第58話 あなたのほかに私を殺せる男はいない──そう、思ってたのに
なぜか前方からも火の手が上がっていた。油の臭いが充満する。何者かがわざと放火して回っているとしか思えなかった。
「どうなってるの、これ。火元から離れていってるはずなのに」
ラトゥースが口を袖で隠した。咳き込む。ハダシュは点々と続く血痕をたどりながら答えた。
「誰かが火をつけてるんだろう」
「……証拠隠滅とか?」
そうかもしれないし、そうでないのかもしれなかった。ハダシュは無言で首を横に振った。刹那のバラの残り香がした。
後甲板の階段をつづら折りにくだる。手すりのある通路を進み、貨物室を区切るハッチをくぐり、急すぎるはしごをよろよろとつたい降りる。
広い空間に出た。船首に向かって、ずらりと木製の砲座、太い綱、そして漆黒の砲身が並んでいる。
ラトゥースは砲身の数をたどたどしく数えた。
「ここはたぶん上砲列甲板……ここよりまだ下にも砲列甲板があるはず」
ゴトッ、と音がした。前方の暗闇に何かが動く。
ハダシュは立ち止まった。手で動くなと合図し、自分だけ先に進む。
物陰に潜んでいた黒ずくめの賊が飛び出した。
ナイフを手に襲いかかってくる。
「っつ……!」
痛みに顔をゆがめながらハダシュは一撃をかわした。手近な木材を取って殴り倒す。首に命中。吹っ飛んだところにラトゥースが待ち構えていた。
「この、お邪魔むし!」
蹴っ飛ばす。
「ぐぶぁ!」
黒ずくめは股間を押さえて宙に舞い、
「
ラトゥースがグッとこぶしを握る。ハダシュは思わず首をちぢめた。眼をそらす。
「死球だろ……」
「平気よ。いつものブーツじゃないから」
分かっているのかいないのか。悪気なく堂々と開き直る。
どうやら、『いつものブーツ』をはいたラトゥースの前で不用心に突っ立つのはやめておいた方がよさそうだった。
砲甲板を通り過ぎる。血の跡は船底へと続くはしごでとぎれていた。
下をのぞく。うなずきかわした。降りてゆく。
通路はますます狭くなる。積み上げられた貨物や樽に行く手をはばまれ、思うように進めない。
真っ暗だった船倉に、赤い炎の照り返しが躍った。火口を思わせる蒸気が噴出する。身を寄せ合うハダシュとラトゥースの影が天井にまで達して、海の底のようにゆらゆらと揺れた。
「こんなところにまで火が来てる」
ラトゥースは両手をさすった。心もとない仕草で背後を振り返る。
青い瞳に、燃え広がる火が映り込んでいた。大きく揺らぐ。
もし、先ほど通り過ぎてきた砲甲板に火が回ったら。
もし、船倉に積み込んでいるであろう火薬や砲弾に引火したら。
もし、この先に出口がなかったら。
それでも、もう後戻りはできない。進むしかなかった。
ついに浸水が始まったのか、頭上から滝のような潮水と蒸気とが降り注ぎ始めた。水流を避け、足首まで濡れながら進む。
「この様子だとあんまり長くは持たないよね」
小声でラトゥースが言う。うつむく。
ハダシュは無事な方の手でラトゥースの手を探した。指先が触れる。気おくれするほどやわで、華奢で、かぼそい。
何も言わずつかんだ。引き寄せる。
「なっ、何」
「具合はどうだ」
ぶっきらぼうに訊いた。
「私なんかよりハダシュのほうがよっぽどひどい」
「どうってことねえよ。けがには慣れてる」
「自慢にならない」
一瞬だけ吹き出す。同時に、おずおずと握り返してくる感触があった。
「……あの」
「ん」
「……その、嫌いになった?」
「何が」
「……私のこと。ばかだと思ったでしょ」
「最初っからだろ」
「そこは……お互い様だとかなんとか言うとこでしょ。ばか!」
もう一度。今度はしっかりと互いの指をからめあわせ、離れ離れにならないよう、握り直す。
迷子の子どもみたいだった。どこへ向かえばいいのか分からないまま、互いの手をつないで、その心もとない感触だけを頼りに前へと進む。
突然。
闇に揺らぐ火と煙の彼方から声がした。
「ゆるしてくれ、命だけは。頼む、命だけは」
助命をせがむレグラムの嘆願。
「今の声」
ラトゥースがうながした。
手を繋いだまま、二人で走り出す。
ハッチを蹴倒す。壁の向こうは火の海だった。顔を焦がす熱気が、ごうっと吹きつける。
「どこだ、ヴェンデッタ。返事をしろ」
ハダシュは、足元に散らばる樽や浸水に浮かんだ木箱を叩きつぶし、払いのけながら進んだ。
熱気と、煙と、毒めいた空気が充満している。
肺の中に焼け付く鉛を流し込んだようだった。焼けついてがらがらになった声を振りしぼる。
「やめろ。ヴェンデッタ。そいつを殺したらおまえはもう」
何かをひどく押し倒す物音がした。悲鳴があがる。
真紅の幻影を見たような気がして、ハダシュは身をこわばらせた。
炎が揺れ動く。狭い天井と壁一面に、最期の瞬間を映し取った残酷な影絵が描き出された。
銃声。悲鳴。さらにもう一発。銃声。黒い飛沫が壁を汚す。
唐突に、断末魔の呻きが途切れた。
その場でハダシュはつんのめった。足下から水しぶきがあがる。大量の浸水が始まっていた。天井から熱水のシャワーが降り注ぐ。
どうしようもない量の熱と、海水と、煙。
炭と汚物を練り混ぜたような、泥まじりの水が足元を流れていた。
「どこだ、ヴェンデッタ。返事をしろ」
ハダシュは壁に身をあずけつつ、前に進もうとした。
蒸気が、視界を赤くうずめつくす。
ラトゥースが悲鳴を上げた。何かにつまづいたか。水しぶきをあげて倒れ込む。
血まみれの手がいきなり横から伸びた。
ラトゥースの襟首をつかむ。
「な、あわっ、はわぁっ!?」
じたばたと引きずられる。ラトゥースは頭から隔壁に開いた扉の奥へと引きずり込まれた。
扉が閉まる。
「あっ! おい、クレヴォー! おい!」
焦って扉を何度も殴りつける。
「うるさいわね」
戸が開いた。ハダシュは中へ飛び込んだ。身構える。
そこは、奇跡的に煙がさえぎられた区域だった。だが、浸水だけはもうどうにも防ぎようがない。くるぶしが海水に浸かった。みるみる水位が上がってゆく。
絶望が流れ込むにまかせた暗い水面を、ぼんやりと青く光る渦がいろどっていた。
夜光虫が放つ、はかなく、怖ろしく、美しすぎる死の色。
「馬鹿ばっかりね」
ヴェンデッタのきれいな顔は、返り血と涙と煤に汚れていた。
それを拭うでもなく、声や表情に残りの感情を混じらせるでもなく。毒気の抜けた、ぽっかりと風穴の空いたような表情をして。
つぶやく。
「わざわざ死にに来たの」
ラトゥースの襟首から手を離す。
「えっ」
まさか解放されるとは思わず、ラトゥースは虚をつかれた顔で前のめりによろけた。ハダシュの側に駆け戻る。
「まさか、助けてくれたの……?」
「ばかじゃない? すぐにころっとだまされて。こんなののどこがいいの」
ヴェンデッタは投げやりに鼻で笑った。
手にしていた銃を放り投げる。銃は鈍い水音を立てて沈んだ。
「あっ。私の」
ラトゥースはあわてて泥水に手を突っ込んだ。引き上げる。弾を撃ち尽くした銃は心外なほど軽かった。濡れた手が、夜光虫のせいで青白いまだらに染まる。
「もう、終わったわ。何もかも」
ヴェンデッタは、白く倦んだ吐息をついた。ハダシュの肩の傷と、ラトゥースとを交互に見やる。
感情を極限まで搾りつくしたあとの、脱力して呆けた目の奥にわずかな妬みの色が混ざった。
だがヴェンデッタは自身の傷ついた手を見下ろし、壁にもたれかかって苦しげな息をひとつもらすにとどめた。
どちらも、すでに力つきていた。
暗闇に光る青い涙。
「ばかね。さっさと逃げればよかったのに」
さっきと同じことをヴェンデッタは言った。
ラトゥースはぶるっとふるえた。銃床に刻まれた王国紋章を示し、言い返す。
「そうはいかないわ。王国巡察使として、ジゼラ・サヴィス。あなたを逮捕します。我が国の法に則り、正当な裁判を受けさせるために」
ヴェンデッタはラトゥースを無視してハダシュを見た。
「あなたには失望させられたわ」
指の先がかじかんで震えていた。頭にかかる水しぶきが、全身を退廃的な蛍光色に染めている。
「あなたのほかに私を殺せる男はいない──そう、思ってたのに」
黒薔薇を名乗り、女の身体を武器にありとあらゆる殺しを請け負ってきた美貌の暗殺者は、疲れ果てた顔で笑ってみせながら冷涼に吐き捨てた。
「まだ間に合う」
ハダシュは上を見上げた。はしごが続いている。闇と炎と煙の向こうに星が見えたような気がした。
手を差し出す。
「ヴェンデッタ、俺たちと一緒に来い」
それは、くしくもかつてのヴェンデッタと同じ言葉だった。
「今なら、まだ生きて戻れる」
「余計なお世話よ」
ヴェンデッタは、降りかかった水煙をまともに浴びてむせた。手を払いのける。
「どいてちょうだい。私には行くところがある」
「クレヴォーは他の役人どもとは違う。クレヴォーなら分かってくれる。おまえのことも、俺のことも、こいつなら全部分かってくれる。本当のことを話せば、きっと」
「お涙頂戴の三文芝居になんか興味ないわ。私はすべての血讐を為し終えた。残るはあと、ひとりだけ」
ヴェンデッタはいらだたしく震える声で、ハダシュを押しのけた。
傷ついた手をかばいながら、はしごをよじ登り始める。
「人はいずれ変わってしまう。どんなに幸せでも、どんなに愛していても、たったひとつの悪意がすべてを壊す。そのときまで腑抜けた夢でもぬくぬくと見ていなさいな。あとに残るのは後悔だけよ」
ヴェンデッタは冷ややかな予言を突きつける。
だがその眼の奥にこらえ切れぬ悔恨が揺れ動くのを、ハダシュは見逃さなかった。
「ギュスタも、ずっと後悔していた」
「そう。でも、どうでもいいわ。どうせ、もう」
長いため息が言葉を吹き消す。ヴェンデッタは虚無に満ちた笑いをもらした。驚くほど優しい眼で、ラトゥースを見下ろす。
「これで終わりだなんて思わないことね」
否定する気力はすでに萎えている。光に向かって前進するには、三人ともあまりに傷つきすぎていた。
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