第17話 決して届かない手の幻影

 信じられるものなど存在しない。

 自分自身の肉体さえ虐げ、ないがしろにしてきたというのに、他人のラトゥースが、なぜ、そんなものを容易に信じろなどと言えるのか。


 狂気が燃え上がった。衝動的な激情がほとばしる。


「ふざけるな。てめえに何が分かる」


 手に残ったガラスの酒瓶を、拒絶の意図も露わにラトゥースの足下めがけて叩きつける。

 血に濡れたガラスが粉々に砕け散った。飛び散った破片に、凍り付くラトゥースの表情が映し出される。ラトゥースが小さな悲鳴を上げて頬を押さえた。

 指先に血の色がにじんでいる。

 偶像が壊れる。ハダシュは絶句した。


 まばゆい記憶の中の微笑みが、嫌悪と恐怖に変わってゆく。


「ハダシュ」

 ラトゥースの眼に浮かんだ涙に、あきらかな戦慄が混じっていた。声が震えている。

「おねがい、信じて」


「うるせえッ」


 恐怖。

 ハダシュはラトゥースの目に浮かんだ拒絶の表情から逃げるようにして身をひるがえした。自らの過ちを写し出す真実の鏡。


「逃がすな。取り押さえろ」

 女軍人が叫んだ。


 ハダシュは追っ手にさえぎられる前に真っ暗な階段へと身を躍らせた。

 着地に失敗し、狭い階段を転がり落ちる。

 傷口が再び割れ、灼熱の痛みとなって足をつらぬいた。血がしぶく。


「奴を外に出すな」


 宿のそこかしこから扉を開け放つ音が響いた。

 衛視らしきいくつもの姿が飛び出してくる。

 背後から怒鳴り声が追いかけてきた。

 ハダシュは足を引きずって逃げた。血の跡をつけられようが構わなかった。


「ハダシュ、戻って来て」

 ラトゥースの悲鳴が追っ手の怒鳴り声にかき消されてゆく。

「行かないで。おねがい」


 ハダシュは声から逃げた。

 灯り一つない宿の廊下を一気に突き抜け、厳重に戸締まりしてある玄関の木戸を蹴破って外へと転がり出る。

 建て込んだ家々の塀をよじ登り、再び無様に転がり落ちながらも這いずり逃げる。

 潮の匂いがした。水の流れる音がする。運河が近い。

 ハダシュは闇雲に走り回って後を付けられる愚を怖れ、道端の側溝へと転がり込んだ。

 下水が流れてくるのも構わず、闇の中へと這い進む。

 間一髪、頭上を駆け抜けてゆくいくつもの光が見えた。


「探せ。まだ遠くには行っていないはずだ」

 先ほどの女軍人が怒鳴っている。


 歯を食いしばる。

 追跡の気配が遠ざかった。

 どうやら気付かれずにすんだらしい。

 ハダシュは再び悪臭漂う下水道の中を進み始めた。

 這いずり慣れた地獄をさらにたどってゆく。


 網の目のように張り巡らされた古代の下水道、時代に取り残された建物の壁と壁の間。


 そういった永遠の闇には、光のもとには決して現れないおぞましい生き物どもがうごめくことも少なくない。

 正常な判断力を持った人間ならば、決して足を踏み入れない場所だ。


 やがて前方に月の光が見えた。壊れた格子が立てかけられている。

 目の前は運河だった。

 水の中へと転がり落ちる。全身にまみれた汚物が潮に洗い流されてゆく。


 ハダシュはゆっくりと抜き手を切って運河の護岸へと泳ぎ着き、重い身体を持ち上げた。

 汚れた衣類を脱ぎ捨て、ざっと洗う。

 適当にうち広げて夜風に放置しつつ、全裸のままずるずると腰を落とし、膝を抱えてうずくまった。


 濡れた血の腐臭が海の匂いに混じって足元に広がる。

 これでは黒薔薇に殺されるより前に傷が腐って死ぬほうが早いだろう。

 レイスに見せたら今度こそ何を言われるか分からない。

 とはいえ無事に生き長らえて傷の治療を任せられる未来があるようにも思えなかった。結局どうでもよくなって自嘲気味に喘ぎ笑う。


「くそ、信じられるか。あんな」


 強がりでさえ最後までもたなかった。

 押さえても押さえても、破れた傷口から血が流れ出し、なまぬるく手を汚す。

 止まらない。


「あんな女」


 獣のように喘ぐ。取り返しの付かぬ、御しきれない思いがこみ上げた。

 振り返った瞬間の、ラトゥースのまぶしい笑顔が。


(戻って来て)

 暗転する。悲痛な声。

(行かないで)


 それは後悔だった。

 目頭が無性に熱い。


 決して届かない手の幻影が虚しく消えてゆく。


 なぜこんなことになったのだろう。

 ずっとラトゥースの言葉に耳を傾けていたはずだった。なのに、分別のない幼稚な苛立ちに行動を支配され、理性を投げ棄ててしまった。

 暴力の衝動に突き動かされて正義から逃げ出そうとした。こんなはずではなかった。なぜだ。なぜ……


 自問せずとも答えは分かっていた。


 愚かだからだ。


 堪えきれず膝を抱え、突っ伏す。

 押さえた口から呻きがもれて腕に伝い落ちた。


 叶わぬ想いと知りつつもいつか自由の日々が来ることを虚ろに夢みて足掻く日々はいつ終わるのだろう。

 来年か。

 それとも、今か。

 ローエンに訪れた思いがけない人生の末路はどうだ。


 何の希望もない未来、血に濡れた石畳の上で、こぼれる内臓を鷲掴みにしてのたうちまわりながら息絶えてゆく運命など誰が好きこのんで受け入れるだろう。

 鴉につつかれ蠅にたかられ、とめどなくうごめく白蛆にまみれた死体となって、どこかの掃き溜めに無様に投げ棄てられ──

 翌日にはまた素知らぬ太陽が昇り、自分以外の人々はつつがなく暮らしてゆく。


 ラトゥースもきっと消えた殺し屋のことなど忘れてしまうに違いない。

 そこに、自分の居場所はない。


 ハダシュはこみ上げてくる嘔吐感に何度も身を折った。何もかも抉り出してしまいたかった。



「追え。逃すな」

 声を荒げて手勢を呼び集めるシェイルの後ろ姿に、ラトゥースはようやく恐慌を振り払った。

 逃げたハダシュを追う騒然とした幾つもの足音が、ふいに降りだした孤独な雨のようにラトゥースを押し包む。


「刃向かうようなら容赦なく斬り捨てよ」


 数人の部下を引きつれたシェイルが、ごうごうと燃える松明とサーベルを押っ取り刀で引っ提げ、駆け出してゆく。

 ラトゥースはうわずった制止の声を投げかけようとした。

「私も行くわ」


 振り返ったシェイルの鋭い目がみるみるけわしく、細くなってゆく。


「なりません」

 ラトゥースは雷に打たれたかのように立ちすくんだ。うろたえ、息を呑み、おずおずと手を伸ばそうとして。

「私も、行く……」


 届かない声だけが空しく暗がりへと吸い込まれる。

 ラトゥースは追いすがることもできずに凍り付いた。女軍人の靴音が遠ざかる。


 切羽詰まった形相の騎士たちが駆けつけてきた。

 ハダシュに殴られ瀕死状態になったベイツの傍らに屈み込もうとして、飛び散ったガラスにうめき声を上げる。


「姫」

 しぼり出すようなベイツの声に、ラトゥースは無理やり自分を引き戻した。

 側に駆け寄り、ひざまづいて傷を労ろうとする。


「来たらあきません」

 ベイツは弱々しく払いのける仕草だけをした。

「お召し物が、汚れ……」


 ラトゥースはふいにこみあげてくる悲鳴を手でふさいだ。

 涙混じりに笑い、励まそうとする。

「大丈夫よ、もうすぐお医者様が来られるわ」

「それより、えらいことが」


 ベイツは断末魔の息をすすり込んだ。


「聖堂が……たいへんなことに……」

「ベイツ!」

「……早よ行ってあげて、くだ……」

 声がふいに途絶える。


 ラトゥースが支えようとしたときにはもう、ベイツはがくりと首を落とし意識を失っていた。

 壁にもたれかかっていた身体が力なく滑り落ちる。


 その跡に人の形をした黒ずみがまざまざとかすれついているのを、ラトゥースは張り裂けそうな眼で見やった。

 襲ってきた自責の念に耐えかね、片手で顔を覆う。


「ここは私どもにお任せを」


 宿のあるじがラトゥースを無理やりベイツから引きはがした。


「姫には止ん事無き使命がございます。医者ならば、馭者ならば、探せばいくらでも探し出せましょう。ですが、姫様の果たすべき務めを代われる者はおりませぬ」


 背後から腕をとられては、抗うべくもない。

 ラトゥースは反射的に相手を睨み、何事かを言いかけて歯を食いしばった。

 結局言い返せず、気を失ったベイツに目をやる。


「分かったわ。とにかく聖堂に行ってみます。後はお願い」

 惑乱する思いを押し潰して、きびすを返す。


 心許なさは変わらない。何が起こったのか。何が起ころうとしているのか。

 いずれすべてが荒れ狂う怒濤の中に呑み込まれてしまうかのように思えて、今は、何をどう考えればいいのか、まるで見当も付かなかった。

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