《第54話》わさびは絶対おろしたてがいい!

 静まり返ったカフェの横に、黒塗りの高級車が勢いよく停車した。

 もう少し余裕のある運転をして欲しいものだが、彼の性格上無理なのだろう。

 そう、ご存知の三井である。

 さらに助手席には連藤もおり、大きな紙袋を抱えてカフェへと入って来た。


「結構な荷物じゃない?」


 莉子は店の扉を開けて2人を待ち、入ったのを確認すると再び扉の鍵をかけた。

 もう閉店の時刻だ。現在22時である。


「今日、会社で打上げあってな。

 その残りだ」


 三井は言いながら使い捨て容器に詰めこまれた数多の料理をカウンターに並べ始めた。

「残りかい」莉子はふて腐れたように言うが、よくよく見るとどれもかなりいい食材が使われている。ホタテの貝柱は大きいし、ロブスターもあるではないか。


「ホテルのケータリングだから悪くはないはずだ」


 連藤のいう通り、かなり高級な残り物に違いない。

 こんなものを会社の打ち上げで食べられるとは本当に大企業の方々なのだと改めて莉子は実感するが、


「で、2人はこれを持って来てどうしようと?」


「二次会をここでしようと思ってな」だから車は置いていく。その三井の言葉より、これ以上人数が増えることの方が莉子は気になるようだ。


「じゃ、会社の人もこれから来るの?」


 莉子は慌てて鍵を開けに行こうとするが、連藤に手を掴まれた。


「俺と、三井と、莉子さんで二次会になる」


「なんで?」


「若い奴らで二次会は行ったらいいんだ」


「あなたたちも十分若いと思いますけど」


 そういうと2人で肩をすくめて見せる。役職的に『若くない』部類に入るようだ。


「じゃ、3人であまりものいただきますか。

 ……で、今回のあまりは、まず、ホタテのカルパッチョ、ロブスターのグリル、あとローストビーフがこんなに!」


 莉子が感動するのも無理はない。

 使い捨て容器4つ分に、少し厚めのローストビーフがたっぷり詰め込まれていたのだ。


「私、このローストビーフをどんぶりにして食べたいんですが……

 庶民なもので、こんな高級食材なかなか食べられないんで」


「そういうと思って、生ワサビももらって来た。

 少し遅れたのはワサビを下ろす鮫皮おろしを取りに行っていたんだ」


 連藤の嬉しそうな顔に莉子も思わず頷いてしまう。

 たしかに、それはここにそんな物はない。

 なんていってもcaféだから!


「やっぱり連藤さんは千里眼なんですね」


 莉子はうっとりと言うが、三井はそうじゃないと思うものの、口には出さなかった。


「ワサビのおろしたてが食べられる上に、どんぶりにできるとは本当に莉子は幸せ者です。

 なので今日は、ピノ・ノワールのワインを出すとしましょう」


 莉子がおずおずと差し出してきたのはフランス、ブルゴーニュのピノ・ノワールだ。

 繊細な香りと程よいタンニンの重みが見事に調和しているのがこの土地のワインの特徴かもしれない。


「高級食材には、高級なワインじゃないと」


 莉子はそういいながらグラスにゆっくりと注いでいく。

 赤い液体は濁りがなく、輝くような艶が見える。だからこそ宝石のルビーに例えられるのだが、本当に美しい色合いだ。グラスの中で揺らめくたびに輝くのがわかる。さらに香りは豊潤でありながら華やかな香りが漂い、まさしく優雅な雰囲気だ。

 その間に連藤は丁寧にワサビを下ろしていた。

 ワサビは土に埋まっているのだが、下に向かって辛みが少なくなるため、葉っぱがある頭からおろすのが正しいという。のの字を書きながらゆっくりと下ろされていくワサビからはツンとした香りが立ち込め、明らかにチューブのワサビとは違う品格が漂っている。

 莉子は手のひらにおさまるほどの小ぶりのどんぶりにご飯をよそうと、ローストビーフを5枚乗せた。

 たった5枚と思うなかれ。

 1枚の厚さはだいたい5ミリほどあり、しかもとても柔らかい。

 それにわさびをのせて食べるのである。

「早く食べたい」思わず心の声が口から出てしまう。

 準備が整ったところで、グラスを3人で掲げると、「お疲れ様」の声をスタートにワインと食事が始まった。


 今日はワインなんかよりもローストビーフ!


 莉子の心はそちらに一点集中していた。

 そっと肉にワサビをのせて、ソースもあるが今回はこのワサビだけで食べてみる。


「…うまっ!」


 肉の柔らかさが半端ない。

 それなのに肉の味がしっかりとわかる。

 それを引き立てているのは間違いなくワサビだ。

 ツンとしていながらも、粘りのあるワサビは肉の旨みさえも引き出すようだ。

 辛味に合わせてご飯を頬張る。

 もうこれだけで何杯でも食べられそうだ。


「しあわせ」


 莉子は口に両手を当てながら、目を細めて味の変化を楽しんでいる。

 小皿に醤油をたらし、ローストビーフにワサビをのせて醤油を少しつけて食べても、また美味しい。

 そこにワインを飲み込むとまた複雑な味の変化がおこり、肉の風味が上品かつ旨みとなって楽しめるすばらしい味に変わってくれる。

 口に頬張る度にころころと変わる莉子の表情を三井と連藤が笑って見ている。


「なに二人とも、私のほう見て」


「しあわせそうに食べているなと思ってな」


 連藤が言うと「お前もそう見えてるのか?」三井は驚くが連藤と同じように含んだ笑顔で、

「ローストビーフ、持ってきて良かったわ」そう言った。

「庶民をからかってんの?」莉子は少しふてくされるが、美味しい味が口の中で溢れて硬い表情など作っていられない。食べても飲んでも口の中からしあわせなのは止められないのである。


「美味しすぎる。

 よく二人ともこんな美味しいご飯食べてて、うちのカフェのご飯食べられるね」


 どんぶりのご飯を食べきると、次はロブスターと、莉子はナイフをのばしていくが、連藤と三井は顔を見合わせていた。


「莉子さんのご飯は、安心した味だからな……」

 考え込むように連藤が言うと、


「庶民の味ってヤツだよな」

 三井が得意げに続ける。


「それが一番食べ飽きないからねっ」

 莉子はロブスターを頬張り、言い切った。


 よくわかっているようだ。

 自分の店の立ち位置がわからなければ客層も絞れはしないし、メニューの価格も決められない。

 これがわかっているからこそ、莉子の店が続いているのだろう。


「ねぇ、二人は食べてきたから食べないの?

 それとも食べたくないの?」


 莉子ばかり口に運んでいるのを気にしてか、箸を止めて2人の顔を見つめる。


「俺たちはゆっくり食べて飲むから、莉子さんは思う存分食べて構わない」


 連藤が目を細めて言うと、


「わかった!」

 莉子の弾んだ声が聞こえた。


 いつも笑顔で迎えてはくれているが、これほどしあわせそうに食事を楽しむ莉子を見ることは、連藤でもそれほどないはずだ。

 それは店の人間だからであり、何かをしながら食べている彼女を見ることが多いからだ。

 彼女は今、純粋に食事を楽しんでいるのがよくわかる。

 目が見えない連藤ですが、その楽しげな雰囲気が伝わっているほどだ。

 心が躍っているのが足の運び、彼女の空気から感じられる。


「莉子のやつ、子供みたいだな」


 連藤の耳に三井が素早く声を打つと、


「愛くるしいだろ?」


 つらりと返してきた言葉に、


「ガキの面倒は俺にはできん」


 三井は鼻で笑うが、


「だから俺は好きなんだ」


 莉子に届かない声でそう言った。

 よせよと言わんばかりに連藤の肩を叩き、三井は一気にワインを飲み干すと、


「莉子、強いのあるか?」


 再びローストビーフを頬張っていた莉子は、無言のままウイスキーボトルをカウンターに乗せた。

 くるりとラベルが回される。


「あ、お前、これ、……」


 口が動いたままだからか、何度か大きく頷き、グラスを差し出すと、彼女は再び食事に集中しだす。

 ストレートだから自分で注いでということのようだが、軽く頭を抱えている三井がいる。

 してやられた、そんな表情だ。


「三井、どうした?」


「お前の気持ち、ちょっとだけ、わかるわ」


「ん?」


「俺が探してたウイスキー入れてやがった……」


 自分でウイスキーを注ぎながら「やっぱ連藤の彼女ってことなのかね」三井はこぼすが、その言葉の意味がわからず、連藤は首を傾げて見せる。


「お似合い、ってことだよ」


 吐き出すように言った後、酒で気持ちを飲み込んだ。

 羨ましいと感じた自分を飲み込んだのだ。


 莉子の食欲は変わらずあるようで、二杯目のご飯に突入していた。

 何かの音で連藤はわかるのか、


「莉子さん、またご飯を食べる気か? 胃を痛めるから食べ過ぎてはだめだぞ」


「だって明日になったら美味しくなくなるもん。ワサビだって今がいい香りだし。だからさ、食べ終わったらこのまま起きてたら問題ないと思うんだ」


「そういう問題でもないと思うが……」


「いいの。後悔しても美味しいものは今食べるの」


「では食べ終わったら胃薬を飲むのを忘れないように」


「わかってるってば」


 やっぱり撤回しよう。

 羨ましくはない。

 三井は思い、再び酒を飲み込んだ。


 今日の酒も、美味しい。

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