《第30話》思い出の中の人の顔は(後編)

「三井さん、帰ったら?」

 カウンターの端に備え付けてある時計が午前1時を指した。針の音が妙に響く。

 彼らが出て行ってから、かれこれ2時間になろうとしていた。


 酒をひと口含み、

「お前が自殺したら困るからな」三井は伏せ目がちに言うが「しないし」莉子は即答で返す。

 だが馬鹿話をして待てるほどの心の余裕はまるでない。

 三井もそれがわかっているのか、ただ酒を口に運んでいる。


「あの彩香さんて人と連藤さん、お似合いのカップルだったんだね」

 三井は莉子を見やるが、莉子は杖を撫でたままだ。


「この前ね、連藤さんに『一目惚れだったんだ』なんて言われたんだけど、

 きっと美人を見すぎてて、素朴な私が新鮮に感じたんじゃないかな」


 莉子の視線が遠くに結ばれた。

「すごく幸せだったなぁ……」

 か細く声が千切れていく。


「莉子、」

 語気を強めに名前が呼ばれた。


「莉子、お前、腐るなよ。

 昔は昔、今は今だろ」


「そんなのわかんないじゃん!」

 莉子の声が上ずった。


「連藤さんは責任感ある人だから、

 もしかしたらずっと彩香さんのことに負い目があるかもしれないし、


 今の時間が好きな時間でも、

 あの人は今の時間を犠牲にしちゃうかもしれない。


 それを選ぶなら私は、支えなきゃ。


 だって連藤さんのこと、



 ……好きだから」



 もう我慢ができなかった。


 莉子の両目からは涙がとめどなく溢れている。

 しゃくりあげる声ですらごまかすことをせず、莉子は顔を歪ませる。

 どうすることもできない自分と、どうにかしたい自分がせめぎ合って、罵り合って、どうしようもない感情が胃の中を動き回っている。

 言葉にしたくても、支離滅裂の気持ちの中じゃ、何が正しくて間違いで正直な言葉なのかわからなくなる。


「あいつを信じてくれよ。

 杖は、あいつにとって命綱なんだ。

 ここに帰ってくる意思の表れだろ?」

 カウンターに突っ伏して泣く莉子の頭を三井が撫でた。

 思っていたよりも柔らかい髪がしなやかでも無骨な指に絡まっていく。

 あやすような、そして親友を信じてほしいという気持ちが、撫でる速度から、じんわりと莉子へと伝わって来る。


「待つぞ」

 三井に言われ、莉子は小さく頷いた。


 一旦泣き止んだ莉子は、顔を洗いに裏へと下がってきた。

 蛇口をひねり、水をしばらく出してから手を差し込み、すぐさま引く。

 予想より冷たい。


 ふと顔を上げた時、正面に備えられた鏡に自分の姿が映し出されている。


 昔見たことがある顔だ。


 両親を亡くしたあの日の自分だ___


 思わず笑ってしまった。

 まだ連藤は生きているではないか。


「忘れ物は取りに来る人だよね」

 莉子は鏡の自分のいい聞かせ、先ほどよりも冷たくなった水を顔に浴びせた。

 火照った頬に、瞼に、心地が良い。


 頬を叩き、深呼吸を何度も繰り返し、ようやく落ち着いたところで、莉子は再びカウンターへと戻った。

 三井は相変わらず手酌でウイスキーだ。

 だがウイスキーの瓶の残りがもう欠片と言っていい。端に溜まるウイスキーは三角を描いている。

「こんなに飲んだの?」

 莉子が瓶を掲げ驚きながら声を上げるが、

「……こんなに飲んでたのか?」逆に三井が驚く始末だ。

 三井なりに不安と心配があるのだろう。

 酒に八つ当たりをしてみるが、なかなか応えてくれないようだ。

 まるで彼は酔っていない。

「意外と俺も繊細だろ?」

 強がってみるが、それだけ彼の心に緊張が張り詰めているのだ。

 その嫌な気持ちを声に出すことにした。

「俺は、あの女が嫌いなんだよ」

「いきなり何?」莉子は三井の横に腰を下ろし、彼の話を聞くことに決めると、肘をついて彼を覗きあげた。


「……あの業突く張りっ」

 吐き捨てて、彼は酒を飲み込んだ。


「最初は俺にモーションかけてきたんだ、アレは」

 もう、アレ呼ばわりである。

「三井さんでもモーションをかけられることあるんですね」

「これでも俺、モテんだぞ?」

「知ってるよ。

 で?」

 莉子はワイングラスで揺れる青くも白いワインを傾け、促した。

 ワインはいつだって自分の味方だ。

 この白ワインは瑞々しくもカチリとした硬い酸味とミネラルが自分の背中を支えてくれる。


「実は俺が同期の中じゃ一番最初に出世したんだ。

 んで、アレは当初、俺に声をかけてきたってわけ。


 アレは確かに高嶺の花ではあったが、上役を取っ替え引っ替えしてると裏では有名だった。

 そのレッテルを剥がすためか、同期の男に目をつけたわけだ。


 ま、莉子もわかってると思うが、俺の趣味でないんで放っておいたのがいけなかった。


 すぐに連藤へと照準を変えやがったんだ、アレは」


 連藤がとあるプロジェクトを完遂したことが発端だという。

 連藤は持ち前の洞察力と分析力で、同期はもとより、先輩上司よりも抜きん出てそのプロジェクトを成功させた。

 それは大きな出世の礎となって、見る間に役職が上がっていった___


「実際妬みもあっただろう。

 それでもあいつなりに努力してたと思う。


 そんな折、アレにひっかかっちまった」


 同期に僻み妬まれるなか、上司からも睨まれ、四面楚歌といってもよかったかもしれない。

 取りつく島がないなか、アレは弱みに付け込んだのだ。

 三井がそう表現するが、実際はわからないだろう。

 連藤が彩香に出会い、彼女の良いところを見抜いたのかもしれない。

 きっかけは彼女だとしても、彼の中で彼女の存在が重要になったのかもしれない。


 高飛車の彼女を素直な少女にできるのは、彼だけだったのかもしれない___


 だがそんな二人も別れを選んだのだ。


 もう、5年も前に。


 ___それを今更反古にしようとするのはどういうことだろうか。


 莉子自身、正直に言うと、虫が良すぎると思う。

 一番の苦労する時間を共に歩まず、ようやくと安定した連藤の元へのうのうと現れたのだ。

 莉子でもそう感じるのだから、三井など激しく感じるのは言うまでもないだろう。


「三井さん、うちにウイスキーの在庫ないんで、

 それ空になったら、……あ、ラム酒ならあるわ。

 香りがいいやつ」

「それは菓子用だろ」

「ワガママ言わない」

「……したらそれ貰うか」

 グラスにウイスキーを注ぎきり、最後の一滴までしっかりと落とすと、三井は残りを飲み込んだ。


 夜中の今は心の棘がむき出しになる時間だ。

 怒りも妬みも、全て、皮膚を通して空気に溶けていく。

 二人のどす黒く歪んだ空気は、二人の頭の上で渦を巻いて漂って、明日への陽射しすら遮りそうなほど、厚く苦い感情で蠢いている。

「お前、何考えてる?」

「聞かないでよ」


 二人で同じラム酒を飲んで目を合わすが、そんなに綺麗なことではない。


「……想像するだけなら、タダだよな」

「妄想は誰にも迷惑かけませんからね……」


 二人は再び口をつぐみ、酒を飲み込んだ。

 香りも味も感じないのはなぜだろう。

 莉子自身も酔いが回ってこない。


 むしろ逆に頭が冴えてくる気さえする___


 何度目のため息だろうか。

 もう夜中の3時である。

 陽も昇り始める時間だ。


「朝帰りかなぁ……」莉子が呟くと、

「やめろよ、気持ち悪い」三井があからさまに嫌な顔を浮かばせた。それが妙に面白く、笑いがこみ上げ、ついには噴き出す始末だ。

「なんでそんなに笑うんだよ」

「だって女の私が嫌悪するならまだしも、三井さん男じゃん」

「アレだと思うと、マジで吐き気がする」

 莉子、酒! 彼はラム酒の追加を促す。

 大雑把に注ぎすぎたか、カウンターに酒の雨が降ったようだ。

 ぽつぽつと痕がついて、今までのため息がシャボン玉のように落ちてカタチを作っているようにも見える。


 ガラス張りのカフェの壁をヘッドライトが舐めて行った。

 思わず目が眩むが、それは無造作に駐車場へと移動していく。

 見慣れない車だ。

 白と黒のツートンに、天井には赤いランプが乗っている。


 ___警察?


 気がづいたとき、警察官に気遣われながら連れられ歩く人影が映る。


 二人はすぐさま外に飛び出した。

 支えられるように歩くのは、やはり連藤である。


 出てきた二人に警官も軽く会釈をし、

「こちらの男性が迷われておりまして、お連れしました」

 その声に莉子は頭を下げつつ、

「大変ご迷惑をおかえしました」再度腰を折る。

「いいえ、意識はしっかりされてますし、体調は問題ないかと。

 ただ目が見えない人なのに、あんな街中をふらふらと歩かれるのは、どうかと思いますよ?」

 申し訳ありません。莉子が謝罪を続ける間に三井が連藤を中へと誘導していく。

 今後気をつけてくださいね。それだけ言い置いてパトカーは走り去った。

 車を見送りながら一礼すると、莉子もすぐさまカフェへと駆け込み、連藤の姿を確認する。


「連藤さん、怪我はない?」

 彼の肩をさすって確かめたとき、いきなり連藤の腕が莉子の腕を、体を、引き寄せた。

 莉子は突然のことにただ固まるが、より一層きつく締め付けるように腕が回されたとき、連藤の唇から言葉がもれ出した。


「三井、

 俺はここに、いたい……

 ……莉子さん、と、いたい……」


 震える声が落ちてくる。

 体も引きつるように震えている。

 莉子もそっと連藤の背中に手を回し、優しく撫でてやると、より一層肩が震えてくる。


「なら、それでいいんだよ。

 ……自分に素直になれよ、連藤」


 頷いた連藤の肩に三井の手がかかった。  

 かろうじて見上げた隙間から見えた三井の腕とくしゃくしゃに顔を歪める連藤の顔__


 眼鏡に水たまりができている。

 なぜか冷静に、だから涙が落ちてこないのだ。なんて思ってしまう。


 どこまでこの人は心の奥に気持ちを押し込んできたんだろう。

 どこまで過去の人のことを思って縛られて生きてきたのだろう___



「連藤さん、おかえりなさい」


 

 らしくない、もらしたくない嗚咽とともに、膝が崩れていく。



「……莉子さん、ただいま…」


 ___彼の過去が清算された瞬間だった。

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