とは違うものだった。ロエルゴは鉄のような強固な男でも、すべてを犠牲にしても信念を曲げない男でもない。
愛するもののために、間違ってしまう当たり前の人間だった。愛するものが死にゆく姿に耐えられない普通の人間だった。
その真実を、エクセルは気づけなかった。
「人によって真実が変わるなら……あたしが求めていたものはなんだったの……? なにを求めてこんなことになってしまったのよ!」
泣き叫びながら、それでも彼女は勇者に問う。命を懸けてでも、答えを知りたいと思う。
「だから、あなたは勇気ある人だと思ったのですよ」
ゆっくりと、勇者の目が開かれる。
「自分だけの真実の中に閉じこもる生き方でもやろうと思えばできるでしょう。他人に見える真実など知らぬまま生きることは簡単なはずです。
それでも、あなたは傷つくかもしれない、他人でも自分のものでもない本当の真実を明らかにしたいと選んだ。自らの意志で苦難へ挑むことを、人は勇気と呼ぶのではありませんか。かつて、僕が最後を看取った老人が教えてくれたことのひとつですよ」
「違う……あたしは、知らなかった……真実がそんなものだなんて……なにも考えていなかった……そんなものが勇気のはずがない! あたしは、ソウジの考えていたものとは違う!」
「それでも、あなたはこうして僕に語りかけている。僕から逃げようとすればできたでしょう? それでもこうして僕に声をかけたのは、あなたがまだ真実を求めようとしているからだ。
都合の良い真実を作り出し、埋没するのではなく、あなたは現実の中に探し求めている。それはきっと勇気と定義できるもののはずです」
「あたしは……あたしは……」
零れる涙を、こらえることができない。自分に勇気があるとは思えない。真実を確かめようとする自らの意志を、勇気と定義するカゲイ・ソウジの言葉は彼女の何かに深く食い込んでいく。
「ソウジ、あたしは……それでもお前を許せないんだ、ロエルゴさんを殺したお前を、許せないんだよ」
勇気が欲しいと思う。許せないと思うこの心を、憎悪と殺意に変えてくれる勇気が欲しい。
「許せないんだ」
震える手が、ポケットから折りたたみナイフを取り出す。引き出される刃は、薄く、小さく、人の命を乗せるにはあまりにもちっぽけだ。
しかし、今身動きできないボロボロのカゲイ・ソウジを刺し殺すには十分だろう。
一歩、距離を詰める。ソウジは以前荒く呼吸をするだけだった。
勢いよくソウジの上に馬乗りになり、心臓を狙いナイフを両手で振りかぶる。ウェイルーの言葉が脳裏をよぎる「やつは怪物だ」「虐殺犯」、ならば今エクセルの行う復讐は、確実に世界というもののためになる行動なのだろうか。必死に、正当化と理由を探す。今彼を殺すための、自らの殺意を押し出す力を求める。
「エクセルさん」
動かない勇者は、星が見える暗い空を見上げながら、静かに呟く。
「――最後に、あなたの願いを叶えることができて良かった」
「……う、あぁ」
乾いた音を立て、ナイフが地面を転がる。
「う、あぁ、ああああ!!」
彼女にはもう耐えることが出来なかった。零れる涙を拭うこともできず、泣く。それが世界の為になる正義であるとしても、それが師を殺された許せない相手だとしても、エクセルに彼を殺すことは出来なかった。
「……殺せない、あたしには、殺せない……!」
やはり自分には勇気などない。彼を切り捨てることができない。許せないのに、憎むことがどうしてもできない。
「泣かないで下さい、エクセルさん」
勇者が上体を起こす。エクセルを抱きかかえながら、立ち上がる。足元に垂れる、大量の血液。
「……やめて、離して!」
力の無い勇者の腕から逃れる。青白い顔でふらつきながら、勇者は魔術紋様を展開。複雑な軌跡を描く燐光が、空間を埋める。
「なに、これ……?」
「エクセルさん、ここらでお別れです。僕たちはもう、会わないほうがいいのでしょうね」
光はソウジの背中に集う。超高熱の光の円環が現れ、収束する。
「待って、どこにいくの!?」
「あのハゲアタマの人から聞き出したんですけれど、近い内に元ノル国との国境に難民の奴隷の方達が溜まっているそうで、近々軍隊による一掃作戦が起こるそうです」
「一掃……それって」
「つまり、奴隷の人達を皆殺しにして事態を収束させる気のようですね。ですがそういう話を聞いたからにはそのままにはできませんので、止めに行きます」
勇者としての契約が、虚無を動かしていく。勇者は弱者のためにあらねばならないと。
円環の光が回転。轟音を上げる。
「ま、待って! ソウジ、行かないで!」
なぜ、そう叫んでしまったのか、エクセルには自分でも理解できない。
もう自分はどうにも壊れてしまったのだと思う。生物としての危機に働くべき部分が、人間としての正しく思考するべき部分が、致命的に壊れてしまっている。
それを壊したのは、他ならぬカゲイ・ソウジだ。
勇者の背中に、不可視の羽が展開。空気を切り裂き広がる。
「待って!」
伸ばした手が空を切る。勇者の身体が飛び立つ。
「さようなら、エクセルさん。もう二度と、会えないこと願いましょう」
東の空に、僅かに太陽の光が見えた。もうすぐ、朝が来る。
炎の夜は去りゆき、殺人鬼と記者のワルツが終わる。狂乱の舞踏、それに最後まで残ったものが、真実を掴んだ。残酷な真実は、それでも価値あるものだったはずだ。
それが無意味だとするならば、あまりにも悲しすぎるから。
はるかに燃える街を見下ろしながら、勇者は次の目的地を目指す。次は何を救えるのか、誰を傷つけることになるのか。それは運命さえも知らない。
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