自殺志願者
秋梨冬雪
自殺志願者
死んでみようと思った。
何か特別な理由があったわけではない。強いて理由を挙げるとするのなら、なんとなく、だ。そうだ、本でも買いに行こう。そうだ、星を見に行こう。それらと同じように、そうだ、死んでみよう、と思ったのだ。決断力と行動力が限りなく低く基本的に何の行動も起こさない。何もしないことが一番の危機回避だと言い訳のように自分に言い聞かせている僕だが、その反面、一度決心さえしてしまえばどんなことだってやれてしまう。僕にとって何かを決断するということはとてつもなくハードルが高い行為で、だからそれを越えてさえしまえばその後は、多少のハードルぐらい高さの検討すらせず蹴飛ばしていってしまう。例えば、突然仲良くもない女の子に告白してみたり。例えば、それなりの時間とお金をかけて集めていたカードゲームを全部売り払ってしまったり。小学生から続けていたサッカーをいきなり辞めてみたり。
だから今回も実行する気でいたし、そのためのプランは部屋の埃のように、いくらでも湧いて出てきた。だけどその時の僕は、こうした決断の上の行動がいつも芳しくない結果しかもたらさなかったことをすっかり失念していた。大きな決断を下すことができた自分に酔っていたのだ。まるで何十年も保持されてきた世界記録を塗り替えたかのような達成感だけに突き動かされていた。
死ぬ。そのことがつまらない日常を打破する素晴らしい名案のように思えた。未来が急に開けたような感覚。そうだ、方法は飛び降りにしよう。深く考えずそう決めた。死ぬことに抵抗は微塵もなかった。
自分の死が他の何かのせいにはされたくなかった。だから遺書は書かず、兆候を悟られないようにこれまでと全く同じように過ごした。何ヶ月、何年かぶりの決断をした高揚感でむしろいつもより元気だったぐらいだ。いじめを苦にしただとか、人生に絶望しただとか、ありふれた自殺と一緒にしてほしくなかった。あくまで途中のコンビニにちょっと立ち寄るように、ちょっと屋上から足を踏み出しただけなのだと、重大な決断ではなくほんの軽い気持ちで行ったものなのだと、そう判断してほしかった。自殺するという決断は軽いもので、決断するという決断がすごく重かったのだ。その事実は誤解されたくない。
だから当日まで特にすることはなかった。いつもと変わらない毎日。つまらない毎日。笑顔も怒りも悲しみも予定調和の、毎週同じことの繰り返し。一周が一週間のベルトコンベアに乗せられている気分。十周と少しで季節が変わる。ただそれだけ。
死んだことにはなるべく気づかれたくなかった。だから僕は実行日を金曜の夜に決めた。土日はいつも外出しない。大学もバイトも休みだから。そもそも講義に僕がいなくたって誰も気づかないかもしれない。気づかれたとしても、月曜なら土日に風邪でも引いたのだと解釈されるだろう。わざわざ心配して連絡をくれるような友達は僕にはいない。サークルでもきっと同様だろう。「そう言えばアイツ、最近見ないな」と。もしかしたらそのまま皆忘れてくれるかもしれない。間違いなくそれがベストだ。バイト先にだけは申し訳なく思うが仕方がない。こんな時でさえ自分勝手になれないのか。思わず笑ってしまう。小心者にもほどがある。この性格で僕はこれまで、どれだけの損を積み重ねてきたのだろう。
そして金曜日、講義が終わってその足で死ぬことにした。騒ぎにはなりたくない。一命を取り留めてはいけない。人がほぼ通らず、かつ確実に死ねるような場所を選ぶ必要がある。一見探しにくそうだが幸い僕は簡単に見つけることができた。ぼろぼろで立入禁止と書かれているビル。建物としての価値はなく、取り壊すにもお金がかかかる。もはや誰もに邪魔者扱いされているであろうそのビルだが、少なくとも僕には必要だった。自信を持て、僕はお前を必要としているんだ。そう励ましながら、薄暗く埃臭い階段を登っていく。お前を必要としているんだ。僕が言われたい言葉だった。
空は曇っていて、世界全体が灰色に塗りつぶされたかのようだ。まるで僕の人生のような色。ずっと薄靄がかかったかのように晴れなくて、白っぽくくすんでいた人生。誰かの平均値ばかりを歩み続けた人生。
屋上から通りと逆側に飛び降りれば、隣のビルとの間に落ちる。そこならしばらくは見つからないように思えた。いくらか綺麗な、だけど一般的に見ればおんぼろの部類に入る隣のそのビルに窓があるかは分からなかったが、もし見られたらその時はその時だ。詰めの甘さがいかにも自分らしいと思った。いかにもご都合主義的な解釈。僕の頭の悪さが如実に表れている。
あわよくば落ちてからも誰にも見つからないつもりでいた。だからまさか、落ちる前に人と鉢合わせするとは夢にも思っていなかった。さすがの僕も驚く。屋上には先客がいたのだ。
顔は見えなかった。くたびれた背広を着た彼は僕に背中を向けて、ポケットに両手を突っ込んで灰色の空を見上げていた。くたびれたシルエットとは対照的に、全身は艶やかな漆黒に塗りつぶされていて、長めの黒髪もどこか不安を装うように揺れる。その背中は僕とそう変わらない年齢に見えた。すると彼は徐ろに靴を脱いで、屋上のへりに並べて置いた。彼の革靴は傷だらけだった。
そうか、自殺する時は靴を並べるんだ。だけど僕は誰かにアピールしたいわけでもないし、履いたままにしておこうかな。先客を見つめながら、ぼんやりとそんなことを思った。
「おい」
この男は自殺する気だ。遅ればせながらそう気づくと、僕は無意識に叫んでいた。そのことに僕はまた驚く。
彼はまるでそこに僕がいることを知っていたかのように、気怠そうな動作でゆっくりと振り向いた。その目は真っ黒なサングラスで隠されていて、口元は時期尚早なマフラーに覆われていた。手に持っていた黒いシルクハットを目深に被ってさらに顔を隠したことで、僕からは鼻の先しか見えなくなった。
「何してんの」
僕は彼に一歩近づく。二人以外に動くものすら見えない静かな場所ではあったが、くすんだ空気に声が濁らされて届かない気がした。
「お前と同じじゃないか」
場違いに澄んだ、綺麗な声だった。芝居めいた仕草で耳にかかった髪を払う。
「自殺をしに」
「そうだ」
驚く素振りも見せずに即答された。不思議な感覚。似てるな、と思った。背格好も顔つきも声も全然違うけれど、僕らはどこか似た雰囲気を纏っている。僕は動揺している自分に気づく。落ち着かないまま口を開く。
「やめときなよ」
「へえ、止めるんだ。自分は死のうとしてるのに」
「それとこれとは話が別だ」
僕は何を言っているのだろう。なぜこの男を止めようとしているのだろう。見ず知らずの人を。自殺志願者の分際で。
同じ場所で死ねばあらぬ妄想をされてしまう。意味付けをされてしまう。関連付けられてしまう。それがこの上なく嫌だった。僕が死ぬことに意味は無いんだ、誰も見ない信号機と同様に。何の意味も見出せなくていいんだ。だから彼にここで死んでもらっては困る。そんな気持ちが原因だったのだと後から思い出して気づいた。
「僕の命はどうだっていいけど、君の命は違う」
男は馬鹿にしたような小さな嗤いをこぼす。
「ああ、確かに違う命だ。それは間違いない。だけど俺の命に価値があるのは、それはお前視点での話だろう? お前視点では自分自身がこの世で再底辺の人間で、自分以外の人間は自分よりもどこかしら優れているという点で等しく価値のある存在で、そいつらが死ぬくらいなら自分が死ぬべきだと思っているんだろうが、俺の視点から見れば、全く違う世界が見えているんだ。自分の価値観が絶対と思うな。自惚れるのもいい加減にしろ」
それでも自殺志願者か? と嘲るように言う。彼の乱暴な言葉はしかし僕の思いの一部を見事に、これ以上なく正確に代弁していて、それだけにふと心に落ちた。意外にも怒る気にはならない。
「なあ、ランダムドットステレオグラムって知ってるか?」
彼の口から突然飛び出てきたカタカナが聞き取れず首を捻ると、彼はそれを否定表現と受け取ったのか説明を始める。
「簡単に言えば、一見ただのドットの集まりにしか見えないが、焦点が合えば三次元の立体が浮かび上がって見える二次元画像のことだ。それ自体はQRコードみたいなやつを思い浮かべてくれればいい」
突然何を話し出すのだろう。怪訝に思ったが、彼の話に興味が湧いたので黙って聞く。彼は少し間をおいて僕を見たが、軽く鼻を鳴らして続ける。
「それがどうして立体に見えるのかというと、両目で捉える映像に差があるからだ。人間は右眼と左眼に映った映像を脳で統合するんだが、その際、左右の映像の差から立体を立体だと認識する。平面の絵ならどの角度から見ても同じ形の絵に見えるが、三次元の物体ならそうじゃないだろう? 見る角度によって、つまり右眼と左眼では違った形に見えるはずだ。だから平面の画像でも、左眼の像と右眼の像に立体の時と同じ分だけの差分を作ってやれば脳は立体として感知する」
分かったような分からないような気分で頷く。
「つまり、俺の言いたいことが分かるか?」
さっぱり分からない。今度は明確に否定の意を込めて首を捻る。まさか自分が二次元画像だ、なんて言うわけがない。
「駄目だな。それでも名門大学の学生か? 裏口入学を疑うレベルだ」
突然出てきた個人情報に驚く。
「どうして知ってるの」
「勘だ。当てずっぽう。自殺を志願しちゃうような甘ちゃんはモラトリアム真っ最中の大学生に一番多いのさ」
彼はけらけらと笑って言う。それだけでは「名門」とまで言い当てた理由までは説明できていないが、敢えて突っ込まず流しておく。
「つまりだな、青年。俺はこう言いたい訳だ。一つ目は――」
人差し指を僕の胸の方に突き刺し言う。彼の細長い指はそのまま真っすぐ伸び、僕の胸を貫いていった気がした。
「右眼と左眼、この僅か十センチにも満たないような差でさえ全く違う映像が見えているということ。いいか、右眼と左眼ですらそうなんだ。人が変われば尚更。世界の見方なんて立場や視点が少し変わっただけで驚くほど変わる。文字通り違う世界になる」
二つ目、と僕の胸にもう一本の指を突き刺す。
「で二つ目は、見えている世界は間違いばっかりだってことだ。脳が勝手に世界を偽っているんだよ。本当の世界はこうじゃないのかもしれない。あくまで脳が、人間の脳が人間の都合のいいように書き換えているだけなのかもしれない。目の前にある真実と俺たちが把握できる現実は、全く異なるものなのかもしれない」
実際、ヒトの目に見えないものなんて幾らでもあるだろ? と皮肉めいた笑みを浮かべる。僕は彼の言葉を素直に認めたくなかった。それは僕の決意を否定しているように聞こえたから。
「実際に大事なのは、人間が把握できる現実の方なんじゃないの? 百歩譲って、僕たちの思ってる現実が真実とは違うって認めるとしても、どっちにしろ人間が現実と思い込んでいる真実の方でしか、僕たちは物事を捉えられないんだから」
咄嗟に浮かんだ拙い反論を投げつける。
「違う。俺の主張はそこじゃない。人の脳の働きなんて、それこそ個人差の塊みたいなもんだろ。人の脳が介在している以上、その解釈にはふんだんに個人差が含まれるものにしかならないんだよ。真実なんて誰にも正しく見えてないし、人によって全く違ったものに見えているのかもしれない。俺が言いたいのはそういうことだ。二問完答で正解だな」
こんなの分かるわけない。僕は避難めいた視線を彼に向けるが、すぐに引っ込める。彼は敵じゃない。
「……僕を励まそうとしているの?」
「まさか」
そうは言うが目的は明らかだろう。自殺志願者が自殺志願者を止めようとしたら、逆に自殺志願者に止められたという構図なわけだ。笑えるぐらい皮肉めいている。
「ま、せめてその程度でも人の気持ちを察する能力があれば、中高とぼっち生活を送ることもなかったんだろうけどな」
「うるさい」
古傷を正面から抉られ僕は顔をしかめる。この発言にはさすがに不快感を隠せない。悪びれることさえしない彼から顔をそらした。
だけど彼の話は分かりやすく、面白かった。上手く表現できないが、自分に合っていると感じた。それは僕にとって初めての経験。多分この人は、――僕に似ている。ならばだからこそなおさら、死んでもらいたくはない。僕には上手くやれなかったこの世界で、上手くやって生きていってほしい。同情に似た心情で、自分よりはるかに出来のいい後輩を応援するように、僕はそう思った。こんなに言葉の達者な彼なら、できるような気がする。
「君はどうして?」
そんな彼がどうして死にたくなったのか、純粋な興味が湧いた。もし僕が彼のようなら、もっともっと素晴らしい毎日が過ごせているだろう。それなのに彼はどうして。
「言わない。説明しても無駄だ」
「なっ……何で」
彼は馬鹿にしたように鼻を鳴らす。これは彼の癖なのかもしれない。
「じゃあお前は、お前が死のうとした理由をちゃんと説明できるのか? お前が抱え込んだ思いの全てを余すことなく完璧に言葉に変換して順序立てて論理的に話すことができるのか? それを聞いた他人が、それを事実として納得した上で理解してくれると思うか? 共感してくれると思うか? それと同じことだ。自殺だなんて自己中心まっしぐらな行動には主観的な理由が必ずついてくる。だから他者に理解されることは絶対にない。中途半端に解釈され、共感した振りをされるぐらいなら誰にも理解されないほうがよっぽどマシだと、そう思わないか?」
僕は言葉を失った。彼の言葉に深く納得してしまったからだ。何より僕自身が、誰にも理解されなくていい、理解されたくないと思っていた。
「納得したよ。でもとにかく僕は、君に死んでほしくないんだ。……そうだ、これから一緒にどこか行こうよ」
普段は絶対にそんなこと言えなかっただろう。だけど一つの大きなハードルを越えた後の僕にとっては、どんなハードルだって石ころ同然なのだ。
「いいのか? お前も死ぬ機会を逃すことになるぞ?」
「構わない」
「そうか」
毅然とした態度で即答した僕に、彼は驚きを微塵も見せず頷く。反応の薄さに逆に驚かされた僕はそれを悟られないように言葉を繋げる。
「せっかくだし、普段行かないところに行こうよ。お洒落な服屋とか、レストランとか、カフェとか、バーとか」
一般的大学生が経験するであろうイベントを尽くスルーしてきた僕にとって、一種の憧れのようになっていたそれらの場所。時間が遅かったこともあり、実際に足を運べたのはいい雰囲気のバーだけだった。カップルやナンパ目当ての一人客が目立つ中、僕たちの存在はそれなりに浮いていた。とりとめのない話を続けたが、タブーのようにお互いの身の上だけは話題に上げなかった。僕は自分の話をしたくはなかった。それはきっと彼も同じ。
彼は素敵な人間であった。話していて不快感はない。飽きもしない。知識も豊富で、適度に会話量を調整している。食事中も会話中も帽子やサングラスは取らず、口に物を入れる時だけマフラーをずらす。なぜか見てはいけないもののような気がして、僕は彼の顔をほとんど見ていなかった。傍から見たら視線すら合わせない二人、しかも片方は奇妙な格好。よっぽど奇妙に見えるに違いない。
楽しい時間は――そう、驚くべきことに僕はこの時間を楽しいと感じていたのだ――すぐに終わる。いつの間にか終電が近づいていた。どちらともなく外に出て、軽く言葉を交わす。そして彼は軽く手を上げ去って行く。その背中を僕は呼び止める。今日彼とは散々話したが、あと一つ聞いておくべきことが残っている。
「ねえ、君は」
立ち去りかけた彼の背中に、僕は真っすぐ話しかける。
「君は、僕じゃないのか?」
ずっと不思議だった。一緒にいてこんなにもしっくりくる人間がいるなんて。彼はあまりにも僕のことを知りすぎている。それはまるで自分と会話しているかのようで。
極め付きは中高の話だ。僕は中高と友達がいなかったことを誰にも話していない。話せるほどの仲になった友人はいなかった。だから、このことは僕以外誰も知りようがないのだ。
彼が僕自身。そう考えれば、全てが腑に落ちる。
「……そうだ」
もったいぶることもなくそう言って、彼は振り向いた。
「気づかなかったらどうしようかと思ってたが、さすがにお前も俺だな。そこまで馬鹿じゃあない」
そう言いながら彼はサングラスとマフラーを外し、僕に投げ渡す。彼の素顔が晒される。初めて見せた、笑みの欠片。
なるほど確かに、彼の顔には僕と同じような雰囲気が見られたが、別人と言われればそう見える程度。「もう一人の自分」が登場すると思い込んでいた僕にとって、そのことは少し意外であった
「顔が似てないことか? 俺も最初は少し驚いた」
まるで僕の思考を読んでいるかのような。
「生活環境が少し変わるだけで、人格形成には大きな違いが出る。俺とお前は全く違う人生を歩んできたはずだ。それが顔つきまで変えたと、そういうことなのだろう」
そんなものなのだろうか。そんな簡単に、変わるものなのだろうか。
「お前、俺のことをどう思った? 羨ましいと思ったか?」
僕は頷く。僕は君のようになりたかった。少なくとも僕は僕でさえなければ、死のうとなんて思わなかった。
「だけどな、俺はお前なんだ。お前も俺なんだ。つまり、お前には俺になる可能性があるってことだ。ほんの少し環境が変わるだけでお前はいくらだって変わる可能性を秘めている。可能性を信じろ。だから、――死ぬな」
僕は呆気にとられたように無言で頷いた。僕に可能性? 僕に可能性があるなんて可能性、一切考えていなかった。
「だから頑張れ。俺の分も」
そう言うと彼は最後に帽子を地面に置いて、背を向けて今度こそ去っていった。闇に溶けていくように、その背中は消えていく。手元に残されたサングラスとマフラーを腕に抱え、しばらくその先を呆然と見つめていた。
僕にも可能性がある? じゃあ、僕も彼のようになれる? 他でもない彼に言われたことで、その言葉は僕の心に深く染み渡っていった。終わった過去は変わらない。だけどこれからの未来がどうなるかは分からない。ほんの些細なことでも、新しい変化が生まれる可能性はある。そういうことか。
「それなら」
僕は一歩歩き出す。行く場所は考えずとも浮かんでいた。落ちていた彼の帽子を拾い、大事に抱える。ほんの数時間の出来事が頭の中でぐるぐる回る。僕の拙い頭では消化しきれないほど。だけどするべきことだけは分かった。だからそれを目指し歩く。晴れやかな気分。決断するという決断抜きで決断できた。きっと他の皆は当然のようにしているのだろう。でも僕にとっては大きな、大きな前進だ。踏み出す一歩、変わっていく景色が新鮮に思える、ただの街中が、まるで僕のために拓いているような錯覚さえ覚える。ここは僕の世界だ。僕の道を開けろ。早く到着したい。知らず知らずのうちに歩みは早くなる。手に持つのが邪魔で、マフラーを乱雑に首に巻き付け、サングラスを胸ポケットに入れる。帽子を頭に載せ、歩く。歩く歩く歩く。
そして辿り着いたのは、例のビルの屋上だった。当然もう彼はいない。今度こそ一人きり。
僕は既に決断していた。ここから飛び降りることを。
時間が時間だ。終電はまだあるだろうか。この時間に僕が帰宅していない、その素振りも見せていないこと自体普段とは外れた行動だ。わざわざ深夜にこの場所にいることは計画された自殺を暗示する。だから僕があれだけ重視していた、理由も原因もない思いつきの自殺とは解釈され難い状態となってしまった。一度越えた決断というハードルは後戻りするのも容易い。この状況なら自殺することを諦めていたかもしれない。もしも、彼と出会っていなければ。
状況は変わったのだ。状況も変わり、僕も変わった。それまでは死ぬという決断をしたこと自体が重要で、実際に死ぬことに意味はなかった。だけど今の僕にとって、死ぬことが目的に変わったのだ。今はもう、死にたくて死にたくてたまらない。早くこの世から去りたい。これ以上この惨めな自分を世界に晒していたくない。
僕にも可能性はあると彼は言った。僕も彼のようになれるかもしれないと。その言葉は僕の胸を正確に刺し貫いた。それはもう、どうしようもなく手遅れでないか。彼はこう言った。『ほんの少し環境が変わるだけでお前はいくらだって変わる可能性を秘めている』確かにそうかもしれない。だけどそれは過去の話でしかないだろう。もう僕の人格形成はとうの昔に終わってしまっている。ここから僕が変わることなんて、どう考えたって無理に決まっている。
そして何より、僕にも可能性があったという事実が堪らなく辛かった。数ある可能性の中で僕は僕になってしまった。それは僕の失敗を糾弾しているようで。もっといい可能性はいくらでもあったのに。僕でさえなければもっと素晴らしい人間になれたのに。もっと素晴らしい人生を送れたのに。だけど僕は僕になるという、最悪の選択肢を引いてしまった。僕にはそう聞こえたのだ。可能性の無駄遣い。素質の持ち腐れ。彼に糾弾されているかのようだった。
だから僕は死ぬ。もうこんな自分、一秒たりとも世界に晒していたくない。僕は屋上の縁まで歩き、申し訳程度の柵を乗り越えようと片足を上げた。
その時。
「おい、何してんだ」
誰かの声が聞こえた。まさか。僕は全てを理解し、サングラスをかけるとゆっくり振り返る。
そこには、やや悄然とした顔で僕を見つめる一人の男がいた。
僕は不敵な笑みを浮かべ言う。
「君と一緒じゃないかな」
――きっと彼も、僕なのだろう。
自殺志願者 秋梨冬雪 @hakinashi
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