《第31話》思い出の中の人の顔は(続・後編)
床で莉子を抱えながらうずくまる連藤の肩を叩くと、三井はおもむろにジャケットを羽織り出した。
「莉子、あと頼んだぞ。
俺から連藤の休みは伝えておくから、
今日はゆっくりなだめてやってくれ」
定休日だしいいだろ?
三井は莉子の頬を軽く撫で、軽くウィンクすると、颯爽と出て行った。
後ろ姿が清々しくも、たくましく、陽が昇り始めた木々の陽射しが彼にかかり、それは美しい。
持って行かれた………!!
かと思った。
まだ、大丈夫。
手も足もある。
「連藤さん、シャワー入る?」
虚ろな顔が上を向くが、首は右にも左にも振れない。
「ここ寒いから、上に行こうか」
連藤を椅子にかけさすと、再度戸締りを確認し、施錠を整え、連藤の手を掴み歩き出した。
連藤はうつむいたまま、だがしっかりとついてくる。
「ここから階段です。足元気を付けてくださいね」
そう言って上り始めた階段もいつもの彼らしく淡々と足を運んでゆく。
「最後の段です」
扉を開けて、部屋へと通した時、再び抱きしめられた。
先ほどの縋るようなものではなく、存在を愛おしむ、そんな柔らかく温かいものだ。
「……莉子さん、すまない」
「なんで謝るんですか」
「辛い思いをさせたので」
「確かにしましたが、
あなたが無事で安心しました」
「だから莉子さんは……」
連藤はまた顔を苦く歪ませる。
「なんでこんなに優しくするんだ……?」
「好きだから」
連藤の目を見て、莉子は言った。
連藤もまるで見えてるかのように、こちらを見つめている。
連藤が莉子の頭に触れ、頬に触れ、肩に触れていく。
莉子の身体を確認するように手が流れていく。
彼女をたどるように腕を伝い、首筋を撫でると、再び頬に触れ、両手で彼女の頬を包むように持ち上げると、連藤の鼻筋が目前にゆっくりとかぶさった。
綺麗に整った鼻頭を莉子は指で突いて豚の鼻にすると、
「女の口紅つけてるくせに、
そんなことはさせませんよ」
連藤の顔が赤くも青くもなっていく。
莉子はそれにも動揺せず、連藤をソファへ座らせると、彼女は名探偵のように人差し指を立てた。
「私の推理はこうです」
左手は腰に当て、ゆっくりと連藤の周りを歩き出す。
「多分貴方は、ここのカフェで話をするのは憚られるので、外へ出ようとあの女性を誘った。
誘ったのはいいがどこへ行こうかと迷っているうちに、タクシーに詰め込まれ、そのまま強引にホテルへと運ばれ、そこでも貴方は話をしようと試みるも……
多分、口紅がついていることから、強引な彼女のアプローチがあったのでしょう。
ただその紅は横に流れ、右の手の甲にも残っていることから、無理やり女性を引き離し、口を拭ったと考えるのが、スマートな流れでしょう。
そのまま貴方は見えないながらに外に出て歩いてはみたが、どこかも、何かもわからず、途方に暮れていたところで警察に保護され、今に至る。
どうでしょうか、連藤和弥さん?」
再び連藤の鼻先へ指を押し当てると、
「概ねその通りです……」
自白した。
私の推理は当たったのだ!
小さく座り込む連藤の頬に陽射しがかかった。
もう、日の出である。
自供した犯人の顔は青白く沈んでいる。
だが莉子の顔は清々しい___
なぜなら、推理が当たったからだ。
「そんなに沈まないでよ。
……え、
最後までしたの……?」
「してない!」
本当のようだ。
「そんな気分の時は、シャンパンの華やかな香りで洗い流しますか」
「シャンパン?」
「店で出したら3、4万はくだらないシャンパンです」
「では元値は1万ぐらいか」
「私にとっては高価なんですぅ。
そのスーツももっとランク下げれば、あの女も寄ってこないのに」
「このスーツだけはランクは下げられない」
「あっそ」
莉子はワインクーラーを取り出し、そこにシャンパンを入れてから、タオルをお湯で温め、連藤に渡した。
「顔、拭きなさい。
スッキリするよ?」
すぐに冷蔵庫にこっそりしまっておいたチーズを取り出し、それを切り分ける。
カマンベールチーズだ。白カビのツンとした香りがしてくる。
このチーズは取り寄せをしたとっておきだが出して進ぜよう。
そして今回のシャンパンはピノ・ノワールでできているシャンパンになる。
香りもさることながら、味もボリュームがあるのではと、期待が高まる。
準備を整え、ソファへ移動すると、顔を拭き終わった連藤が少しこざっぱりした表情を浮かばせていた。
すぐにジャケットを預かり、ハンガーにかけたとき、連藤は自然な動きでネクタイを緩めた。
細い指先がネクタイにかかり、首のボタンが二つだけ外される。
その仕草がいつも彼がしている仕草だけに、自分の部屋でそれが見られたことがなぜか特別な気がして、胸のあたりがぞわりとする。
すぐに耳も熱くなるのがわかった。
莉子はごまかすためにシャンパングラスを取りにその場を離れ、深呼吸をしてから、再び戻る。
コースターを置いてグラスを配置。ワインクーラーごと運び、そのグラスの前においた。
グラスの間にはカマンベールチーズと、いつものプリッツェルが盛られている。
「さ、飲みましょうか」
莉子は布でコルクを包むと、捻るように開けた。
勢いよく抜けるが、こぼれなかったため、成功と言えるだろう。
そっとグラスに注ぎ入れていくと、皮の色味がワインに移っているからか、ベージュを帯びたイエローに染まっている。
香りはとてもフルーティだ。パイナップルのような甘酸っぱい香りと香ばしい風味が抜けていく。
「では、乾杯」
連藤にグラスを持たせ、それに莉子がグラスを当てた。
その合図で二人ともにワインを口に運び、飲み込んだ。
舌にからむ細かな泡はとてもシルキーで滑らかだ。
また飲み込んだあとから苦味がわいてくるのが、心地よい苦味でとてもいい。
酸味が弱いため、カマンベールチーズとの相性もよく、するすると飲み込んでしまう。
「高いものは繊細だな」
「その通りですね」
莉子は満足そうに微笑むが、連藤は前を向いたまま、どこに視線をしばっているかわからないところを眺めている。
「莉子さん、
俺は後悔をしていたんだ」
「はい」
「自分の目が見えなくなったことで、あの人を苦しめたんだと」
あの人とは、彩香のことだろう。
「はい」莉子はただ返事を返す。
「だから俺はあの人を何かの形で幸せにしなければならないと思っていたんだ」
連藤はグラスに手が伸び、また一口飲み込んだ。
「5年の中で君に会い、俺も幸せになりたいと思うようになった。
そんな折、現れたんだ。
俺はやはり幸せになってはいけないんじゃないかって、思ってしまった……」
莉子は返事をしないまま、プリッツェルを頬張る。砕く音が妙に響く。
「だけど、あの人の顔が全く思い出せなかった。
あの艶かしい口元しか、思い出せないんだ。
笑顔とも言えない歪んだ唇に、あのさも当たり前と言わんばかりの態度。
思い出の中の人の顔は褪せて崩れていく。
だけど、莉子さんの顔は鮮明に浮かんでくるんだ。
多分想像で妄想で、勝手なイメージなんだと思う。
だけど、莉子さんの笑顔ならいつでも見えるんだ___」
あのたった一度の時間だったが、そのときでも莉子が様々な表情を描き、連藤と話をしたのだろう。
それが記憶の奥に沈み、定着し、彼の視野に浮かぶのだ。
それが虚像であっても、それでも幸せな顔が思い浮かぶのは、自分が幸せだからだ。
「私の顔かぁ……
美人な人、想像しといてくださいね」
莉子はワインを飲み干した。
鳴る喉の音につられて、連藤もグラスを空にする。
莉子はそれにワインを注ぎながら、
「ちゃんと断れましたか?」
「……よくは覚えてないが、酷いことを言った記憶がある」
「ちょっとスッキリした」
莉子が笑うと、連藤もつられて笑う。
もうだいぶ日が高い。時間は見たくない。
なぜか1日を意識したくないからだ。
「莉子さん、」
彼の手がおずおずと伸びてくる。
それは莉子の右腕を伝い、顎に触れ、唇へと流れ、指がそれをなぞっていく。
「莉子さん、この感触を教えて欲しい」
「酔っ払ってるの?」莉子は連藤の指を外して言うが、
「朝から飲ます人が悪い」
「女の人の匂いがついた人には教えられません」
莉子がそっぽをむいて答えると、
「なら、シャワーに入れてくれ」
「は? ……バカ?」
「俺は目が見えない」
真剣な表情の連藤をおいて、莉子は再びワインを傾け、
「裸に剥いて、水を浴びせればいい?」飲み干し、グラスをおいた。
「それでも構わない」
連藤は莉子の左手を掴むと、そっと彼女の胸に留め置いた。
連藤が彼女の肩を押していくと背が椅子の肘掛けで止まる。
止まった彼女に連藤が顔を寄せた。頬がこすれるほどだ。連藤の吐息が耳に当たる。
彼女の首筋に鼻先を滑らせると、鎖骨のあたりに顔を埋め、
「莉子さんも汗臭いかも」肌に唇が触れて、肌から声が聞こえるようだ。
そのままシャツがずるりと動き、露わになった肩の稜線にそって舌がねっとりと滑っていく。
思わず莉子は身体を仰け反らせるが、うまくよけられない。
「連藤さん、……!」
「今、莉子さんの困った顔が見えるよ」
胸元に莉子の手といっしょに置かれていた手が抜かれ、するりと首筋まで動くと、莉子のシャツのボタンに指が添えられた。
片手で器用にボタンが外れていく。
___この盲目ヤロー!!!!
酷い文句だ。
声には出さないが、心の奥底から叫んだ。
あまりにボタンを外すのが早すぎる……!
普通かは知らないが、映画などではムード全開で、ゆっくりほどくように外されていくものだが、手品師かの如く器用な指さばきでボタンが外され、胸元がはだけはじめる。
さすがというべきか。
目が見えなくなった長年の経験値が、ここで生かされている。
胸元を隠そうと莉子は素早く連藤の手を取り止めようとするが、彼も男だ。
すぐにほどかれ、瞬く間に彼の手は滑り落ちていく。
「俺だって紳士のままじゃないんだよ」
はだけたシャツの隙間から、連藤の冷ややかな指が莉子の腹をなぞる。
緊張と驚きとで、体をよじりかわそうとするが、彼の親指は肋の数を数えているのか、浮き出た骨をなぞりながら、ゆっくりと這い上がる。
「もう少し太っても困らないな」
小ぶりの胸に頬を乗せると伏せ目がちにそう言った。
そのまま胸の谷間に唇を寄せる。
同時に背に回った指先が、背骨を伝い、下着の奥へと差し込まれる。
ホックが外され肩紐が緩んだそのとき、莉子は悲鳴とも言えぬ奇声をあげながら、ソファから転げ落ちた。
「ちょ、連藤さん、酔いすぎ!」
莉子は服を胸の前にかきあわせながら、後ずさった。
「どこに行こうと言うのかね?」
連藤は眼鏡を掛けなおし、首元からネクタイを滑り落とすと、ゆっくりと迫ってくる。
莉子はすぐさま立ち上がるが、その間にも連藤は自身のシャツに手をかけ、胸元が露わとなっていく。
「3分、待ってやろう」
「どこのムスカ様だよ!」
だが、彼のはだけた胸元は定期的に鍛えているだけある。
流れる浮きでた鎖骨に、程よい胸筋、うっすら浮いた腹筋と、絞り込まれた腹直筋……!
__見惚れている場合じゃない!
「私はここの図面から携わっている。
この意味はわかるかな……?」
「シャアみたいに言わないでよ」
「私は全ての空間把握ができているのだよ」
「じゃ、私が向かっている場所もわかっているわね!」
アニメキャラのようにセリフを吐くと、連藤の腕を掴み、脱衣場への扉前に引きずり込んだ。
だが莉子のその手を取って、すぐに壁へと押し付けてしまう。
「私から逃げられると思っているのか……?」
再び連藤は莉子の鼻先を指でなぞり、唇の場所を知ると、ゆっくりと近づいていく。
お互いの吐く息が頬にかする。
「……ねえ、壁ドンの欠点って、知ってる?」
莉子は素早くかがみ込み、連藤の股の隙間に足をいれると、膝を一気に持ち上げた。
連藤の声が詰まる。
寸前のところで止められているが、そのまま蹴り挙げられれば、地獄絵図を見ることになる。男性であれば二度と体験したくない、あの地獄だ。
「大人しくシャワー入ってこい!」
莉子が怒鳴ると連藤も観念したのか、肩を落として莉子からゆっくりと離れた。
が、莉子が膝を下ろした瞬間、連藤が1歩踏み込んだ。
顔が間近だ。
透き通る白い肌。男のくせにキメが細かい。
目の下の本当に小さなホクロがある。
うまくかわされた眼鏡の奥の、色のない目……
その目は妙に艶があり、愁いがあって、莉子の胸がずきりと痛む。
押さえつけられた肩は少し痛い。
だがそれよりも、唇に、舌に、絡み当たる感触が頭の中を白く染めていく___
「あとでもっとじっくり教えてもらうからな」
連藤は自身の濡れた唇をなぞり、不敵に笑うと、扉奥の脱衣所へと移動していった。
ほどなくシャワーの音が聞こえてくるが、莉子はその場でうずくまったままだった。
「あの盲目ヤロー……」
口に出さずにはいられなかった。
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